富田村(読み)とんだむら

日本歴史地名大系 「富田村」の解説

富田村
とんだむら

[現在地名]高槻市富田町一―六丁目・昭和台しようわだい町一―二丁目・寿ことぶき町一―三丁目・さかえ町一―四丁目・川添かわぞえ一―二丁目・牧田まきた町・西にし町・柳川やながわ町一―二丁目・北柳川きたやながわ町・南総持寺みなみそうじじ町・北昭和台きたしようわだい町・大畑おおはた町・富田丘とんだおか町・芝生しぼう町二―四丁目・宮田みやだ町一丁目

東五百住ひがしよすみ・西五百住・宮田の各村の南にあり、南西は摂津国島下しましも馬場ばば(現茨木市)女瀬によぜ川中流右岸南方、安威あい川中流左岸北東方の富田台地上に位置する。高槻城下茨木いばらき(現同上)方面を結ぶ富田街道が北東から南西に抜ける。条里制の遺称とされる小字に三十六・北池(一)ノ坪・南池(一)ノ坪・十五など多数がある。

中世富田庄の地であったが、文明年間(一四六九―八七)本願寺蓮如がこの地に駐錫して一向宗道場(現教行寺)を開くや(大谷嫡流実記ほか)、寺内町が形成されたと考えられ、永正―大永(一五〇四―二八)の動乱期を経てしだいに北摂の一向宗徒の結集するところとなり、町場が整備されたと思われる。享禄四年(一五三一)六月、細川高国配下の将細川尹賢が木沢長政に追込まれて富田に入り、富田寺(現教行寺)に避難するなど(陽明文庫所蔵本「後法成寺尚通公記」同月五日・七日条)、戦乱に巻込まれることもあった。天文元年(一五三二)には一向衆は細川晴元と対立、細川勢と日蓮宗徒との連合軍によって摂津や和泉の一向宗寺院などが焼打ちされ、同年一二月二三日には薬師寺与一らを中心とする郡内武士による一向宗道場焼打ちで、ともに富田道場も焼亡した(私心記など)。同五年には天文法華の乱が起こり、晴元は本願寺に対し富田坊再興の下知状を下し(「天文日記」同年一〇月二〇日条ほか)、寺内町も復興したと考えられる。永禄一二年(一五六九)三月、芥川あくたがわ城主和田惟政の招きで上京したルイス・フロイスはその途次「一向宗派のトンダジナイと称する地に着」いたが(一五六九年六月一日「ルイス・フロイス書簡」耶蘇会士日本通信)、その直前に町民が疫病で一千人余死亡したので僧院外の旅館に宿泊したという。同年九月足利義昭を擁して摂津進出を図った織田信長は寺内を弾圧、「富田寺外破之、寺内調有之」(「言継卿記」同月三〇日条)という状況のなかで、いわゆる一向宗徒の寺内支配は崩壊した。これ以後信長配下の分国大名は富田の市町の掌握に努め、高槻城主高山右近の播磨国明石あかし移封後の天正一三年(一五八五)九月には、羽柴小吉秀勝が「富田宿久」すなわち宿老中に禁制を与えている(清水家文書)

富田村
とんだむら

[現在地名]新南陽市大字富田

山陽道沿いの街村で東北はかみ(現徳山市)、北は下上しもかみ村・小畑おばた(現徳山市)、西は福川ふくがわ村に接し、南は海に面するが、南海上に浮ぶせん島とその西に続く黒髪くろかみ島の北半、たけ島・なかノ島なども村域とする。徳山藩領。

古代は「和名抄」記載の富田郷の郷域に含まれていたと思われるが、別に平野ひらの郷もあり、村内平野はその遺名といわれる。中世期には国衙領富田保・平野保があり東大寺領となっていたが、富田保の地頭職は大内氏の一族陶氏が補任される例となっており、南北朝期には陶氏の居館が近くの富岡とみおか(現徳山市)に築かれ、この地方を支配した。

慶長五年(一六〇〇)の検地帳は、富田郷として総高二千五三二石八升九合を記すが、同一五年の検地帳では同じく富田郷で高五千二七二石余、うち田方が二六六町余で四千一二六石余、畠方が一四四町余で五二一石余、百姓屋敷五二四、市屋敷九三、浦屋敷一三一、浦浮役九七石余、塩浜方七〇石余、小物成三九石余とある。

毛利輝元は元和七年(一六二一)次男就隆に分知の一部替地として富田五千七三七石の地を約束したが、翌年富田で五千三三九石四斗一升七合を打ち渡している(毛利家文書)

富田村
とみたむら

[現在地名]郡山市富田町・希望きぼうおか日吉ひよしおかうねめ町うねめまちなど

郡山村の北東、逢瀬おうせ川北岸の河岸段丘と平地に立地。字向館むかいだてに中世、安積伊東氏流の富田氏の居館(富田館・南館・本郷館ともいう)があった。応永一一年(一四〇四)頃のものと推定される国人一揆傘連判断簡(秋田藩家蔵白川文書)に、「富田 藤原祐昌」とみえる。永享一一年(一四三九)三月富田氏祐は安積あさか郡の相殿八幡宮(現宇奈己呂和気神社)の神役について、蘆名盛久の意を受け同社に三年に一度幟と田一町ごとに米一斗と銭一〇〇文の寄進をするよう一族に命じている(同月一八日「富田氏祐書下」相殿八幡文書)。この書下に関連するとみられる同年頃のものと推定される安積三郷田地注文(同文書)に中郷のうちとして「富田七丁 上大島四丁 下大島四丁」とみえる。上大島・下大島は地内に比定される。天文一七年(一五四八)頃と推定される八月八日の足利義輝御内書(青山文書)は伊達氏の天文の乱をやめさせるよう蘆名盛舜に命じているが、この袖書に「安積郡富田村 富田左文」とあり富田氏は蘆名家に臣従していた。

富田村
とみだむら

[現在地名]大平町富田

北に太平山に連なるなか山の南端が迫り、西に友田ともだ山がそびえ、東方を永野ながの川が南流する。例幣使街道富田宿を形成し、本陣も置かれた。南は新井あらい村、北は下皆川しもみながわ村と接する。中世は中泉なかいずみ(西御庄)の内で、応永二四年(一四一七)七月二四日の某書下(松平基則氏所蔵文書)に「西御庄内富田郷」とみえ、当郷などの知行を小山満泰が認められている。これより先、観応元年(一三五〇)より永徳二年(一三八二)の間、小山義政の時代に作成されたと推定される某所領注文案(小山文書)には「中泉庄加納牧野・榎本・山田・富田」とある。戦国期とみられる二月八日の岡本秀卓宛小山秀綱書状(若松文書)によれば、秀綱は富田領中に在陣している。天正期(一五七三―九二)の一〇月二六日の近藤綱秀書状(小島唯一文書)によれば、榎本えのもと城主の綱秀は榎本周辺の動静を備州某に伝え、天明てんみよう(現佐野市)の鋳物師の指南を依頼している。

富田村
とみたむら

[現在地名]弘前市富田一―三丁目・吉野よしの町・桜林さくらばやし町・富士見ふじみ町・西ヶ丘にしがおか町・寒沢かんざわ町・桔梗野ききようの一―五丁目・樹木じゆもく一―五丁目・大富おおとみ町・富野とみの町・文京ぶんきよう町・富田町・南富田みなみとみた町・豊原とよはら一―二丁目・みのり町・清富きよとみ町・旭ヶ丘あさひがおか一―二丁目・緑ヶ丘みどりがおか一―三丁目・清水しみず一―三丁目・若葉わかば一―二丁目・清水富田しみずとみた

弘前城下の南に隣接し、北は土手どて町、東は富田町に接し、南は原ヶ平はらがたい村に続く。

貞享四年(一六八七)の検地帳に和徳わつとく村の支村とあり、村高一〇八一・九六五石、うち田方二九一・六六八石、畑方七九〇・二九七石、畑作中心の村である。

富田村
とんだむら

[現在地名]びわ町富田

十九じつく村の北に位置。留田とも記した。村南部の八幡神社境内の江戸時代後期とされる石造道標に「右山本、左竹生嶋道」と刻まれ、竹生ちくぶ島への参詣道が通る。中世は富田庄に属した。川崎家伝有の絵図(滋賀大学経済学部付属史料館蔵)によれば、古くは墾田こんだと称していたという。地内に古代条里地割の名残と考えられる地名があり、文政期(一八一八―三〇)の阿部文書に北一ノ坪・三ノ坪・北七ノ坪・十三・ハタチなどがみえ、また上佃・大海道・南海道なども記される。天正一四年(一五八六)八月二日の吉村良頼等連署定状(阿部文書)に「とんた村大工」とある。浅井郡検地帳(東浅井郡志)による天正検地高七五六石余に対し慶長七年(一六〇二)の検地高は七六九石余。寛永石高帳では大名堀利長領、元禄郷帳では幕府領と旗本西郷領。幕府領六六二石余は宝暦八年(一七五八)より遠江浜松藩領、幕末には出羽山形藩領。西郷領は一〇七石余で変わらず。

富田村
とみたむら

[現在地名]岩井市富田とみた

半谷はんや村の南に所在。「和名抄」のさしまとうだ郷は当村付近とみられる。現猿島さしま郡境町の大照だいしよう院蔵の鎌倉時代の曼荼羅両界は当村「堀之内」の地頭飯田氏の寄進によるという。戦国期に成立したと推定される覚(宗任神社蔵)

<資料は省略されています>

とあり、半谷村とともに冨田郷を形成していた。天正二年(一五七四)の古河公方足利義氏料所目録(喜連川文書)には「とミ田・半谷 芳春院」とみえ、現古河こが市にあった芳春ほうしゆん(のちの徳源院)の領地であった。

富田村
とうだむら

[現在地名]尼崎市東園田町ひがしそのだちよう一―五丁目

穴太あのう村の東に位置し、北は豊島てしま利倉とくら(現大阪府豊中市)、東は猪名いな川を隔てて同郡上津島こうづしま(現同市)川を分けて南下してきた猪名川がS字を横にした形で村の北部を深く区切るため、常に水害に悩まされてきた。天正一四年(一五八六)一〇月四日の堀田三左衛門尉宛豊臣秀吉領知朱印状(尼崎市教育委員会所蔵文書)に「川辺郡富田村赤見分」四三〇石とみえる。慶長国絵図に畠田村とみえ高五一五石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳に富田村とあり、正保郷帳には「トウタ」と振仮名が付される。

富田村
とみたむら

[現在地名]五城目町富津内富田ふつないとみた

内川うちかわ川と富津内川の合流点左岸の小集落。北は黒土くろつち村、西は山内さんない村と接する。

慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)に「百廿六石六斗八升 五十目庄之内 富田村 おうなこ村」とある。「おうなこ村」は「ヲナコ」(明治一六年「南秋田郡分図」県立秋田図書館蔵)の字名として残る。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に記される「弐百八拾三石弐斗八合 大なミむら」は「大なこむら」の誤記と考えられる。

富田村
とみたむら

[現在地名]津幡町富田

竹橋たけのはし村の北東、津幡川上流(笠野川)刈安かりやす川の合流点下流の右岸山麓に位置。「とびた」ともよばれた(圭邑名林)。「源平盛衰記」巻二九によれば、寿永二年(一一八三)五月一一日倶利伽羅くりから峠の合戦に際して、木曾義仲軍の別動隊樋口兼光は加賀国住人林・富樫氏ら三千余騎を率い「笠野・富田ヲ打廻」り、竹橋の搦手に向かった。暦応二年(一三三九)頃の白山宮の神免田のうち灯油田に「富田一段」とあるのは(三宮古記)、当地と推定される。永正一六年(一五一九)一〇月、遊行二四世不外は梅田うめだ(現金沢市)光摂こうしよう寺から越中に赴く途中、当地の花林寺に立寄り「霜にいまみるさへ花の林哉」と詠んでいる(遊行二十四祖御修行記)

富田村
とみたむら

[現在地名]浜松市白鳥町しろとりちよう

一色いつしき村の北、天竜川右岸の堤防沿いに位置。豊田郡に属する。東海道の天竜川渡船場(池田渡)があり、東対岸は池田いけだ(現豊田町)。嘉応三年(一一七一)二月日の池田庄立券状写(松尾大社文書)にみえる富田郷は当地に比定される。池田庄の示に「壱所艮富田郷拾坪匂坂境古河」とみえるほか、富田には田三町五反三六歩、見作三反三六歩・田代三二反、畠一町四反一丈、常荒三〇、野一一町のほか、河・河原、在家一宇があり、これらは一里一坪から一八坪までに存在した。

松平忠頼領郷村帳に飛田村とみえ高三七石余、田一町九反余・畑三町四反余、ほかに子安こやす大明神(現子安神社)領四石。

富田村
とみだむら

[現在地名]成東町富田

津辺つべ村の東にあり、銚子に至る道が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一千三八〇石。幕末までほぼ同高。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では成東下組に属し、旗本秋山領。安永三年(一七七四)の武射郡各村高支配帳(渡辺家文書)では佐倉藩領と旗本山口・土屋・小栗・酒井(坂井)・秋田・大久保領。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では佐倉藩領が三卿の清水領に変わっており、家数一三二。

富田村
とみたむら

[現在地名]菊川町富田

倉沢くらさわ村の西、菊川支流の富田川流域一帯を占める広域の村。地元ではトビタともいう。正保郷帳によると田方三五三石余・畑方二〇二石余、「日損」「松山」「はへ山」「新田有」の注記がある。幕府領。ほかに善福ぜんぷく寺領五石。元禄郷帳では高五八四石余、国立史料館本同郷帳によると幕府領。享保郷村高帳では掛川藩領二四六石余・旗本駒井領三三〇石余。その後幕府領を経て寛政六年(一七九四)三卿の一橋領となる。なおこのとき村は東組三三〇石余・西組二四六石余に分けられていた(一橋家領郷村高帳写)

富田村
とみだむら

[現在地名]寄居町富田

赤浜あかはま村の南に位置し、東は牟礼むれい村。北部は江南こうなん台地で、南部は比企丘陵へ続く尾根となる。西の露梨子つゆなし村との境を塩沢しおざわ川、中央部を吉野よしの川が流れる。富田地内谷津やつ地区の大日堂の大日如来坐像には天正三年(一五七五)一二月一五日の年紀をもつ胎内墨書銘があり、「男衾郡富田郷」とみえる。同二〇年三月、武川衆は徳川氏から「とみ田之郷」で三五九石余、「西富田郷」で一石余を宛行われているが(記録御用所本古文書)、後者は児玉郡富田(現本庄市)の可能性もある。

富田村
とみたむら

[現在地名]仙台市富田

鈎取かぎとり村の南、名取川左岸の河岸段丘上に立地し、全体に北が高く南が低い緩斜面となっている。東部は海老沢えびさわ堀や木流きながし堀で富沢とみざわ村と接し、南は名取川を隔てて熊野堂くまのどう(現名取市)。正保郷帳に田三五貫一七一文・畑七貫二〇文とある。「封内風土記」によると戸数は二〇。幕末と思われる村毎貫高付(斎藤報恩会蔵)では一一五貫五二一文。木流堀は当村の名取川から水を入れ、根岸ねぎし村の広瀬川まで山田やまだ・鈎取両村の木材や当村の農産物を城下に運ぶために江戸時代初期に開削された。

富田村
とみたむら

[現在地名]舟形町富田

舟杉村の南西に位置する。東方猿羽根さばね山をめぐるように流れる最上川に東・南辺を、北・西辺を最上小国もがみおぐに川に画され、両川が当地で合流する。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる「避翼」駅を当地に比定する説もある。古くは猿羽根村と称し、文政年間(一八一八―三〇)には富田村と改めたとされ(新田本村鑑)、その後も猿羽根・富田が併用された。新田本村鑑は折渡おりわたり絹縫きぬぬい長者ちようじやはら(長者原)など枝郷として六ヵ村をあげるが、最上小国川北岸の長者原村は元禄一六年(一七〇三)に分離した。

富田村
とみだむら

[現在地名]東海市富木島ふきしま

東西に細長く、東に丘陵地が多い。富田川が村北を東から西へ流れる。北は平島ひらしま村、東は長草ながくさ(現大府市)に接する。冨田の地名は、「元亨釈書」に「釈良忍、尾州富田の人也」とある。

在原業平伝説があり、冨田出身の下女八ッ橋が業平の男児を産み、業平が京に帰る際、この地で暮した。御所屋敷ごしよやしき車返くるまがえし・車池くるまいけなどの地名は、業平にちなんだものという。貴船きぶね神社は業平が京都から勧請したと伝え、村の北に業平塚といわれる鎌倉期の五輪塔、室町期の五輪塔群がある。

富田村
とみたむら

[現在地名]豊田市富田町

矢作川上流部の富国橋の北に位置し、西側を犬伏いぬぶせ川が流れる。あしさわ柳沢やなぎさわという小字があり、山が険しい地域である。貞治三年(一三六四)の猿投神社の上葺勧進帳断簡(猿投神社文書)に「四百文 富田郷」「五百文 富田左衛門二郎殿」とあり、「富田」の名がみえる。また力石如意ちからいしによい寺蔵文和三年(一三五四)銘の絹本著色親鸞上人絵伝の添状に「大施主富田性善房門弟」とある。高橋たかはし庄司中条氏の被官に富田氏がいたものと思われる。なお、貞治三年成立と推定される「三河念仏相承日記」に「三河ヨリ高田ヘマイルヒトビトノ事」として「性善房和田(慶)円坊兄也」と記し、野寺のでら(現安城市)本証ほんしよう寺開基の慶円の兄として性善房の名がみえる。

富田村
とんだむら

[現在地名]新富町上富田かみとんだ下富田しもとんだ

日向灘に注ぐ一ッ瀬川河口左岸に位置し、北は三納代みなしろ村、東は日向灘に面する。豊後街道が南北に通る。天正一六年(一五八八)八月四日の日向国知行方目録に富田八〇町とあり、島津豊久に宛行われている。慶長五年(一六〇〇)から同八年の徳川氏代官預の時期を除き、幕末まで島津氏(佐土原藩)領。寛文七年(一六六七)佐土原藩領之図(県立図書館蔵)では高二千九六九石余。貞享元年(一六八四)の佐土原領郷村高辻帳(佐土原島津家文書)では高二千九二二石余。

富田村
とみたむら

[現在地名]岡山市富田・神田町かんだちよう一―二丁目・十日市西町とおかいちにしまち

新保しんぼう村の北西にあり、東は十日市村、南は青江あおえ村、北は奥内おくうち村・東古松ひがしふるまつ村。寛永備前国絵図・正保郷帳・宝永五年(一七〇八)の岡山藩領郷村高辻帳では福長ふくなが村とあり、福永村とも記された(備陽記)。享保二年(一七一七)富田村と改称された(撮要録)。寛永備前国絵図では高五六一石余。「備陽記」によると田畑三三町二反余、家数四八・人数二五七。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高八八〇石余、家老日置元八郎の給地。田高五九二石余・畑高三三石余、家数六七、うち六一軒が城下二日市ふつかいち町日蓮宗妙勝みようしよう寺、残りは浜野はまの村同宗松寿しようじゆ(三軒)米倉よねぐら村臨済宗常慶じようけい(二軒)七日市なのかいち村真言宗最城さいじよう(一軒)の檀家。

富田村
とみたむら

[現在地名]岩城町富田

ころも川の中流にあり、北は泉田いずみだ村、南は亀田かめだ町に接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に、赤尾津あこうづ郷の中に村名がある。「梅津政景日記」寛永二年(一六二五)八月二〇日条に飛田村とある。同年には四八九石、免六ツ二分である(油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写)。正保三年(一六四六)には「小川有 旱損所」(「出羽国油利郡内高目録」秋田県庁蔵)とあるが、その後、村の西に升田沢ますだざわ用水池を築くなど、旱害の解消に努めた(羽後国由利郡村誌)。字板敷いたじきで衣川より取水する大野おおの堰は、鎌倉時代に築かれたという伝承をもつ。

富田村
とみたむら

[現在地名]鉾田町上富田かみとみた下富田しもとみた

ともえ川北岸の丘陵上にあり、東南は鳥栖とりのす村。天福二年(一二三四)一〇月二一日の烟田秀幹譲状(烟田文書)

<資料は省略されています>

とあり、秀幹以降烟田氏の四ヵ村地頭職の一村として相伝された。応永年間(一三九四―一四二八)惣領鹿島出羽守憲幹と鹿島神宮社人間の紛争の余波を受け、惣領と同様に所領を没収され、当村は一時小鶴修理亮の支配に代わり、没収地返還を求める烟田氏と正当を主張する小鶴氏との間に二〇年に及ぶ訴訟が続いた。

富田村
とみだむら

[現在地名]喬木村富田

現喬木村の南部に位置。北東は小川おがわ村、南は柏原かしわばら村・上虎岩かみとらいわ(現飯田市)、西は下虎岩しもとらいわ(現飯田市)に接する盆地状の集落である。

初め小川村の枝郷で、富田という地名の起りは小川の「飛田とびた」からきたといわれる。しかし戦国期の武田氏支配の頃は既に独立村の状態であり、元亀二年(一五七一)三月の大島城(現松川町元大島)普請に関する武田信玄朱印状には「冨田」とあり、「小川」とは別記されている。

富田村
とみだむら

[現在地名]尾西市冨田

西は木曾川に沿い七〇〇間ほどの堤防が連なり、北はおこし宿で、美濃路が村の東の端を南北に「六百三十間」にわたって通っている。江戸時代以来起宿との家並が連なる。概高三八三石九斗余の本田のほか、二石八升余古川ふるかわ新田、一〇石五斗余酉新田(寛文九年検地)を合わせて三九六石五斗余の村で、寛文(一六六一―七三)の頃、戸口六七軒・三五九人であったが、天保一二年(一八四一)には一三〇軒・六〇九人となる(寛文覚書、天保村絵図)

富田村
とみだむら

[現在地名]前橋市富田町

東を荒砥あらと川が南流し、南は小島田こじまた村、西は江木えぎ村、北は大胡おおご(現勢多郡大胡町)。元和九年(一六二三)の富田之郷根元記(富田町有文書)があり、天正一六年(一五八八)に当地に来住した六家、同一七年来住の五家、文禄二年(一五九三)までの一一家、慶長一〇年(一六〇五)から同一三年の四家、元和八年来住の一家など草分の由緒が書上げられている。寛文郷帳に田方五五一石八斗余・畑方四二石九斗余とあり、「但松林雑木林芝野在」と注記される。

富田村
とみたむら

[現在地名]麻生町富田

霞ヶ浦の東岸にあり、北は粗毛ほぼけ村、南は永山ながやま(現牛堀町)。「和名抄」にいう香澄かすみ郷の本郷の地とされ(新編常陸国誌)、「常陸国風土記」に「郡の南二十里に香澄の里あり」とある。同書では香澄の地名の起りを景行天皇が下総の印波の鳥見いなみのとみの丘から東方を眺め、侍臣に「海は即ち青波浩行ただよひ、陸は是丹霞にのかすみ空朦たなびけり。国は其の中より朕が目に見ゆ」と勅したことにちなむという。中世は木田見きたみ郷に属し大掾氏の一族富田氏の本拠で、応安年間(一三六八―七五)の海夫注文(香取文書)に「とみたの津かめおか知行分」とある。富田氏は天文五年(一五三六)二月、島崎氏に従い玉造氏と戦って領地を失った(常陸誌料、常陸三家譜)

富田村
とみだむら

[現在地名]鮫川村富田

赤坂西野あかさかにしの村・赤坂中野あかさかなかの村の南、阿武隈高地南部の鮫川支流富田川沿いの丘陵に立地。天文年間(一五三二―五五)菅生伯耆守が拠った菅生すごう館跡があり、菅生村ともいった。永正七年(一五一〇)七月吉日の結城政朝寄進状(八槻文書)に「山菅生湯川在家」とみえ、八槻やつき(現棚倉町)近津ちかつ明神(現都々古別神社)に寄進されている。天文一七年一一月一四日の菅生衡益押書および同年一二月一三日の斑目常基証状(同文書)によれば、菅生村のうち五貫文の地から三年に一度近津明神祭礼の御頭屋役を勤めていた。

慶長八年(一六〇三)の常世之内北野村縄打帳(福島県史)に富田村とみえるが、正保郷帳・元禄郷帳には菅生村とあり、天和三年(一六八三)に富田村と改称したといわれる。

富田村
とみだむら

[現在地名]若葉区富田町とみたちよう

中田なかつた村の東にあり、東部は小間子おまご牧に接する。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳に村名がみえ、中田村などとともに五〇間の道普請を負担。文禄二年(一五九三)から旗本滝川領になったとされる。元禄一二年(一六九九)から旗本戸田領となり、幕末に至る。同一一年の田三〇町余・畑屋敷一五町一反余(猪野家文書)。同一三年頃の下総国各村級分では高三五一石余。天保四年(一八三三)の年貢米三二九俵のうち一九四俵と大豆一三俵余を曾我野そがの(現中央区)に津出ししている(仲田家文書)

富田村
とみだむら

[現在地名]岩村町富田

城下町岩村の北にあり、北と西は飯羽間いいばま村、東は阿木あぎ(現中津川市)。枝郷に大円寺だいえんじ村があった。慶長六年(一六〇一)以後幕末まで岩村藩領。慶長郷帳に村名がみえ、高一千六一三石とある。正保郷帳では田方八八三石余・畑方三八〇石余、無地高三四九石余。助郷は中山道大井おおい宿(現恵那市)に出る。城山・水晶山や大藪などが藩有であったため、富田村・大円寺村には近くに農民の持山がなかった。その代地として与えられたのは、かみ村のうち(現上矢作町)地内であった。そこへ至るには岩村を経て木ノ実峠を越え、馬によって運搬した。

富田村
とみだむら

[現在地名]三原町神代富田じんだいとみだ

地頭方じとほう村の東にある。もと円行寺えんぎようじ原のうち富田原といわれた地が開発されて成立した(味地草)天保郷帳に富田村とあり、高一一石余。反別戸数取調書では反別六町六反余、高は天保郷帳に同じ。うち蔵入高一石余・給知高九石余。給人は中尾半。家数三二・人数一七一。八木組に所属し、庄屋は天保五年(一八三四)書写の庄屋名面帳(高田慎二氏所蔵文書)では堤儀左衛門。

富田村
とみたむら

[現在地名]小見川町富田

下小堀しもこぼり村の北西に位置する同村の枝郷。東に利根川の遊水池八丁面はつちようめんが広がり、銚子道が通る。寛文四年(一六六四)の内田正衆領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、下野鹿沼藩領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四五一石余で同藩領と幕府領。享保九年(一七二四)小見川藩領となる。宝暦一三年(一七六三)の取米一九四石余で小物成永一貫六八一文・粟役四三六文、家数七三・人数四二三(高野家文書)。天保九年(一八三八)の小見川藩領郷村高辻帳(関家文書)では高四五一石余が同藩領。同一〇年の水野氏領十四村高帳(多田家文書)では遠江浜松藩領になっている。

富田村
とみだむら

[現在地名]君津市富田

寺沢てらさわ村の南、小櫃おびつ川中流左岸に位置する。西方上総丘陵を背に集落を構え、東は川を渡り市場いちば村。近世中期以降舟運が盛んになり、新河岸の下富田河岸が設けられた(吉田家文書)。同河岸からやや上流に武蔵川越藩の領主河岸である富田河岸(向郷村飛地)がある(「亀山領分見絵図」石井家蔵)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高八六石。元禄郷帳では高一〇一石余、天保郷帳・旧高旧領取調帳では高一一八石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩領で(寛文朱印留)、その後の領主の変遷は山本やまもと村と同じ。

富田村
とみたむら

[現在地名]矢板市富田・鹿島町かしまちよう東町あずまちよう末広町すえひろちよう扇町おうぎちよう一丁目

矢板村の南に位置する。慶安郷帳では高二五三石余、田方一九五石余・畑方五八石余、幕府領。元禄郷帳では高二五四石余で旗本水野領。延享四年(一七四七)下総佐倉藩領となり、幕末に至る。天保年間(一八三〇―四四)の家数二九(改革組合村)

富田村
とみたむら

[現在地名]穂高町大字有明ありあけ 富田

からす川左岸の氾濫原に開発された新田村。「信府統記」によると、嵩下たけのす村の枝郷として承応元年(一六五二)に開発され、明暦元年(一六五五)に検地を受けている。検地の結果一三町歩余が開発され、村高は八七石余である。土地の名請百姓は屋敷持一六人、抱百姓二人、他村からの入作者は本郷嵩下村八人、耳塚みみづか村三人、新屋あらや村一人がみられる。一町歩以上の地主は芝切の一町九段歩余を筆頭に三人のみである。

富田村
とみたむら

[現在地名]いわき市富津町とみつまち

さめ川下流右岸にあり、北の対岸は大津おおつ村・林崎はやしざき村。西は沼部ぬまべ村、東は後江栗うしろえぐり村。菊多きくた郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)泉藩領、元禄一五年(一七〇二)幕府領、延享三年(一七四六)以降泉藩領。元禄郷帳に村名がみえ、高三四七石余。延享四年の村明細帳(内藤家文書)によれば「富田村 但小大津村とも」に用水堰一ヵ所があり、小大津こおおつ(小津村とも)が村のうちとして扱われている。

富田村
とみだむら

[現在地名]海部町富田

櫛川くしかわ村の北東に位置し、東を海部川が南流する。慶長年間(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「とミた」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「とミ田村」と記される。寛永一一年の検地帳(海部町役場蔵)では高六三石余で、名請人二二。正保国絵図では「富田村 高六三石余新田」とあり、寛文四年(一六六四)の在古田出目并新田高帳でも同様に記載がされている。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では高七〇石余。「阿波志」によれば、土田は陸田二六町七反余、水田は水害が多く、支落の吉田よしだ村を含めた高五六九石余、家数二二・人数九八。

富田村
とみだむら

[現在地名]箕輪町大字中箕輪なかみのわ 富田

西は帯無おびなし山を背負い、北は帯無川を境として上古田かみふるた村、東は中曾根新田なかぞねしんでん村、南は吹上ふきあげ(現伊那市)に接する山麓の村。帯無川は帯無山を源とするが、上流で伏流となり、平時は砂礫だけである。昔は尾水無おみずなし川といったがなまって帯無川となったという。水の便の悪い村で、南方の大泉おおいずみ川の水利をも求めている。

富田村
とみだむら

[現在地名]太田市富若とみわか東新町ひがししんまち

若林わかばやし村の南、金山かなやま丘陵東方平地に位置し、南は安良岡やすらおか村、西は東金井ひがしかない村。西方を休泊きゆうはく堀、東方をにら川が南東流する。寛文郷帳によると館林藩領、田方二三一石余・畑方一三二石余。元禄郷帳では旗本前田領。江戸後期の御改革組合村高帳では同じく前田領、家数一〇。

富田村
とみだむら

[現在地名]吉良町富田

北は横須賀よこすか村、東は酒井さかい村、南は荻原おぎわら村に接し、西は矢作古やはぎふる川をもって大塚おおつか(現一色町)と境する。寛永郷帳の村高一〇六石余のうち五五石余が新田。このとき大多喜藩領。天明八年(一七八八)の年貢免状(吉良町有)によると、石高一千二七一石余、田の免五ツ三分、小物成に新田畑の見取・蒲売・口永がある。

富田村
とみたむら

[現在地名]御所市大字富田とみた

国見くにみ(二二九・四メートル)西麓に位置。西はじよう村。慶長郷帳・元和郷帳には「とひた村」とあり、新庄藩(桑山一晴)領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報