鉾田町(読み)ほこたまち

日本歴史地名大系 「鉾田町」の解説

鉾田町
ほこたまち

面積:一〇七・四六平方キロ

鹿島郡の北部に位置し、東は鹿島灘に臨む。北は旭村、東茨城郡茨城町、西は東茨城郡小川町、南は大洋村行方なめがた玉造たまつくり町・北浦村に接する。町の中央を南北に七瀬ななせ川が貫流し、南西部をともえ川が南東へ流れて北浦へ注ぐ。両河川流域には大小さまざまな谷津が発達して、鹿島台地起伏に富んだ地形をつくり、丘陵斜面の低地と河川流域に集落が点在する。

鹿島鉄道の鉾田駅を中心とする鉾田地区は町の商業・経済の中核をなし、近隣農村地区への物資の供給と農産物の集散地となっている。巴川や七瀬川の流域および北浦付近には豊かな水田地帯が開け、内陸部の台地では西瓜・甘薯・メロン・野菜類が栽培され、畜産養鶏も盛んである。

鉾田町
ほこでんちよう

中京区中町通夷川上ル

かも川の西側に位置し、南側を二条通東西に通る。

町名は、寛文以後万治以前京都全図に「ほこ天ノ町」とみえ、筆描図系では寛文後期洛中洛外之絵図に「ほこでん町」、天明六年(一七八六)京都洛中洛外絵図に「鉾田町」とある。木版図系では寛永版平安城東西南北町並之図に「了みん町」、寛文五年(一六六五)刊「京雀」に「そみん町」とある。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「鉾田町 此町又一名了町とも云」とあり、両町名が併用されていたようだ。天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成は「鉾田町」とある。

当町東側は、元禄頃は「馬のりばゝ」(元禄四年京大絵図)、天保頃には有栖川宮家の邸(天保二年改正京町絵図細見大成)であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報