堀之内村(読み)ほりのうちむら

日本歴史地名大系 「堀之内村」の解説

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]堀之内町堀之内

魚野うおの川左岸にある。両岸に開ける宇賀地平うがちだいらの中心集落。北の対岸は根小屋ねごや村、下流は支流の田河たがわ川を挟んで和長島わながしま村・田川たがわ村、上流は大石おおいし村、南は吉水よしみず村。集落は魚野川沿いを通る三国街道の両側にある。背後から吉水村を経て五箇ごか(現南魚沼郡大和町)境の栃原とちはら峠越で三国街道に結ばれる山道がある。この道は、万治元年(一六五八)に高田藩郡奉行大門与兵衛が、栃原峠を開削して当地と浦佐うらさ(現大和町)とをつないだもので、三国街道の道程が短縮された。「実隆公記」永正八年(一五一一)五月二七日条に「吉田有使者、越後国去十九日堀内図書等生害、一国平均太平云々」とある。三条西家では当地の土豪堀内図書が、永正の乱で長尾為景らの圧迫を受けて自殺、この結果国内が平穏となり、堀内図書に横領されていた青苧役銭が、京都三条西家に円滑に収納されるであろうと期待している。堀内図書は上杉顕定と長尾為景・上杉定実の争覇に際して顕定方にくみしている。郡内で産出された青苧は、小千谷おぢやの青苧座を通じて三条西家にその役銭が入ることになっていた。同書の同年一〇月一日条には「今日聞、越後事無為無事、苧荷多着若州云々」とあり、堀内図書死後、越後が平和となり、青苧が順調に若狭に到着したことを喜びとしている。天文二一年(一五五二)五月一五日の平子孫太郎宛の加治定次書状ならびに同年一〇月一〇日の宇佐美定満書状(以上平子文書)によると「ほり之内」および「田河本領」などを領有していた多却小三郎が没したので、ひう(現小千谷市)の平子孫太郎が多却氏の旧領を懇望している。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]所沢市山口やまぐち

打越うちこし村の東にあり、南部を柳瀬やなせ川が東流する。狭山丘陵山口谷の村々の一つで、村名は打越村にあった山口城の外郭の堀の内にあることにちなむという。入間いるま郡山口領に属した(風土記稿)島堀之内じまほりのうち村に対し、山口堀之内ともいう。田園簿に堀ノ内村とみえ、田二八石余・畑三九石余。日損場と注記される。幕府領でほかに勝光しようこう寺領二〇石・来迎らいごう寺領一〇石があった。幕末まで幕府領。検地は寛文八年(一六六八)に行われた(風土記稿)。享保一〇年(一七二五)に開発に着手した山口堀之内新田があり、延享期(一七四四―四八)の反別は一六町三反余(「元文寛保延享里正日誌」東京都内野家文書)。化政期の家数一九、勝光寺領分の家数三(風土記稿)。慶応二年(一八六六)の家数一六・人数八四(「組合村々高家数人別書上帳」岩岡家文書)。尾張徳川家の鷹場村(延宝六年「御鷹場絵図」徳川林政史研究所蔵)。秣場の野銭納入額は元禄元年(一六八八)で五〇文(「武蔵野辰ノ野銭割付」小峰家文書)。名主の小峰家は近世初期から武蔵野のうち南部の狭山丘陵沿いの村々からの野銭徴収にあたった。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]中川根町徳山とくやま

一丁河内いちようごうち村の北、無双連むそれ山の西に位置する。大井川中流左岸にあり、桃沢ももざわ川・杉沢すぎさわ川が注いでいる。駿河国志太しだ郡のうち。地名の由来はもりだんに南北朝期の土岐氏居館跡と推定されるものがあったためという(静岡県の中世城館跡)正島しようじまより対岸の水川みずかわ村への渡船があった(駿河志料)。慶安二年(一六四九)の駿河国高付(志太郡誌)に村名がみえ、田方永七貫七五二文・畑方永九六貫四〇二文。元禄郷帳によると高六五八石余、幕府領(国立史料館本元禄郷帳)。天保八年(一八三七)村明細帳(前田家文書)によれば田方三八石余(前々川欠石砂入引き)、畑方六〇七石余・反別四二町余、田野口たのくち村・一丁河内村に計六〇一文分の飛地があり、桃沢川の出水の節は村中水が入り、川成場となってしまう。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]大多喜町堀之内

八声やこえ村の南、夷隅川右岸に位置する。堀内とも記す。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二四七石。江戸初期には小谷松こやまつ村など山中やまなか郷六ヵ村の親村であった。慶長二年(一五九七)の伊北庄山中郷御縄打水帳(堀之内区有文書)があり、「かなくそ」などの字地名、田畑の等級・面積・名請人と領主本多氏直轄あるいは給人分付が記される。田二町一反余・畑五町一反余。同年の山中郷御水屋鋪帳(寺嶋家文書)には「堀ノ内」「ほりノ内」とみえる。明暦元年(一六五五)の年貢割付状(堀之内区有文書)では田一一町三反余・畑一一町三反余、年貢は米六二石余・永一二貫文余、大多喜藩領。寛文四年(一六六四)当時は武蔵岩槻藩領(寛文朱印留)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]南区堀ノ内町一―二丁目・東蒔田ひがしまいた

なか村の西にあり、南は滝頭たきがしらおか(現磯子区)の二村、西と北は蒔田村に接する。保土ほど宿(現保土ヶ谷区)より本牧本郷ほんもくほんごう(現中区)への道が村内を通る。中世以前は横浜村・中村とともに石川いしかわ村と称したとあるが(風土記稿)、康応元年(一三八九)八月三日付行有坊地充行状(県史三)に「石川村内為坊地畠一反事」とあり、坊地とは当村宝生ほうしよう寺のことである。文明八年(一四七六)九月一五日河内兼吉山寄進状(同書)には「平子郷石河村堀之内談所」とあり、平子たいらこ郷に属していたことがわかる。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]春野町堀之内

気田けた川が南へ流れる渓谷状の盆地の南端、同川と西流してきた支流不動ふどう川の合流地点一帯にある。中世には天野氏の居城犬居いぬい城の城下で、近世初頭に市場いちば若身平わかみだいら谷地やじ明日野あすの一草ひとくさ船木ふなき平尾ひらお平野たいらの小奈良安こならやす横根よこねなどの集落をまとめて一村とされ、堀之内村となった。市場の地はいぬい町ともよばれ、近郷の商人が集まって六斎市が開かれたという。秋葉街道筋の町として発達し、気田川には渡船場があった(掛川誌稿)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]塩尻市大字堀ノ内

塩尻宿の西端にある鉤の手のはずれから西へ中山道の道路沿いにある集落。東は阿礼あれい神社の森を隔てて塩尻宿に続き、その北から西へ長畝ながうね桟敷さじき大小屋おおごや大門だいもんと順に続き、南は国道二〇号・水田地帯・川を隔てて下西条しもにしじようと接する。

中世までは塩尻郷東条ひがしじように属し、鎌倉時代には地頭塩尻氏の館があった。館は内城うちじようにあり、堀をめぐらし中に集落もあったという(塩尻地史)が、いまは堀の跡も明らかでなく、ただ堀ノ内・クネノウチ・殿田とのた角田かどた角畑かどばた大坪おおつぼ木戸きど・内城など城に関係あると思われる地名が残っているにすぎない。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]郡山市喜久田町堀之内きくたまちほりのうち喜久田町きくたまちおろしなど

早稲原わせはら村の西、藤田ふじた川中流北岸の沖積原に立地。堀内・堀野内とも記す。会津への道に沿う街村。縄文土器・須恵器が出土した高林たかばやし(旧名堀内)遺跡から、中世館跡が検出された。館跡は西側に土塁をめぐらし、南西に空濠があり、南東の沼沢を利用した一辺約一〇〇メートルの不整方形のもの。安積伊東氏一族の館とみられる。村名も館の堀之内に由来という(相生集)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]大門町堀内ほりうち

しま村の東、和田わだ川左岸の段丘上に位置し、集落西部を八幡はちまん川が流れる。村を取巻く和田川・八幡川が堀をめぐらしているようにみえることから堀之内と名付けられたといわれるが、「越中旧事記」が中世の城館の存在を記すので、これに由来するものであろう。現在もひこさまやかたとよばれる小高い一画がある。慶長八年(一六〇三)二月七日前田利長は「中郡堀野内村」の五石余などの知行を改田小左衛門に認めている(「神尾氏等判物写」加越能文庫)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]小田原市堀之内

東端を酒匂さかわ川、西端を仙了せんりよう川が流れ、東は中曾根なかぞね村、西は小台こだい村、南は飯田岡いいだおか村・蓮正寺れんしようじ村、北は足柄上あしがらかみ栢山かやま村と接する。中央をそん用水が流れる。小田原衆所領役帳に横地図書助「四拾八貫五百八拾文 西郡飯田堀内」とある。

近世初頭、村は支配上小田原藩領と旗本室賀領(万治三年幕府直轄領)に二分され、寛文三年(一六六三)以後は小田原藩領となったが、その後も引続き名主二名が置かれた。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]杉並区堀ノ内一―三丁目

和泉いずみ村の北に位置し、東西は和田わだ村に挟まれている。宝徳三年(一四五一)五月二五日の畠山持国奉書写(上杉家文書)によれば、道悦(上杉重方)は「武蔵国中野郷内堀内・下(荻)窪・泉村」の相伝知行を許されている。寛永一二年(一六三五)三代将軍徳川家光が山王社(現千代田区日枝神社)多末たま郡内の堀内村一九七石余、阿佐ヶ谷あさがや村一八七石余、天沼あまぬま村一一九石余を寄進したという(日枝神社文書)。以降同社領として幕末まで変わらず(旧高旧領取調帳など)。田園簿によれば田方七四石余・畑方四〇石余、ほかに野米六俵余。「風土記稿」によると家数五五、用水は善福寺ぜんぷくじ池よりの流水を利用。青梅おうめ街道から中野村(現中野区)鍋屋横丁なべやよこちよう付近で分岐し、当村妙法みようほう寺に至り、さらに和田村の八幡社(現大宮八幡宮)に至る道(堀之内妙法寺道とも)があった。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]豊橋市下条東げじようひがし

豊川の左岸にあり、川が大きく左折するところに位置する。石巻いしまき山の真西にあたる低湿地帯に立地。「和名抄」の八名やな和太わだ郷の地に比定されている。この村の辺り七ヵ村を通称下条という。古来水害を被ったことが度々で、近世のみでも天文一五年(一五四六)・延宝八年(一六八〇)・正徳四年(一七一四)・元文五年(一七四〇)・宝暦九年(一七五九)・明和四年(一七六七)・寛政四年(一七九二)・文化五年(一八〇八)・天保七年(一八三六)・嘉永三年(一八五〇)・万延元年(一八六〇)などの水害には村落も耕地も水浸しとなり、収納皆無の状態になったとあるが、平年は穀倉地帯である(豊橋市史)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]甲府市堀之内町

宮原みやばら村の南東にあり、西をしぶ(現鎌田川)が流れる。堀内とも書く。天正一一年(一五八三)四月二〇日の徳川家康判物写(慈照寺文書)には慈照じしよう(現竜王町)に安堵された同寺本領のうちに「堀内」三貫五〇文がみえる。この「堀内」は当地とも考えられるが不詳。また「一蓮寺過去帳」には永享(一四二九―四一)頃の文阿弥陀仏、文亀元年(一五〇一)六月三〇日供養の勢阿弥陀仏などに「堀内」の注記があるが、これも当地をさすかどうか確定できない。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]黒羽町堀之内

西を那珂川、南をその支流松葉まつば川の南流する二河川に挟まれた細長い丘陵部にあり、南は黒羽城下河原かわら町、北は大輪おおわ村、東は野上のがみ村。天正一八年(一五九〇)大関氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「堀之内」がみえ、二〇三石二斗(「黒羽藩領知高書上」宇都宮大学附属図書館蔵)。以後黒羽藩領。慶安郷帳では黒羽村として一括される。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]池田町大字池田 堀之内

現池田町中部で、中山なかやま山地の山麓の西に向いた段丘上に位置し、北は現大町おおまち市に接する。堀之内の地名は、中世城館が存在したことから名付けられたことは明らかであり、村居の東に接して堀之内城とも池田山城とも称するすこぶる広大な本城の平地をもつ山城跡があり、更にそのやや北東山中に花岡はなおか城と称する山城跡がある。おそらくこれらの城館に由来する村名であろう。村中に堀端ほりばた屋敷添やしきぞえ・どいつめなどの地名も残っている。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]表郷村堀之内

やしろ川中流域左岸にあり、西は中寺なかでら村、南は高木たかぎ村、東は河東田かとうだ村、北は千田せんだ(現東村)。江戸時代は初め会津領、寛永四年(一六二七)白河藩領、寛保元年(一七四一)以降越後高田藩領。白河古領村郷高帳では高六五四石余。天保郷帳には「宮村枝郷」と注記される。助郷は奥州道中白坂しらさか宿(現白河市)へ出役。庄屋は代々穂積家が勤めた(表郷村郷土史)。字十二段じゆうにだん厳島いつくしま神社がある。字ほりうちの真言宗遍照へんじよう寺跡では毎年六月一日から三日間、無病息災を祈る辻念仏が行われる。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]下田市堀之内

落合おちあい村の西、東流する稲生沢いのうざわ川中流に位置する。地名は地内にあった深根ふかね城にちなむ(増訂豆州志稿)。慶長三年(一五九八)七月の稲生沢堀之内村御縄打水帳(堀之内区有文書)が残る。江戸時代の領主の変遷は大沢おおさわ村と同じ。元禄郷帳によると高五九石余。元禄一一年(一六九八)の差出帳(堀之内区有文書)によれば田二町一反余・畑一町八反余、高四七石余、家数七(本百姓六・水呑百姓一)・人数二八、牛八。茅野山は北湯きたゆなめ(納米川)沿いに、薪取場は加増野かぞうの村の深山・奥山、須郷すごう村の深山・大鍋おおなべ山・池代いけしろ山にあり、秣刈場は河内こうち村・箕作みつくり村・落合村の山々。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]白馬村大字神城かみしろ 堀之内

姫川ひめがわ盆地南部の丘陵性の東部山地の麓にあって、糸魚川いといがわ道から分岐した善光寺ぜんこうじ道沿いに位置する。

堀之内村は、松本領の慶安二年(一六四九)の総検地を経て寛文四年(一六六四)に松本藩主水野忠職が拝領した朱印目録にその名がみえ、朱印高一五二石三升九合を有しているのであるが、正保四年(一六四七)三月一一日付の信濃国絵図高辻にはその村名がみえず、また「信府統記」の「新田開発時節改」にもその村名がみえない。しかし「信府統記」の「諸国絵図改之事」には「堀ノ内村 此村古絵図ニ飯田村ト一ケ村ニ記セリ、新絵図ニ二ケ村ニ分ル」とし、古絵図すなわち正保四年の絵図には飯田いいだ村といっしょに記されていたものを、新絵図すなわち元禄一〇年(一六九七)の絵図では二ヵ村に分けて記したというのであって新田村ではないと考えられる。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]牛堀町堀之内

夜越よるこし川左岸の台地上にあり、東は赤須あかす村、北は茂木もとぎ村。中世は島崎しまざき郷に属したとされる。江戸時代は水戸藩領で、寛文一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に村高三〇〇石余、ほかに新田四石余が記されるが、「新編常陸国誌」には「旧茂木村ト同地ナリシガ、正保、元禄ノ間始テ分立スト云フ、故城址アリ、慶長元年佐竹義宣ノ家臣小貫大蔵ノ築ク所ナリ、七年義宣出羽ニ徙ルニ及テ城亦廃ス」とある。「常陸紅葉郡鑑」(楯石氏蔵)には本高六四〇石余・新高一三四石余、御立山二〇町八反余・村預り山二〇町七反余・分付山一一町四反余、野銭四貫八五五文、溜池四ヵ所、享保二〇年(一七三五)の人別五五一・家数一二四、馬四二、このうち人別一四二、馬二九は茂木村分などとあり、「水府志料」の戸数はおよそ四九。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]竜洋町堀之内

天竜川下流域東岸に位置し、南は平間ひらま村。天正一九年(一五九一)一一月二〇日の四拾七村惣高辻書上(横山家文書)に堀内とみえ高二四二石余。正保郷帳に村名がみえ、幕府領。田七一石余・畑一〇〇石、常楽じようらく寺領二石・天白てんぱく領二石。以降の領主の変遷は西平松にしひらまつ村に同じ。享保三年(一七一八)の高二〇二石余(うち畑一三〇石余)、家数四八(本百姓のみ)・人数二三九、馬二一、百姓林一(東西二二間・南北七二間)、小橋一五・圦四、座頭一(「川東三拾弐ヶ村村調書上牒」磐田市誌編纂室収集文書)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]成田市堀之内

駒井野こまいの村の北方に位置し、北と南は佐倉牧のうち矢作やはぎ牧。江戸期には堀内村と書かれることが多い。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一一八石、与力給知(南町奉行所)。ただし江戸中期に開発された切添新田六石余は幕府領(旧高旧領取調帳)。文政六年(一八二三)年貢皆済目録(堀之内区有文書)では高一三三石余。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]飯山市大字豊田とよた

外様平とざまだいら西側の平坦地に立地し、西は五束ごそく村に接する。

正保四年(一六四七)、信濃国絵図高辻に「堀内村」とあるのが初見。村高は二一〇石余で、以後ほとんど変わらない。飯山御領分酒株高帳(中島長三郎氏蔵)に、天明八年(一七八八)堀之内村の千治郎は酒株高二五石、造米高四四九石九斗九升三合とある。寛保二年(一七四二)千曲川大洪水では泥水入りが四三石三升八合、当毛皆無が一一一石六升で、村高の半ばを超える被害を受けた(「飯山領村々水損之覚」伊藤長治氏蔵)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]川崎区堀之内町・宮本みやもと町・富士見ふじみ一―二丁目

北端を多摩川が流れ、東は中島なかじま村、西は川崎宿に接する。村の中央を占める宮前耕地みやまえこうち、東部の蒲原耕地かんばらこうち、北部の川下耕地かわしもこうちなどの小字がある。周辺一帯は弘長三年(一二六三)二月八日付の勝福寺鐘銘(県史一)にみえる河崎かわさき庄に比定される。天正二〇年(一五九二)八月の村内山王社(現稲毛神社)領の検地帳(川崎市教育委員会蔵)に村名がみえる。近世を通し幕府直轄領。川崎宿の定助郷村で享保三年(一七一八)の助郷高三二一石(「川崎宿助郷帳」森文書)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]新座市堀ノ内一丁目など

黒目くろめ川左岸の沖積低地にあり、周囲をつじ村に囲まれる。近世前期に片山かたやま村から分郷した村で枝郷に栗原くりばら村がある。延宝六年(一六七八)の御鷹場絵図(徳川林政史研究所蔵)に堀ノ内村とあり、元禄郷帳では「片山堀ノ内村」とみえ、高六四石余。元禄六年(一六九三)幕府代官により検地が実施されており(風土記稿)、この時期には幕府領であったらしい。以後幕末まで幕府領。化政期の家数一二(同書)。天保八年(一八三七)の家数一五・人数五〇(「飢人数取調書上」牛山家文書)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]菊川町堀之内・やなぎ

潮海寺ちようかいじ村の南西、菊川右岸に位置し、東は本所ほんじよ村、南は半済はんせい村。貞治元年(一三六二)と推定される一〇月一九日、西園寺実俊が紀州熊野山新宮造営料所である遠江国吏務職に関する訴訟を幕府に伝達したが、その施行状(熊野速玉神社文書)の貼継別紙に荒木あらき郷一九五石余が記載され、堀之内・西方にしかた付近と推定されている。寛永二一年(一六四四)の掛川領三万石郷村高帳に村名がみえ、高三〇〇石余。正保郷帳によると田方二一五石余・畑方八四石余、「日損」「松山」「芝山」の注記がある。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]稲沢市堀之内町

東は千代せんだい村に接し、村の北境を大塚おおつか井が流れ、本郷は村の中央にあった(天保村絵図)。嘉慶二年(一三八八)妙興寺領坪付注文(妙興寺文書)に中島重松源蔵人の寄進分として「浅井・堀内」とみえ、応永三年(一三九六)妙興寺領諸方押妨分注文写(同文書)に飯尾将監の押領分として「陸段半 浅井・堀内当御代御下文内中嶋松長寄進分」とみえる。天文一八年(一五四九)織田信秀が祖父江五郎右衛門を八ヵ所の代官に任命した判物(氷室家文書)に堀之内とみえる。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]東金市堀之内

関内せきうち村の南に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に堀門村(高一七八石)とあるのが当村と思われる。元和五年(一六一九)から高一六三石余が北町奉行組与力給知となり、幕末まで同じ(「地頭所取扱村々記」小倉家文書など)。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では関内組に属した。貞享四年(一六八七)の書上(東金市史)では田方一三九石・畑方二四石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一九七石余、家数二二、幕府領・与力給知。文化三年(一八〇六)の検見によると田一四町七反余・一二七石余、畑八町五反余・三六石余、ほかに享保三年(一七一八)改高三石余、元文二年(一七三七)改高五石余、年貢は米五一石余・永二貫七一二文・銭六〇九文(川島家文書)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]新井市上堀之内かみほりのうち

高床たかとこ山の北東山麓、せき川西岸に位置し、飯山いいやま道沿いに北は姫川原ひめがわら村、南は除戸のぞきど村と接する。鳥坂とりさか城の根小屋である堀之内館が菓成かじよう寺域にあったための村名という。正保国絵図に堀内村とあり、高一六六石余と記される。天和三年郷帳に堀野内村として高八七石八斗余、うち山高二石七斗・漆高八升とあり、前原新田一石四斗余が記される。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]榛原町細江ほそえ

道上四之宮みちうえしのみや村の東に位置し、坂口谷さくちや川の右岸に立地する。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高三七八石余。正保郷帳では田方三二四石余・畑方五二石余、旗本太田領、ほかに森龍しんりゆう(現曹洞宗)領一石がある。太田領は延享四年(一七四七)上知され(国立史料館本元禄郷帳・享保郷村高帳・「寛政重修諸家譜」など)、その後相良藩領になったと推定されるが、寛政六年(一七九四)三卿の一橋領(同年一橋家領郷村高帳写)、文政一〇年(一八二七)丹波篠山藩領となり幕末に至る(同一一年榛原郡城東郡之内郷村高帳、旧高旧領取調帳)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]春日井市堀之内ほりのうち町・篠木しのぎ町・穴橋あなばし

下市場しもいちば村の南にある。村の北を内津うつつ川が流れている。村内の神明社の棟札に、慶長七年(一六〇二)三月二日再建とあり、それに「この社、堀ノ内村にあり」と記されているので地名はそれ以前につけられたものと考えられる。堀之内には昔、豪族が館を構え、堀をめぐらして住み、この地は堀の内側にあったのではないかと伝える。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]相良町すげ

菅ヶ谷村の東に位置し、萩間はぎま川の右岸に立地する。正応六年(一二九三)七月二〇日の相良頼氏譲状写(相良家文書)に「相良堀内重松」とみえ、相良頼氏は堀内などの地頭職を子頼宗に譲り渡している。文禄二年検地高目録には堀内村とみえ、高九二石余。慶長九年(一六〇四)にも検地が行われている(「検地帳」戸塚家文書)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]桜川村ほりうち

小野おの川右岸にあり、柏木かしわぎ村の西に位置する。江戸時代は天領で(各村旧高簿)、元禄郷帳の村高は一三七石余。嘉永二年(一八四九)一二月の議定証文之事(永長家文書)に「内浦川ニ御公儀様御城米船不及申何之御地頭所様方之御米船ニ而茂逢難風候節早速助船差出可申候縦令商船たり共右同断之事」とあり、当村をはじめとする七ヵ村が集会し、難儀に遭っている船の救助にあたることを定めた。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]足立区堀之内一―二丁目・鹿浜しかはま一丁目・同四―六丁目・椿つばき一―二丁目

沼田ぬまた村の西に位置し、西は鹿浜新田。堀内村とも記された。北条氏所領役帳に吉原新兵衛の所領として「宮城堀内」七貫文がみえる。近世初頭、阿出川越前守忠順が入植したと伝える(風土記稿)。田園簿に堀ノ内村とみえ、田一二一石余・畑三二石余、ほかに見取場として田一町三反歩・畑五反余があり、野銭永九貫五二三文。元禄郷帳では高二〇四石余。初めは幕府領。明暦元年(一六五五)東叡山寛永寺領となる(東叡山方書物之写など)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]佐原市堀之内・みずほだい

西部田にしべた村の東に位置し、一部に台地をもつ。南部を東西に銚子道が走る。慶長四年(一五九九)の矢作領検地では検地高六三〇石余(「部冊帳」伊能家文書)。寛永二年(一六二五)旗本西尾重長は当村で六九石余を宛行われた(知行宛行状)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高八七九石余、幕府領と旗本西尾・小栗・近藤領の相給。享保四年(一七一九)当時は旗本の石尾領二二三石余・新見領一二一石余・小栗領一五六石余・西尾領六九石余・古屋領四九石余・近藤領一一石余(前掲部冊帳)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]秋田市金足堀内かなあしほりうち

集落の東と北は太平たいへい山地の緩い丘陵、西、南を馬踏まふみ(金足川)が囲むように流れる。後背の山地と前方の川で挟まれ、小規模ながら要害の地とみられる。村名も土豪の居宅を中心とした「堀の内」によるものであろう。「適産調」には「古館、今の村社の地なり。小栗与八郎の居館なり。これより南の沢を今も小栗といふ、沢の南の入口の古層の畑ある処を矢崎長根といふ、又村社の後に馬のり場といふあり」と記す。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]神岡町堀之内

山田やまだ川右岸、越中東街道より上の扇状地状の急な斜面に村落・耕地を形成する。西は伏方ふせがた村。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では「上山田村所々七村」に含まれ、同一八年の郷帳では堀ノ内村とあり、高原たかはら郷に属し、高四六石余。元禄検地反歩帳では高一〇六石余、田四町六反余・畑八町八反余。「飛騨国中案内」では免三割八分二厘余、家数一六(うち百姓一二・門屋四)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]大治町堀之内

東は北間嶋きたまじま村、南は三本木さんぼんぎ村に接する。「徇行記」によれば、概高五二三石余のうち五一〇石余は藩士一二人の給知で、田は二一町八畝余、畑は一一町六畝余。「寛文覚書」に戸数四〇、人数一九〇とある。「徇行記」は「高ニ準シテハ戸口多ク、村中田畝ハカリニテハ作リタラサル故ニ、他村ノ田畝ヲ承佃スト也、持高ハ平均ノ所ナリ、サレハ村中小百姓ハカリ也、竹木ヨク茂リテ村立大体ヨシ(中略)此村田面地ヒクヽシテ多ヌマレリ」とし、低地で沼田が多かったことが知れる。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]長岡市宮本堀之内みやもとほりのうち

くろ川を挟んで東方ひがしかた村の西、西山丘陵東麓に集落がある。北は西宮本村、南は善間ぜんま村。正保国絵図に「堀ノ内村」がみえ、高田藩領。天和三年郷帳では枇杷島組に属し、高二七八石九斗余(うち山高一石二斗・漆高一石余)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]上越市諏訪すわ

荻野おぎの村の南に位置し中江なかえ用水が流れる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「橋爪新左衛門分堀内村 中」とみえ、本納三六石一斗三升三合・縄高七五石七斗二升四合、家六軒・二一人。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]南国市堀ノ内

金地かなじ村の南に位置し、香美郡に属した。岩村いわむら郷に含まれ、天正一六年(一五八八)の岩村郷地検帳に小村の堀内村がみえ、二〇筆が検地され、多くは長宗我部氏家臣の給地であるが、一部「香宗御分」がみえる。元禄地払帳によると総地高三七三石余、うち本田高三七一石余・新田高二石余。

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]三島市玉川たまがわ

玉川村の南、さかい川東岸に位置する。もとは南側の平田ひらた村と一村であったと考えられ、氏神も同村の神明宮という(増訂豆州志稿)

堀之内村
ほりのうちむら

[現在地名]馬瀬村堀之内

名丸なまる村の北、馬瀬川東岸にある。元禄飛騨国検地反歩帳に村名がみえ、高五八石余、田二町四反余・畑五町三反余。「飛騨国中案内」によれば免三割八分七厘、家数一四、うち百姓一三・門屋一。松のむろ島山は普請山・家木山となっていた(元禄一五年「飛州御林山之改帳」徳川林政史研究所蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報