大門町(読み)だいもんまち

日本歴史地名大系 「大門町」の解説

大門町
だいもんまち

[現在地名]浦和市大門・東大門ひがしだいもん一丁目

間宮まみや村の北東に位置し、東は差間さしま(現川口市)など、北は綾瀬川を隔てて埼玉郡釣上かぎあげ(現岩槻市)など。日光御成道が通り、江戸日本橋から四番目の宿駅であった。綾瀬川には縄手なわて河岸がある。大門村・大門宿とも記された。会田落穂集(会田家文書)によると、元禄一〇年(一六九七)までは年貢割付状や地方文書には大門村と記されたが、往還物に大門町と書かれる場合があるため、紛らわしいので今後はすべて大門町と書くよう、同一二年代官伊奈半左衛門から達しがあったという。戦国期頃の成立と推定される市場之祭文写(武州文書)に「足立郡大門市祭成之」とある。日光御成道は中世には鎌倉街道中道の道筋であったと思われる。

慶長二年(一五九七)九月旗本水野万千代(光康)は徳川氏から「大門郷七百石」を宛行われている(朝野旧聞藁)。元和五年(一六一九)岩槻藩領となった(会田落穂集)。田園簿では田六二七石余・畑二七〇石余で、同藩領。ほかに大光だいこう(大興)寺領三〇石がある。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)によると家数九一(うち水呑四八)、人数五五〇。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳によると高九三五石余で、ほかに新田四五石余・野銭永五〇〇文・見取場田畑八町五反余がある。元禄一〇年幕府領となり、以後幕末まで変わらなかった(「寛政重修諸家譜」・会田落穂集、天明八年「村明細帳写」会田家文書、改革組合取調書など)。見沼領に属した。検地は寛永年中(一六二四―四四)と宝暦一〇年(一七六〇)に行われたと伝える(風土記稿)。天明八年(一七八八)の村明細帳写によると高一千一三七石余、反別田四七町四反余・畑一四二町四反余で、ほかに見取田七町余・見取畑一町六反余・秣場(五ヵ所)一町三反余、酒造運上永一二五文などがあった。

大門町
だいもんまち

面積:二一・七七平方キロ

射水郡の西部に位置し、東は小杉こすぎ町、西・南は高岡市、北は大島おおしま町。北流する庄川は高岡市との境となり、町域内を北流したのち北西流する和田わだ川は町の中央を北流する八幡はちまん川・かも川を合せて町の北端で庄川に注ぐ。南東部には射水丘陵が広がり、小杉町との境をなす。大部分は標高七―一七メートルの平坦地であるが、射水丘陵の西側、和田川左岸には河岸段丘が発達している。町の北部をかすめるように東西にJR北陸本線が通っているが、最寄りの越中大門駅は大島町にある。主たる交通路には主要地方道の富山―戸出といで小矢部おやべ線、新湊―庄川線などがある。

射水丘陵西端の串田新くしたしん遺跡およびその周辺では石刃が出土している。庄川右岸の新扇状地上に立地する小泉こいずみ遺跡は縄文時代前期の大遺跡である。串田新遺跡は縄文時代中期後葉の標式遺跡でもあり、後期から晩期にかけては再び扇状地上に布目沢東ぬのめざわひがし遺跡などが残される。布目沢北や島鉾田しまほこた縄田なわた市井いちのい二口ふたくちなどには弥生時代から中世にかけての遺跡が営まれる。二口遺跡は大島町の遺跡群と関連をもつと考えられる。串田新の丘陵上には三基の方形台状墓があり、また市井には古墳時代中期の大塚おおつか古墳、その北には十三塚じゆうさんづか古墳群があった。丘陵斜面には六世紀の生源寺しようげんじ窯跡がある。「和名抄」に載る射水郡櫛田くした郷は当町南部の櫛田神社を含む串田地区を中心とし、三島みしま郷は北部の本江ほんごう中村なかむら・二口辺りに広がっていた三島野を含む地域と推定される。

大門町
だいもんちよう

[現在地名]津市大門

観音寺門前の町人町。中世に安濃津あのつ港町として栄えた岩田いわた川南の津興つおき村地内に、江戸期末まで観音寺や大門・中之番なかのばんなどの地名が残され、ここが天正八年(一五八〇)織田信包による城下町形成で移された観音寺や大門町の故地である。同年以前に観音寺門前の大門町であったと考えられる。築城前は、後の北外堀となった塔世とうせ川の分流が大門町を横切って東流していたらしく、明暦二年(一六五六)の「勢陽雑記」に「大小の橋は津町大門町と中之番とのあわひに有り、今は橋といふべき程にもあらず只三尺計りなる橋を伏せたるなり」とある。

寛永元年(一六二四)の町年寄推挙文書(津市史)に津町二二町の代表者が連署し、総町年寄として伊藤又五郎を推挙し、大門町の代表者としては藤田宗六左衛門と進半左衛門の名がある。

大門町
だいもんちよう

[現在地名]長野市長野 大門町上だいもんちようかみ・大門町南

善光ぜんこう寺の南に位置し、善光寺八町の中心をなした町。善光寺領に属し、松代領境鐘鋳かない川北側から、善光寺大本願だいほんがん南を東西に横切るよこ町までの緩やかな坂の町で、全長三町三八間ある。

慶長一六年(一六一一)九月三日、松平忠輝家臣連署をもって出した伝馬条目(「善光寺宿場市場書類本書之写」中沢文書)によると北国脇往還の伝馬継立宿駅となり、他宿と同様常備人馬は二五匹、二五人であった。

大門町
だいもんまち

[現在地名]小倉北区大門一―二丁目

西曲輪の北西部にあり、東は堀を挟んでむろ町・西魚にしうお町と接し、西は溜池口を経て鋳物師いもじ町に通じる。当町で長崎街道と唐津街道が分れる。町の北東部に大門がある。小倉城主細川氏の時代に菊原と称する商人が住して酒造業を始め、のち人家が連なって町並を形成、菊原きくはら町としたが、小笠原氏の代に大門町と改めたという(倉府俗話伝)

大門町
だいもんちよう

上京区室町通椹木町下ル

南北に通る室町むろまち(旧室町小路)の両側町。北は椹木町さわらぎちよう(旧中御門大路)、南は丸太町まるたまち(旧春日小路)。平安京の条坊では、左京二条三坊一保八町の東側と同四保九町の西側の地で、平安中期以降は中御門大路なかみかどおおじ室町小路南の地。

近世初期は足利義昭の旧二条にじよう城の跡地。中昔京師地図によれば当地付近に下御霊しもごりよう神社の御旅所があった。「坊目誌」は当町に石竹鉾(旧名は草葵鉾)があり、毎年の祭日には神輿に先立って行列に入ると記す。

大門町
だいもんまち

[現在地名]武生市天王てんのう町・神明しんめい

ほん町を東に折れた町で、武家屋敷を通り越して東行すると、川原かわら帆山ほやま寺に達し、町名も帆山寺大門に由来すると思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報