相良町(読み)さがらちよう

日本歴史地名大系 「相良町」の解説

相良町
さがらちよう

面積:五七・九八平方キロ

榛原郡の南部に位置し、北は榛原町、南は御前崎おまえざき町、西は小笠おがさ菊川きくがわ町・小笠町浜岡はまおか町。東は駿河湾に面し、他の三方は牧之原まきのはら台地に囲まれる。牧之原台地を水源とする萩間はぎま川が南東流し、途中すげ川などを合せながら駿河湾に注ぐ。国道一五〇号が海岸沿いを縦断し、地頭方じとうがたで西へ方向を転換し浜岡町方面へ抜ける。波津はづでは国道四七三号が分岐して北上、金谷かなや町方面へ向かう。縄文時代の遺跡が牧之原台地南稜の先端部近くの台地上、萩間川河口部付近、地頭方新庄しんしよう地域の三地域を中心に点在している。弥生時代の遺跡は菅ヶ谷川沿い、萩間川河口付近の台地裾部などに確認されている。古墳は萩間川流域に点在しており、片浜かたはま地区の稲荷山いなりやま古墳群・坂ノ谷原さかのやばら古墳群などは勝間田かつまた川流域の古墳分布圏に入るもので、萩間川流域の古墳群のあり方には大きく三つのタイプがある。横穴式石室を主体部とする小円墳のみの古墳群(柳田・細田谷・水神谷など)、横穴のみの古墳群(蛭ヶ谷・海老江・小堤山)、円墳と横穴が混在する古墳群(大寄・寺下五反田・園・馬見塚)で、時期は六世紀後半から七世紀代。

和名抄」記載の蓁原はいばら郡九郷のうち相良郷と大江おおえ郷を当町域に比定する説がある。平安時代末期には蓮華王れんげおう(現京都市東山区)領の相良庄が成立、牛牧を主体とする庄園であった。

相良町
さがらまち

[現在地名]相良町相良

牧之原まきのはら台地を水源とし南東流して駿河湾に注ぐ萩間はぎま川の河口右岸に位置する。東は福岡ふくおか町、南は波津はづ村、北東は萩間川を境に平田ひらた村、北西その村。相良湊から東海道藤枝宿まで田沼たぬま街道が通り、東海道金谷かなや宿(現金谷町)へは金谷道(相良道)、また東海道掛川宿を経て信州へ向かう秋葉街道も通っていた。鎌倉時代には当地一帯は相良庄に含まれた。天正一八年(一五九〇)一〇月七日の山内一豊蔵入所目録(思文閣古書資料目録)に相良内二千石とみえる。文禄四年(一五九五)とく村芝原の内にしん町が町割され、慶長一〇年(一六〇五)には前浜まえばま市場いちんば両町の町割が行われた。この三町は郷村帳類では相良三町あるいは相良町として一括される。正保二年(一六四五)には徳村内から徳村下村が分村、福岡町と称し、相良城の築城後は相良三町とともに相良城下四町となる(相良史)

相良町
さがらちよう

[現在地名]弘前市相良町

城の南側に位置し、北はほん町、西は覚仙かくせん町・在府ざいふ町、東は桶屋おけや町に接し、南にみなみ溜池がある。

正保三年(一六四六)津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)には、西側は町屋、東側は足軽屋敷が配置される。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)では侍町とあり、東端南溜池に接して預人相良清兵衛が居住。町名は同人が居住したことによるという(津軽一統志)。寛文一三年(一六七三)弘前中惣屋敷絵図(市立弘前図書館蔵)にも侍丁とあり、重臣津軽外記ら三七軒余の武家屋敷がある。元禄一三年(一七〇〇)の弘前侍町屋敷割(津軽史)に相良町とあり、侍屋敷三四軒。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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