夷隅郡(読み)いすみぐん

日本歴史地名大系 「夷隅郡」の解説

夷隅郡
いすみぐん

面積:三一二・二五平方キロ(境界未定)
みさき町・大原おおはら町・御宿おんじゆく町・夷隅いすみ町・大多喜おおたき

県の南東部に位置し、西部の房総丘陵から東部は太平洋岸に至る。江戸時代の郡域は現夷隅郡五ヵ町と勝浦市域で、太平洋に注ぐ夷隅川流域を中心とする。古代に上総国の南東部に置かれた郡で、西は望陀もうだ郡・海上うなかみ郡、北は埴生はぶ郡・長柄ながら郡と接する。郡名は古くは夷郡の表記で、「和名抄」東急本などでは伊志美と訓じ、「和名抄」名博本や「延喜式」民部省および「拾芥抄」ではイシミとある。江戸時代には夷隅が多用され、「寛政重修諸家譜」では「いすみ」としている。

〔古代〕

「旧事本紀」「日本書紀」にみえる伊甚国造、「古事記」に記される伊自牟国造の領域であったと推定される。安閑天皇元年四月、伊甚国造の稚子直は内膳卿の膳臣大麻呂に珠を求められたが、都に着くのが遅れ、期限が過ぎても珠を納めなかったため、内膳卿に縛られその理由を追及された。稚子直らは恐れて後宮の寝所に逃込んだところ春日皇后を驚かす羽目になり、その贖罪のために春日皇后に伊甚屯倉を献上した。これが分れて郡になったという(日本書紀)。この珠は琥珀などの玉類とする説があるが、鰒から採れる真珠であろう。後代ながら貞観九年(八六七)郡の住人に節婦として表彰された春部直黒主売がおり(「三代実録」四月二〇日条)、当郡に春日皇后にかかわる春日部という名代が設置されていたらしいことから、屯倉の存在などを含むこの所伝も史実であったかもしれない。なお伊甚国造の領域は、一宮いちのみや川・南白亀なばき川流域の埴生郡長柄郡(現長生郡)域をも一部含んでいたとみる考えがある。一宮川水系上流の現長南ちようなん町域と夷隅川上流の現大多喜町域を中心に古墳群が分布し、このうち長南町域には能満寺のうまんじ古墳・油殿あぶらでん一号墳といった四世紀代の大型前方後円墳があり、前期における首長勢力の存在がうかがわれる。しかし五世紀以降、浅間山せんげんやま一号墳(睦沢町)などやや有力な円墳は存在するものの、大型前方後円墳の築造は認められず、大多喜町域でも五―六世紀にかけて出土遺物に傑出性をもつ円墳や小型前方後円墳はあるが、大型古墳は確認されていない。伊甚屯倉献上の記事は中・後期における当地域の首長勢力の衰退を反映している可能性がある。また当地域においては、六世紀末葉から七世紀代にかけて、横穴墓の造営が盛んに行われており、長柄町域の横穴群に代表されるように、墓室を高く構築し、天井部の造形に優れた技巧が駆使され、線刻壁画が多いことなどの特色を見いだすことができる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報