稲敷郡(読み)いなしきぐん

日本歴史地名大系 「稲敷郡」の解説

稲敷郡
いなしきぐん

面積:四五一・三三平方キロ
阿見あみ町・美浦みほ村・江戸崎えどさき町・桜川さくらがわ村・あずま村・新利根しんとね村・河内かわち村・牛久うしく町・茎崎くきざき

県南部、霞ヶ浦の南岸にあり、北は土浦市、西は筑波郡・龍ケ崎市、南は利根川を境に千葉県に接する。霞ヶ浦湖岸と南部の新利根・利根両河川沿いは沖積低地で水田地帯を形成、中央部に標高二〇―三〇メートルの稲敷台地が筑波台地から東に延び、小野おの花室はなむろ乙戸おつと清明せいめいの各河川により開析されている。

明治二九年(一八九六)信太しだ・河内両郡が合併し、新郡名は信太郡の古代郷名をとって稲敷郡とした。

〔原始〕

稲敷台地には縄文時代の遺跡が多く、陸平おかだいら貝塚(現美浦村)はじめ椎塚しいつか(現江戸崎町)福田ふくだ(現東村)広畑ひろはた(現桜川村)など一二〇余ヵ所の貝塚がある。陸平貝塚は明治一二年日本人の手による初めての学術調査が行われたことで有名で、発見された土器は縄文式土器の型式分類・編年研究の基礎資料とされる。小野川流域の丘陵上にある椎塚貝塚も関東地方の代表的貝塚で、豊富な出土品のなかでも注口土器や骨製ヤスの刺さった鯛の頭骨は名高い。弥生時代の遺跡は霞ヶ浦に注ぐ各河川の流域や牛久沼周辺地域にみられるが、縄文遺跡との複合遺跡で、数も二〇余ヵ所と少ない。このうち殿内とのうち遺跡(現桜川村)から出土した浅鉢形土器は茨城県の弥生式土器では古いものとされる。

郡内の古墳は一五〇余ヵ所にのぼるが、木原台きはらだい古墳群(現美浦村)に属する愛宕山あたごやま古墳は全長八〇メートルの前方後円墳で、墳形に古式の特色を残し五世紀代の築造とみられる。はら古墳群(現桜川村)に属する原一号墳は小規模であるが、自然地形を利用した前方後方墳と推定される墳形で、表土下に埋葬施設を設けており、発生期の古墳にみられる構築法である。

〔古代〕

現郡域の大部分は古代には信太・河内両郡に属した。「常陸国風土記」逸文によれば、信太郡は白雉四年(六五三)に筑波・茨城両郡の七〇〇戸を分けて建郡といい、郡衙は現江戸崎町下君山しもきみやま辺りに置かれたといわれる。河内郡は「常陸国風土記」に郡名があるのみで、建郡の時期などは不明であるが、「新編常陸国誌」は同時期とする。天平勝宝四年(七五二)に信太郡大野おおや(現美浦村)、同五年に島津しまつ(現阿見町)から調布(正倉院宝物)が貢上され、延暦五年(七八六)一〇月二一日、同九年一二月一九日には信太郡の大領物部志太連大成が私物をもって百姓を救い、その功で叙位されている(続日本紀)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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