公卿
くぎょう
中国周(しゅう)の官、三公九卿(さんこうきゅうけい)に由来する名辞。上達部(かんだちめ)、卿相(けいしょう)、月卿(げっけい)、棘路(きょくろ)(おどろのみち)ともいう。一般に三公(太師(たいし)、太傅(たいふ)、太保(たいほ))は太政(だいじょう)大臣、左大臣、右大臣に、九卿(少師、少傅、少保、冢宰(ちょうさい)、司徒(しと)、宗伯(そうはく)、司馬(しば)、司寇(しこう)、司空(しくう))は参議、三位(さんみ)以上の高官にあてた。令(りょう)制では官職は大臣、大納言(だいなごん)、位階は従(じゅ)三位以上をさすが、のちには令外(りょうげ)の摂政(せっしょう)、関白、内大臣、中納言、参議をも含み、四位の参議もまたこれに入る。公卿には現任と散位(さんに)との別がある。『公卿補任(ぶにん)』によれば、散位のうち一度でも参議以上になったことのある官人は、前(さきの)大納言、前参議などと書いているが、位は従三位以上でも、参議にもならない官人の場合は、非参議と表現している。758年(天平宝字2)太政大臣を大師、左大臣を大傅、右大臣を大保、大納言を御史大夫(ぎょしたいふ)と改称したが、藤原仲麻呂(なかまろ)没後の764年に至り、それぞれ旧号に復した。
[渡辺直彦]
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く‐ぎょう ‥ギャウ【公卿】
〘名〙
① (周官の三公九卿にならって) 公と卿の
総称。公は太政大臣、左大臣、右大臣をいい、卿は大・中納言、参議および三位以上の
貴族をいい、あわせて公卿という。「大臣公卿」と連ねていう時は、卿に同じ。上達部
(かんだちめ)。月卿
(げっけい)。卿相
(けいしょう)。棘路
(きょくろ)。くげ。こうけい。
※蜻蛉(974頃)下「これは大臣くぎゃう出で給ふべき夢なり」
② (大臣・公卿と分けて称するとき) 納言以下の貴族をいう。
③ (「
供饗」「公饗」とも) (「くぎょうついがさね(
公卿衝重)」の変化した語か) 高貴な人の用いる食膳。
※大上臈御名之事(16C前か)「くぎゃう、四はうはつねの人はもちゐず、けんしゃうを四方にあけたるをいふ也」
こう‐けい【公卿】
〘名〙
① 古代中国で、三公と九卿。時代によって異なるが、周代には、三公は太師・太傅・太保をさし、九卿は少師・少伝・少保・冢宰・司徒・司空・司馬・司寇・宗伯をさす。転じて、高位高官の称。
※菅家文草(900頃)二・賀和明「况為二進士揚一レ名後、今待二公卿採択恩一」 〔論語‐子罕〕
まつ‐ぎみ【公卿】
〘名〙 「まえつきみ(公卿)」の変化した語。〔
古事記伝(1798)〕
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デジタル大辞泉
「公卿」の意味・読み・例文・類語
まえ‐つ‐きみ〔まへ‐〕【公=卿/×卿/大=夫】
《「前つ君」の意》天皇の御前に仕える人を尊敬していう語。また、朝廷に仕える高官・侍臣の総称。
「島山に照れる橘うずに刺し仕へ奉るは―たち」〈万・四二七六〉
もうち‐ぎみ〔まうち‐〕【公=卿】
《「もうちきみ」とも》「まえつぎみ」の音変化。
「―たち歌して曰はく」〈崇神紀〉
まち‐ぎみ【公=卿/×卿】
《「まうちぎみ」の音変化》「まえつきみ」に同じ。
「時に一の―有り、進んで曰く」〈景行紀〉
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公卿
くぎょう
明治維新以前の公家社会で,中国王朝の三公九卿にならって太政大臣,左大臣,右大臣を三公もしくは公,大納言,中納言,参議および三位以上の朝官を卿といい,合せて公卿と称した。唐名で卿相,月卿,棘路といい,また大臣を除いた公卿を上達部 (かんだちめ) とも呼んだ。
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公卿
朝廷につとめる身分の高い役人のことです。「公」は太政大臣[だじょうだいじん]と左・右大臣[さ・うだいじん]のこと、「卿」は大納言[だいなごん]・中納言[ちゅうなごん]・参議[さんぎ]と三位以上の役人のことで、これらをまとめて、公卿と言います。
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公卿
くぎょう
三位以上の貴族と参議をいう
摂政・関白・太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣を公 (こう) ,大納言・中納言および三位以上を卿という。朝廷の政治の最高構成員。参議は公卿会議に参加する要職なので四位でも卿といった。
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くぎょう【公卿】
摂政・関白以下,参議以上の現官および三位以上の有位者(前官を含む)の総称。中国の三公九卿に由来し,大臣を公に,大中納言・参議を卿に充てたという。狭くは大臣以下参議以上の議政官をいい,平安中期にはその定員を16人としたので,〈十六之員〉とか〈二八之臣〉とも称されたことが記録に見えるが,三位以上の前官および非参議をも含めて公卿と称することがしだいに一般化し,《公卿補任》に記載される範囲全体に及ぶようになった。
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世界大百科事典内の公卿の言及
【貴族】より
…しかも元来個人を対象とした貴・通貴身分は,父祖の庇蔭をもって叙位する蔭位(おんい)制によって再生産され,その世襲化を促し,貴族化へ道を開いた。第2は公卿の成立で,平安中葉までに参議を含む公卿の範囲が定まり,宮廷貴族の中核となった。しかも平安中・末期に入ると,公卿が特定の氏族・家系に固定する傾向を急速に強め,〈貴種〉とか〈華族〉などの用語も生まれた。…
【公家】より
…律令制のもとでは,為政者は三位以上の〈貴〉と四,五位の〈通貴〉にわけられ,地方の豪族や名望家はその下位に位置づけられていた。平安後期武士や寺社の勢力が強大になると,朝廷(おおやけ)の政治を担当する身分つまり朝臣が公家と呼ばれるようになり,なかでもその最高の地位たる大臣,納言,参議を公卿(くぎよう)(総じて三位以上を上達部(かんだちめ)という),四,五位の昇殿を許された者を殿上人(てんじようびと)といい,それ以下の地下人(じげにん)と区別した。 しかし鎌倉時代以後,武士を統率する幕府が成立してその長(征夷大将軍)を〈武家〉と呼ぶようになり,公家はこの武家や寺家・社家と相対する語に用いられた。…
【太政官】より
… (1)議政官組織を構成する官職は太政大臣(定員1,ただし本来は具体的な職掌をもたない天子輔導の官),左大臣・右大臣(各定員1),大納言(定員4,のち2となる)だが,8世紀はじめに令外官(りようげのかん)の中納言(定員3)と参議(はじめ定員なし,9世紀から8となる)が加わり,平安時代にさらに内大臣が加わった。これらが後世公卿(くぎよう)といわれるものであって,その定員は10世紀ころまでほぼ守られていた。この組織は,天皇の諮問にこたえ,国政や法を審議し,また,天皇の命令(勅)や審議決定事項を後述の弁官局に伝えて,行政執行命令書としての太政官符(諸官庁に下す命令書),太政官牒(寺院などに下す命令書),弁官下文(官宣旨(かんせんじ)ともいい,太政官符,太政官牒の様式と発布手続を簡略にしたもの)を作成させ,執行させる。…
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