(読み)しん

百科事典マイペディア 「晋」の意味・わかりやすい解説

晋【しん】

(1)中国,春秋戦国時代侯国山西の大半から河南の北部を領域とした。春秋時代の前7世紀後半,文公のとき覇者となる。以来100年にわたり南方の楚と対立しつつ中原に勢いを振るった。やがて権臣の力が強まり,前453年その領域は韓・の3家に分割された。これが戦国時代の始まりであり,3家は前403年,周の王室から諸侯として認められた。これを三晋ともいう。前376年晋の公室は滅ぼされた。(2)中国,三国時代の魏を継いだ統一王朝西晋,司馬晋ともいう。その基礎を築いたのは司馬懿(しばい)で,魏の権臣として政権を握り,それは子の師および昭に受け継がれた。昭は蜀を滅ぼして263年晋王となり,その子の炎(武帝)は265年魏に代わって新王朝を開いた。280年呉を滅ぼして天下を統一したが,4世紀には五胡の侵入が始まり,311年永嘉の乱によって匈奴(きょうど)の劉曜)に滅ぼされた。(3)中国,南朝の一つ。東晋ともいう。永嘉の乱のとき建業(南京)にいた司馬睿(えい)は317年帝位につき,晋朝を再興。北方の名族の多くも江南に移った。347年蜀を合わせ,383年【ひ】水(ひすい)の戦苻堅(ふけん)を破ってその南進をはばんだ。しかし武将たちの権力が強くなり,420年将軍劉裕(宋の武帝)に国を奪われた。(4)中国,五代の一つ。後晋ともいう。トルコ系の石敬【とう】(せきけいとう)(高祖)が契丹(きったん)の援助を得て936年建国。後を滅ぼして中原を収め,【べん】京(べんけい)(開封)に都した。ただし建国にあたって契丹に臣属し,燕雲十六州を割譲した。子の出帝は,契丹に反抗してその攻撃を受け,946年に滅ぼされた。出帝は捕らえられ,北送されて死ぬまで幽囚。
→関連項目韓(中国)魏晋南北朝時代江南三国時代(中国)大夏臺與南北朝覇者六朝文化

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旺文社世界史事典 三訂版 「晋」の解説


しん

①周代の侯国 前1106〜前376
②六朝時代の統一王朝
③五代の王朝の一国 936〜946
山西が中心。周の武王の孫,燮 (しよう) のとき晋と称した。前7世紀後半,文公が春秋の五覇のひとりに数えられたが,権臣の韓・魏・趙 (ちよう) (三晋)に滅ぼされた。
西晋(265〜316)と東晋(317〜420)からなる。西晋は三国の魏の権臣司馬炎(武帝)が魏を滅ぼして建てた国。ついで呉を滅ぼして天下を統一(280),洛陽に都し,占田法を施行するなど治績があがったが,八王の乱と五胡の侵入によって衰え,匈奴 (きようど) の劉曜 (りゆうよう) に滅ぼされた。東晋は一族の司馬睿 (しばえい) (元帝)が江南に移り,建業 (けんぎよう) (現在の南京)に建てた国。淝水 (ひすい) の戦い(383)で前秦の苻堅 (ふけん) を破って江南を確保し,華北から移住してきた貴族と土着の豪族の上に政権の基礎をおき,流民の処置にからんで土断法をしいた。貴族文化が栄え清談が流行したが,宋の劉裕 (りゆうゆう) に滅ぼされた。
通称後晋 (こうしん) または石晋 (せきしん) 。石敬瑭 (せきけいとう) が遼 (りよう) の助けをかりて建国。遼に滅ぼされた。

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デジタル大辞泉 「晋」の意味・読み・例文・類語

しん【晋】

中国の国名
春秋時代列国の一。春秋時代初期、都をこうに置き、山西の大半と河南の北部を領有文公の時、中原の覇者となったが、領土の三氏に分割されて衰え、前376年に滅亡した。
三国の権臣司馬炎が、265年に禅譲を受けて建てた王朝。都は洛陽。280年にを平定して天下を統一。八王の乱を機に五胡が起こり、316年に匈奴の劉曜によって滅ぼされた(西晋)。翌317年、王族司馬睿しばえいが江南に拠り、建康(南京)に都して再興したが、王威ふるわず混乱。419年、将軍劉裕りゅうゆうによって滅ぼされた(東晋)。
五代の一。後晋こうしんのこと。

しん【晋〔晉〕】[漢字項目]

人名用漢字] [音]シン(呉)(漢) []すすむ
中国の春秋時代の国名。また、三国時代と南北朝時代の間の王朝名。「三晋西晋東晋
[名のり]あき・くに・ゆき

すすむ‐しん【×晋】

古代中国の国名「」を「(はたしん)」と区別するため、訓を上に付して呼んだ語。

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世界大百科事典 第2版 「晋」の意味・わかりやすい解説

しん【晋 Jìn】

中国,春秋戦国時代の侯国。前11世紀末,周成王の弟叔虞が唐(山西省翼城県西)に封ぜられた国。前679年曲沃(山西省聞喜県)の分家の武公の国を奪い,以後周囲の小国や北の狄(てき)を討って疆域を拡大した。前7世紀後半の文公は,楚の北上をおさえて,覇者となる。以後華北の強大国として,楚と対立したが,春秋後半には,大夫の勢力が強大となり,晋侯の実権は失われ,前453年に韓・魏・趙3家に国土を三分され,前376年3家に滅ぼされた。

しん【晋 Jìn】

中国,河内温(河南省温県)の司馬氏が建てた王朝。265‐420年。都が洛陽に置かれた時代を西晋,都が江南の建康(南京)にうつった317年以後を東晋とよぶ。
[西晋]
 後漢の清流士大夫の流れをくむ名族の司馬氏は,重臣となった司馬懿(しばい)が249年(嘉平1)のクーデタによって反対党の曹爽(そうそう)一派を倒して以来,その子の司馬師・司馬昭の時代にいたってますます権勢をほしいままにした。魏の第4代皇帝高貴郷公が〈司馬昭の心は路人も知る所〉といったように,司馬氏の簒奪の意図はあらわとなり,ついに265年,司馬炎(武帝)が魏を奪って王朝を開いた。

しん【晋 Jìn】

中国,五代第3番目の王朝。後晋ともいう。936‐946年。後唐明宗の女婿石敬瑭(高祖)が建てた。石氏は突厥沙陀系の出身。建国時に契丹の援助を得た代償に,契丹に臣礼をとり,歳貢をおくり,燕雲十六州を割譲した。このような事情から政権基盤は弱く,国内の有力節度使の反乱が相次いだ。第2代出帝期には武臣を中心に対契丹強硬論が強まり契丹に挑戦したが,逆に侵入を受けて都開封は陥落し,出帝は北方に連れ去られて滅びた。

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世界大百科事典内のの言及

【春秋戦国時代】より

…前半の大半の期間のことが魯国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国晋の家臣であった韓・魏・趙の3代が主家を三分独立し,晋は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれる韓・魏・趙・楚・斉・燕・秦の対立抗争の時代となるからである。
[歴史]
 《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,魯(山東省曲阜),斉(山東省臨淄(りんし)),曹(山東省定陶),衛(河南省淇県,のち滑県),鄭(河南省新鄭),宋(河南省商丘),陳(河南省淮陽(わいよう)),蔡(河南省上蔡,のち新蔡,さらに安徽省鳳台),晋(山西省曲沃),秦(陝西省鳳翔,のち咸陽),楚(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),燕(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には周王室があった。…

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