突厥
とっけつ
Tu-jue; T`u-chüeh; Türk
6世紀中頃から8世紀中頃まで,モンゴル,中央アジアを支配したチュルク族阿史那 (あしな) 氏の建てた遊牧国家。もとは柔然の支配下にあったが,阿史那氏に土門 (→伊利可汗 ) が出るに及んで強大となり,鉄勒諸部を従え柔然から独立した (552) 。第3代の木杆可汗 (もくかんかがん) にいたり柔然を滅ぼし,契丹,キルギスを破り,また西方ではエフタルをも破った。突厥の国家は中央部を大カガンが支配するほか,多くの小カガンが分立していたが,583年西部を支配した西面可汗達頭 (たっとう) は大カガンから独立し,突厥は東西に分裂した。東突厥はしばらく強勢を誇ったが,その支配下にあった鉄勒諸部の反乱を受け,630年唐に帰付して一時消滅し,西突厥も7世紀の末に内紛で滅んだ。東突厥は7世紀末に阿史那骨咄禄 (あしなこっとつろく) が出て復興し,みずからイルテリシュ・カガンと称した。以後数代にわたってモンゴルを支配したが,内紛を生じ,744年鉄勒の一部ウイグルに滅ぼされた。
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突厥
とっけつ
Türküt
6〜8世紀にモンゴル・中央アジアに建国したトルコ族およびその国家名
初め柔然 (じゆうぜん) に仕えて製鉄に従事していたが,族長土門が柔然を破って552年に独立。隋はその勢力増大を恐れて内部離間策を講じたので,6世紀末に東西に分裂して抗争した。その後,隋の衰えに乗じて勢力を回復し,特に東突厥は7世紀初めに最盛期に達した。しかし,唐の攻撃と内紛のため,630年に唐に服属し,西突厥も唐に滅ぼされた。679年東突厥は独立を回復したが,王(可汗)が暗殺されて統一は乱れ,744年ウイグルに滅ぼされた。
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とっけつ【突厥】
六世紀中頃から、約二世紀間、モンゴル高原・中央アジアを支配したトルコ系遊牧部族と、その国家。六世紀末、東西に分裂。東突厥はモンゴル高原を支配し、六三〇年、唐に滅ぼされたが、七世紀末に
再興、八世紀なかばに
滅亡した。西突厥は中央アジアを支配し、七世紀中頃、唐に圧迫され、七世紀末に滅亡。
※書紀(720)天智即位前(北野本南北朝期訓)「突厥(トックヱツ)の王子(せしむ)契苾加力(けいひつかりょく)等と」
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デジタル大辞泉
「突厥」の意味・読み・例文・類語
とっけつ【突×厥】
《Türkの音写》6~8世紀にかけて、モンゴルから中央アジアを支配したトルコ系遊牧民族。また、その国。ササン朝ペルシアと協力してエフタルを滅ぼし大帝国となったが、583年には東西に分裂。モンゴル高原を支配した東突厥は、630年、唐の攻撃で滅び、中央アジアを支配した西突厥も唐に討たれ、7世紀末に滅亡。東突厥はその後一時復興したが、8世紀初めウイグルに討たれ滅亡。とっくつ。
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とっくつ【突厥 Tū jué】
6~8世紀に北アジアを中心とし中央アジアをも支配したトルコ系部族およびそれを中心とする遊牧部族連合国家の名称。呼称はチュルクTürkの音訳で,〈とっけつ〉とも呼ばれる。その君主は可汗またはハガン(カガン)Qaghanと呼ばれる。その下に小可汗(小ハガン),葉護(ヤブグ)などの諸侯がいて,支配階層を形成した。アルタイ山脈の南西麓にいた阿史那氏の族長土門(チュメンTümän)はジュンガリアの鉄勒諸部を服属させたのち,552年に柔然を倒して伊利(イルリグIllig)可汗(ブミンBumïn可汗)と称し,モンゴリアの遊牧騎馬民を統合する一方,弟の室点蜜(しつてんみつ)(イステミIstämi可汗,ビザンティン史料のシルジブロスSilziboulosまたはディザブロスDizaboulos)は,エフタルを滅ぼして(567)ソグディアナを手中にし,天山山脈中のユルドゥズ渓谷を本拠とする西面可汗として中央アジアを掌握した。
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