揚州(読み)ようしゅう(英語表記)Yáng zhōu

精選版 日本国語大辞典 「揚州」の意味・読み・例文・類語

よう‐しゅう ヤウシウ【揚州】

[一] 中国古代の行政区画。禹(う)の九州の一つ。現在の江蘇、安徽両省と江西、浙江、福建各省の一部を含む。
[二] 中国江蘇省南西部の都市。漢代の広陵県の地で、隋代に揚州江都郡の中心となった。揚子江北岸、大運河沿いの要衝に位置し、隋以後経済都市として栄えた。名勝史跡が多い。

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デジタル大辞泉 「揚州」の意味・読み・例文・類語

よう‐しゅう〔ヤウシウ〕【揚州】

古代中国の行政区画、の九州の一。現在の江蘇安徽あんきの両省と、江西浙江せっこう福建各省の一部にあたる。
中国江蘇省中西部の河港都市。揚子江に連絡する大運河沿いにあり、古くから水運の要地。鑑真ゆかりの大明寺がある。ヤンチョウ

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改訂新版 世界大百科事典 「揚州」の意味・わかりやすい解説

揚州 (ようしゅう)
Yáng zhōu

中国江蘇省南西部,長江(揚子江)北岸より大運河を少し北上したところにある市。人口71万(2000)。歴史上の地名としては〈禹貢〉の九州にみえる揚州,漢代の揚州刺史のように,長江南部の広い範囲をいうこともあるが,隋の統一後,ここが江南の中心となり,治所が建康(南京)より移されて以来,この地を揚州と称するようになった。揚とは長江のような大河の波浪が揚がることからつけられたという。揚州付近には標高50m前後の台地があり,長江南岸に比べると遅れるが,新石器時代末期よりこの微高地を中心に居住がすすんだ。当時長江は今より幅広く分流し,砂州を形成しながらこの台地の縁辺にまで迫っていた。春秋時代には邗(かん)国が成立し,のちに呉に併合されたが,呉王夫差は北方へ通じる運河邗溝(かんこう)を開き,その拠点として邗城(現在の揚州市の北西)を築くなど,地域の開発の基礎をつくった。そののち楚が領有して広陵と改め,漢になって広陵県が置かれ,江都国(のち広陵国,ついで広陵郡)の治所となった。南北交通・江南経略の要衝としてここは特に重視され,漢王室の直轄地として親族が配されたが,要衝地としての性格は歴史を通じて変わらなかった。広陵県からは,より江岸に近く江都県が分置されたが,広陵と江都は以後も双子都市のように並存した。

 六朝時代には広陵郡の中心は淮陰(わいいん)(清江市)に移り,こちらは建康に近い軍事上の要地として,しばしば南北両軍の戦乱の舞台となった。隋の煬帝(ようだい)は,揚州(江都郡)を南方経営第一の拠点としてきわめて重視し,その太守は京兆尹(けいちよういん)(長安の長官)と同じ秩禄であった。さらにこれまで部分的に開かれていた水路を結んで大運河が開通すると,長江水運との交会点をなす揚州は全国第一の交通中心の位置を得,煬帝自身しばしばこの地を訪れて滞在し,江都宮をはじめとして宮殿園林を築いたが,煬帝の最期の地ともなった。国内交通の中心としてのみならず,唐代には南海,東海との国際交易港として栄え,アラビア商人の間ではKantou(江都)の名で知られた。また銅器,絹織物,造船などの工業も発達し,これに加えて唐中期の安史の乱以降は,混乱を避けて北方の有力商人,手工業者,文化人を含む大量の人口が移住した。これに応じて都市域も拡大され,当時最大の都市として繁盛し,益州(四川省成都市)とともに〈揚一益二〉といわれた。日本の遣唐使の船も来航し,839年(開成4・日本の承和6)円仁が上陸し,また753年(天宝12)鑑真が出帆したのもここであった。しかし唐末の戦乱より荒廃し,五代には楊行密がここにを建て,ついで南唐の東都ともなったが,後周の攻撃にあって再び破壊された。このころにはかつての都城の一隅に〈周小城〉と呼ばれる小規模な城郭を残すのみであった。

 宋代には南北漕運の拠点となり,都市の規模もやや回復したが,商業の中心は大運河の長江への入口にある真州(儀徴市)に移り,海外との交流も明州(寧波市)や松江など,より外洋に近い中心地が新たに成立し,経済的にも豊かな生産力を背景とする蘇州や杭州の地位が高まり,揚州は江南の地方中心の一つに衰退していった。南宋になって揚州は北方に対する軍事基地として修築を加えられたが,長江北岸にあるため南下する北方軍の攻撃にさらされ,最後はモンゴル軍によって破壊された。元代にも江南経営の要衝と考えられ,マルコ・ポーロの《東方見聞録》に,兵器製造がさかんなことや多くの軍隊が駐屯していることが記されている。

 元末に朱元璋(のちの明洪武帝)が占領したときには,城中にわずか18家を数えるだけであったという。しかし明代になると再び商工業が復興し,特に淮南塩集散地として塩商の往来が都市を繁盛させた。明末には《揚州十日記(じゆうじつき)》に記されるような清軍の蹂躪(じゆうりん)を受けたが,やがて経済・文化ともに栄え,書籍の印刷出版,揚州画派と呼ばれる画風(揚州八怪),揚州方言を用いた歌曲・戯芸(揚州評話,揚州清曲等)など,独特の地域性にもとづく文化を発達させた。また綿,絹織物のほか,漆器,香料は特産として名高い。現在有名な観光地となっている何園,个園(かえん),瘦西湖(そうせいこ)等の美しい園林も,清代に有力な塩商や官僚によって設けられたものである。

 近代になると新しい交通体系の発達からとり残され,また淮南塩にかわって淮北塩が発達したため商業中心としての機能も低下し,昔の繁栄はなく,さびれる一方であった。解放後江都県の都市部から揚州市が置かれ,市の東に別に江都県が置かれた。伝統工芸や観光を主要な産業とする伝統文化都市であるとともに,工業開発もすすめられている。また江都県はその後市となり,江北の水利建設の中心となっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「揚州」の意味・わかりやすい解説

揚州
ようしゅう / ヤンチョウ

中国、江蘇(こうそ)省中南部、揚子江(ようすこう)と高郵湖(こうゆうこ)の間にある地級市。大運河と通揚(つうよう)運河の分岐点にあたる。1949年に江都(こうと)県の市街区を分離して市が設置された。江都など3市轄区と1県を管轄し、2県級市の管轄代行を行う(2016年時点)。常住人口445万9760(2010)。市区の北部には蜀岡(しょくこう)とよばれる比高10メートル前後の第三紀に形成された丘陵が続く。南部は揚子江の沖積平原で、泥砂が堆積し低湿である。

 かつては農産物の集散地で、また漆器などの伝統工芸と食肉加工などが行われていた。中華人民共和国成立後は各種の工業が発達し、1958年に新たに開通した大運河(京杭(けいこう)大運河)の両岸には化学肥料、機械、半導体などの工場が操業している。市の北部、旧大運河(古運河)の沿岸には火力発電所と製鉄所が立地し、南部の宝塔湾(ほうとうわん)地区は綿紡績、電動工具などの工業区である。また、ポリエステル繊維生産が発達しており、中国の代表的な繊維産業の一つに数えられる。農業では、蓮根(れんこん)の生産が盛ん。伝統工芸品では漆器、玉器、造花、刺しゅう、切り紙細工が有名。

 市の西の痩西湖(そうせいこ)と北の平山堂一帯は風光明媚(めいび)な遊覧地区である。1973年に大明寺に鑑真(がんじん)和尚記念堂が建設された。

[林 和生・編集部 2017年2月16日]

歴史

春秋時代に呉が広陵邑(こうりょうゆう)を建て、楚(そ)がこれを継ぎ、秦(しん)、漢では広陵県、東晋(とうしん)以後は南兗(なんえん)州が置かれた。隋(ずい)代に揚州と改名、交通の要地として成長、離宮もあった。唐もこれを受け、東アジアやアラブとの海上交通が揚州を拠点とし、また北送する江南の米、塩などの集結地となって栄え、「揚一益二」つまり四川(しせん)(益州(えきしゅう))の成都(せいと)と並ぶ華中の大都会となった。日本に布教した律宗の僧鑑真は近くの大明寺に居住していた。

 唐末の兵乱で荒廃したが、節度使楊行密(ようこうみつ)(852―905)が揚州を都に呉国を建てた。このころから揚州は江蘇沿海の淮南(わいなん)塩の集散地、また北送される江南の米、絹などの積換え地となり、北宋(ほくそう)では転般倉、南宋では総領所が置かれた。明(みん)・清(しん)では北辺の軍隊への補給に淮南塩からの利益が利用され、山西(さんせい)、新安(しんあん)の大商人が揚州に集まってふたたび繁栄し、学者、文人による文化的サロンもできた。『揚州画舫録(がぼうろく)』にその繁栄ぶりが詳しく記録されている。

[斯波義信・編集部 2017年2月16日]

世界遺産の登録

2014年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「中国大運河」の構成資産として、揚州運河が世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。

[編集部 2017年2月16日]

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百科事典マイペディア 「揚州」の意味・わかりやすい解説

揚州【ようしゅう】

中国,江蘇省南西部の都市。旧名江都。大運河西岸にあり,隋代以後特に繁栄した。水陸の交通が便利で,付近に産する米,麦,ワタなどを集散する。以前は淮海塩の大きな取引で有名であった。製鋼工場がある。漆器,刺繍(ししゅう),彫刻の伝統工業も盛ん。痩西湖・平山堂・大明寺など名勝古跡が多い。奈良の唐招提寺を建立した唐の高僧鑑真和尚は,大明寺の住職だった。227万人(2014)。
→関連項目長江

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「揚州」の解説

揚州(ようしゅう)
Yangzhou

中国江蘇省の長江北岸近くに位置する都市。戦国時代以来広陵と呼ばれ,隋以後揚州と改名。運河沿線の物資集散地で,アラブ人はカンツー(江都)と呼んだ。明清時代には塩商が集まり,文化も繁栄したが,太平天国の乱で荒廃した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「揚州」の解説

揚州
ようしゅう
Yángzhōu

長江北岸,大運河に沿う江蘇省の都市
水運の要地で,隋の煬帝 (ようだい) の離宮が置かれた。唐代には海上貿易で栄え,“カンツー”の名で外国に知られ,アラブ商人も在留した。

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世界大百科事典(旧版)内の揚州の言及

【九州】より

…諸説ある中で最も有名なのは《書経》の〈禹貢〉にみえる九州で,山川を基準にして中国を次のように分けている。冀(き)州(今日の山西省,河北省),兗(えん)州(河北省南部,山東省北西部),青州(山東省中東部),徐州(山東省南部,江蘇省北部,安徽省北部),揚州(江蘇省,安徽省,浙江省),荆(けい)州(湖北省,湖南省,江西省),予州(河南省,湖北省北部),梁州(陝西省南部,四川省),雍(よう)州(陝西省,甘粛省)の九つである。《周礼(しゆらい)》の〈職方氏〉の九州説は〈禹貢〉の冀州の北半分を幽州(河北省北部)と幷(へい)州(山西省北部)に分け,代りに徐州と梁州を除いている。…

【江蘇[省]】より

…この陸地化が急速に進んだのは,1194年に黄河道が変わってから范公堤(はんこうてい)の外側に大量の砂泥が堆積したためである。 長江三角州は鎮江,揚州から東へ長江の沖積によってできた大平原で,北は新通揚運河から南は杭州湾まで,上海市はその中に含まれる。長江は南京を過ぎて平地に出ると,流れはゆるやかになり大量の砂泥を下流に沈殿させて,太湖を中心とする広大な湿地帯を作りあげた。…

【揚州画舫録】より

…中国,清代18世紀末の揚州(江蘇省)の都市繁盛記。18巻。…

※「揚州」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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