宮地村(読み)みやじむら

日本歴史地名大系 「宮地村」の解説

宮地村
みやじむら

[現在地名]一の宮町宮地

阿蘇中央火口丘から北流する河川が形成した扇状地にあり、東は北坂梨きたさかなし村・坂梨村、西は役犬原やくいぬばる村・西町にしまち(現阿蘇町)、南は色見しきみ(現高森町)、北は三箇さんが村・井手いで村と接する。中世には宮地四面みやじしめんとして史料にあらわれることが多い。宮地は阿蘇社の社地・神域であり、四面は注連をめぐらした地として、条里的な方八町に区画された一般の郷村とは支配や負担の異なる根本的神領たる直属地であるとみられる。宮地四面の成立は阿蘇社と神戸の民との関係に由来するとされる。「日本紀略」弘仁一四年(八二三)一〇月二二日条に、健磐龍命に「特奉宛当郡封二千戸」とあるが、これは「二十戸」の誤りとされる。この二〇戸の神戸は阿蘇社近辺の地であり、これが宮地四面とよばれる特殊な地域の形成と住民の伝統につながっていくと考えられている。神戸の民はその中から祝部(神官)を出すことが認められ、社家(神官と権官)二〇人はこの神戸の伝統をひくものとも考えられ、農民層や神人層とは異なる特権的階層であった。こうした社家や神人・供僧らが集住しているのが宮地四面であり、神宮寺である青龍しようりゆう寺経坊本堂もあり、阿蘇社の聖俗の人的な中枢部であった。

建仁三年(一二〇三)一〇月一三日の北条時政裁許状(阿蘇家文書)に「四面八丁内田畠地元妨可停止事」とある。治承二年(一一七八)三月一三日の阿蘇社宮師僧長慶譲状案(同文書)で嫡子亀法師丸に譲った「居地薗并屋敷」の四至では、南は神人の草大夫屋敷、北は同じく供僧吉丸坊の屋敷と接している。徳治二年(一三〇七)八月日の阿蘇社長寿丸供僧免田屋敷坪付注文(同文書)には、田地は「一所 三反 居取石田宮地」とあり、屋敷分は「一所 橋爪 一所 石田 一所 切子 以上十丁内」とあり、いずれも宮地四面のうちと考えられる。さらに織豊―江戸初期とみられる年月日未詳の阿蘇社家中上代居屋敷注文(同文書)には、御宮より一町余南の居屋敷一ヵ所は「木下」にあり、「只今御百生居申候、社家三人居申候」とみえ、四面内と思われる植木原・田原・横田・今村・中村・筒川・鍛屋薗・柿木・田・外薗などの居屋敷が記され、それぞれ御宮より南・北・西方に一町から九町の距離に社家・社人がいると記される。

正平一九年(一三六四)一二月日の阿蘇社領宮地四面内并郷々闕所注文(阿蘇家文書)では「きりこのもの三郎のあと」「かにさこの四郎入たうのあと」など七人の跡地と「はんさうの御せんのふん」が闕所として記されている。

宮地村
みやじむら

[現在地名]城南町宮地・下宮地しもみやじ

南北に広がる宮地台地と、南を流れる浜戸はまど川右岸の低地平野に成立し、北東は吉野よしの山へ、台地の東部は出水いずみ村から上益城郡府領ふりよう(現甲佐町)を経て緑川へと至る。隈牟田くまむた庄の鎮守であった七所しちしよ(現宮地神社)に由来する村名で、宮本みやのもと宮下みやのしたなど関連する地名が周辺にみられる。字新御堂しんみどうから縄文後・晩期の御領式土器が、また新御堂・構口かまいぐち祇園寺ぎおんじ一町畑いつちようばた西福寺さいふくじ前無田まえむた向権現むかいごんげんの各所と中尾なかお貝塚では弥生中・後期の土器が出土している。さらに宮本には熊寺くまでら古墳があり、付近からは須恵器が出土している。浜戸川右岸の三石みついしにも円墳がある。宮本には熊寺とよばれた寺院の跡があり、奈良から平安時代にかけての須恵器が出土している。近辺は古代の官道に設置された球磨くま駅家の所在地と推定されている。球磨駅は、薩摩・大隅方面と、長崎ながさき(現宇土郡不知火町)を経て島原・天草へ至る分岐点であった。

宮地村
みやじむら

[現在地名]八代市宮地町・妙見みようけん

古麓ふるふもと村の北、水無みずなし(日置川)が南流して平野部にさしかかる所に立地する。妙見宮(現八代神社)の門前町を中心に形成され、同川も当地の妙見中宮ちゆうぐう前を通る辺りで中宮川と呼称された。妙見上宮跡から布目瓦が出土し、平安時代草創の妙見上宮、宮寺跡と推定されている。

正和三年(一三一四)八代庄三ヶ村弥松一方の伊賀左衛門入道代沙弥光蓮は荘内太田郷「宮地白木社」供僧の宰相房弁秀が観妙寺免田五段を質券に入れ、利銭五貫文をとりながらその弁をしないことを訴えている(同年四月日「八代荘伊賀左衛門入道代光蓮申状」舛田文書)。明徳二年(一三九一)六月六日、八代に侵入した今川軍は「宮地原」で合戦ののち八町嶽はつちようだけ城を攻め、名和顕興を降伏させた(同年九月日「武雄社大宮司跡代新兵衛尉軍忠状」武雄神社文書)。「八代日記」によると、天文一四年(一五四五)一一月二七日、相良長唯は当地の東泉とうせん寺に勅使小槻伊治を迎え、口宣をうけ、一二月六日烏帽子・直垂の服装で白木妙見に参拝している。

宮地村
みやじむら

[現在地名]岡崎市宮地町

上和田かみわだ郷の分村。北東は上和田村、東ははしら村、西は法性寺ほつしようじ村、南は井内いない村と接する。矢作川左岸の氾濫原に立地。分村の時点は不明であるが、天正一七年(一五八九)の奉行水野平右衛門により出された七ヵ条定に宮地村の名がみえる(参州岡崎領古文書)。天正一八年に岡崎城主田中吉政領、慶長六年(一六〇一)に岡崎藩領に編入して明治に至る。村域内には同八年に家康朱印を拝領した朱印高一五石六升の日蓮宗妙国みようこく寺と朱印高四三石の犬頭けんとう社がある。

慶長九年の岡崎藩検地帳写(本多家文書)では「三州額田郡岡崎領宮地村検地帳」とあり、額田ぬかた郡になっている。また、妙国寺領は一〇石が当村にあり、五石は「法性寺村分寺門前屋敷畠」とあり、法性寺村住人が作人である(妙国寺文書)。岡崎藩領と犬頭社領はおおむね犬頭社人の所有地である。

宮地村
みやのじむら

[現在地名]久留米市みやじん一丁目・同四―五丁目

筑後川中流右岸の自然堤防上にあり、西端を新宝満しんほうまん(旧筑後川本流)が流れる。「高良玉垂宮神秘書」に「ミヤノヂ」「ミヤノチン」とみえる。地名の由来を懐良親王が当地に滞留したという伝承に求める説(北筑雑藁)、延文四年(一三五九)の大保原合戦との関連を指摘する説などがある。「高良玉垂宮神秘書」に「ミヤノチン 十二丁ハ、六丁ツヽリヤウフクナリ(両福成)カリヤウナリ」とあり、高良こうら山八人神官家の構成員福成氏の惣領家と庶子家が半分ずつ知行していたらしい。

宮地村
みやじむら

[現在地名]下呂町宮地

乗政のりまさ川が西流する竹原たけはら(御厩野川)へ合流する付近平地にある。湯之島ゆのしま方面から初矢はちや峠を経て当村に入る道は飛騨街道の古道と南北なんぼく街道(竹原通)が重なっており、当村から両道が分れる。辻落つじおちの地名が残る。竹原川下流の枝村川合かわい筑後ちくごを経て川沿いに小川おがわ大淵おおぶちに至る保木道もあった。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳に竹原郷として村名がみえ、高三五九石余、うち田二二五石余・畑一三三石余、物成一〇七石余。同一八年の郷帳では三六〇石余。

宮地村
みやじむら

[現在地名]賀陽町宮地

岨谷そわだに村の北、槙谷まきだに川のさらに上流に位置する。集落は田和たわ中之谷なかのや南谷みなみだになどがあり、丘陵上に点在している。当地付近はかつて野山のやまと称され、中世の野山郷に比定される。当村のほかきた村・西にし村などの地域が含まれたとみられ、「祇園社記」によれば、弘安年間(一二七八―八八)に後深草院から土佐国永武郷の替地として祇園社(現京都市八坂神社)に寄進された。

宮地村
みやじむら

[現在地名]和良村宮地

鬼谷おんだに川と鹿倉かくら川の合流点にあり、西は横井よこい村。南北に細長く、耕地や集落の大半は北半分に集中する。慶長一二年(一六〇七)二月三日の戸隠とがくし神社社殿造立棟札に「脇之肝煎遠藤木司 宮地之代官之」とみえる。慶長郷帳では高三五二石余。元和二年(一六一六)村高領知改帳では同高で、遠藤慶隆(郡上藩)領。正保郷帳では田方一六五石余・畑方四四石余。

宮地村
みやじむら

[現在地名]池田町宮地

小牛垣内こうじかいと村の西に位置し、南は願成寺がんじようじ村。中世は池田庄内の郷村として推移したとみられ、地内の熊野神社は同庄の総社であったという。地名もそのことに由来するか。天正一七年(一五八九)一一月二一日付豊臣秀吉の美濃国御蔵入目録(内閣文庫蔵)に村名がみえ、高二八〇石余。慶長郷帳にみえる池田郡宮代村二九二石余は当村と考えられる。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では松平忠良(大垣藩)領。正保郷帳では尾張藩領で、田三九一石余・畑八四石余、山年貢・山札米合せ一石余。

宮地村
みやじむら

[現在地名]芸北町宮地・大元おおもと

雲耕うずのう村の東に位置し、大佐おおさ川上流に沿って標高約六八〇メートルの高地に集落が開ける。東から南は政所まんどころ村、北は荒神原こうじんばら村に接する。村名は「奥山庄惣社八幡宮之宮司、往古当村住居候故此名を付けたる由」(国郡志下調書出帳)と伝え、元和五年(一六一九)の安芸国知行帳に「宮司村」とみえ、のち「宮地村」に改められた(広島藩御覚書帖)

宮地村
みやじむら

[現在地名]国府町宮地

荒城あらき川と宮谷みやたに川の合流点一帯、東の荒城川上流は柏原かしわばら村・三之瀬さんのせ(現大野郡丹生川村)、西はいま村・東門前ひがしもんぜん村。上古は今村・西門前村東門前村を含む大村で、荒城神社の参道にある村という意味で宮道みやじとよばれたが、後世宮地に変わったという(斐太後風土記)。建久四年(一一九三)右近将監多好方が源頼朝より荒木あらき郷地頭に補任され、村内殿村とのむらは代官居住の旧跡地と伝える(国府村史)。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では荒木郷に属し、宮地・三ノ瀬・王敷地・柏原・切谷・大沼・森部の七ヵ村分として田方四七五石余・畑方一六二石余、物成一五九石余とある。同一八年の郷帳では高三二六石余。

宮地村
みやじむら

[現在地名]北房町宮地

備中川南岸にあり、対岸は山田やまだ村。宮地川流域に広がり、落合おちあい往来が通る。寛永備中国絵図・正保郷帳にみえる水田みずた村に含まれ、正保郷帳に載る水田村の枝村下水田村の一部を占めたと推定される。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)に宮地村とみえ、古高九二四石余・新高一千二五〇石余。天保郷帳には水田と肩書がある。領主の変遷は下呰部しもあざい村に同じ。庄屋は湯浅・八藤・木下の三氏であった(備中村鑑)

宮地村
みやじむら

[現在地名]岩木町宮地

東は菖蒲川しようぶがわ村、北は葛原くずわら村、西は新法師しんぽうし村、南は五代ごだい村に接する。

寛永一七年(一六四〇)の津軽百助宛の津軽信義黒印知行宛行状(国立史料館蔵)に「一宮地村之内」とあり、村内に津軽百助の知行地があった。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳に鼻和はなわ郡のうちとして村名がみえ、村高は四〇三・九三石、うち田方三七七・二三石である。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば村高は六三二・四〇八石、うち田方が五七六・〇七四石、畑方五六・三三四石で、上田と中田が田方の六一・一パーセントを占める。

宮地村
みやじむら

[現在地名]前橋市宮地町

北は下佐鳥しもさどり村、東は那波なは西善養寺にしぜんようじ村、南は房丸ぼうまる村、西は寺家じけ村。寛文郷帳に田方四二三石一斗余・畑方四一石余とある。元禄二年(一六八九)の検地帳(細野文書)に田三二町八反余・畑三町一反余とあり、田の多い村であった。この検地帳によれば、寛文一〇年(一六七〇)の古水帳を保存していたことがわかる。天保一四年(一八四三)村明細帳(細野文書)によれば、高五一〇石一斗余、田三三町余・畑八町二反余、家数三八、男六八・女六三、馬一一とあり、郷倉一がある。

宮地村
みやじむら

[現在地名]建部町宮地

東は旭川に面し、南は市場いちば村、西は富沢とみさわ村、北は建部上たけべかみ村に接する平場の村。室町中頃の三月一八日の松田元成書状(難波文書)に「建部郷宮地内給分、下作役文給」とあり、難波右馬吉に与えられている。津高つだか郡に属し、寛永備前国絵図に高三四七石余とある。貞享元年(一六八四)の津高郡高目録(池田家文庫)では残高三八六石。「備陽記」によると田畠二二町七反余、家数三一・人数二〇一。

宮地村
みやちむら

[現在地名]美浦村宮地

茂呂もろ村の南東に位置する。古くは霞ヶ浦が湾入し、宮地入みやちいりと称していた。中世は信太しだ庄に属し、江戸時代は旗本領で、元禄郷帳の村高は三五八石余。幕末は旗本森川氏領一八一石余、水野氏領一九二石余(各村旧高簿)

村の北側台地中腹に、浄土宗の泰慶山蔵勝ぞうしよう寺があり、本尊の阿弥陀如来(金銅仏)は寺伝によれば、執権北条時頼が寄進したものという。

宮地村
みやじむら

[現在地名]立田村宮地

佐屋さや川沿いに位置し、東は津島つしま神領(現津島市)、西は石田いしだ村に接する。「尾張国地名考」に「津島神社へ葛木の方より詣る道条なれば宮路といふ。地は借字にて宮路の義也」とある。「徇行記」によれば、概高四七一石余は一円蔵入地。田は一五町二反八畝余、畑は一〇町四反八畝余。早尾はやお輪中の一村で古くからの村。

宮地村
みやじむら

[現在地名]海津町宮地

本阿弥ほんなみ新田の南、揖斐いび川左岸に立地、南は安田やすだ新田。慶長郷帳にみえる宮代村二六二石余が当村と考えられる。元和二年(一六一六)の村高領知改帳には宮地村とあり、高二〇六石余で徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳でも同藩領で、新開二二石余、田五石余・畑二七石余、野年貢一九五石余とある。元禄郷帳では幕府領。

宮地村
みやじむら

[現在地名]越知町宮地

柴尾しぼお村の西北、仁淀によど川右岸にあり、吾川あがわ横畠よこばたけ村と相対する。中世は黒岩くろいわ(現佐川町)城主片岡氏の所領で、天正一八年(一五九〇)の黒岩村地検帳に村名がみえ、「宮地ヤシキ」五反余が記されるが居屋敷はない。江戸時代は黒岩村の枝郷で、名本が置かれていた。

宮地村
みやじむら

[現在地名]英田町滝宮たきのみや

横川よこがわ村の北に位置し、西はきた村。正保郷帳に村名がみえ、田二六石・畑一七石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高・開高合せて八石余、村位は下。

宮地村
みやじむら

[現在地名]久米南町宮地

下二しもにヶ村の南に位置し、正保郷帳・天保郷帳では同村の内。元禄一〇年(一六九七)の美作国郷村帳に下二ヶ宮地村とあり、高三四四石余。「作陽誌」では家数二九、男九二・女八〇。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は上二ヶ村と同様。

宮地村
みやじむら

[現在地名]加賀市宮地町

野田のだ村の西にあり、北の篠原しのはら村との間の水田の中に白鳳期の創建とみられる宮地廃寺がある。慶長三年(一五九八)八月五日の小早川秀秋宛行状(黄薇古簡集)によると宮地村のうち六一石余が龍野孫兵衛に宛行われている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報