海津郡(読み)かいづぐん

日本歴史地名大系 「海津郡」の解説

海津郡
かいづぐん

面積:一一三・六四平方キロ
南濃なんのう町・海津かいづ町・平田ひらた

明治三〇年(一八九七)に成立した郡。木曾三川の合流域に立地する輪中地帯で、その歴史は文字どおり水との闘いであった。県西部、その最南端に位置し、北部は平田町、東に海津町、西に南濃町がある。北は羽島市・安八あんぱち輪之内わのうち町・養老ようろう郡養老町、西から南にかけては三重県員弁いなべ北勢ほくせい町・同県桑名郡多度たど町・同郡長島ながしま町、東は愛知県海部あま立田たつた村・同郡八開はちかい村・同県中島なかしま祖父江そぶえ町と接する。南濃町の西側は養老山地が連なり、その麓に並行して近鉄養老線と国道二五八号が通る。現郡域は近世初期の正保郷帳によれば、西側に石津いしづ郡、その東に海西かいさい郡、両郡の北に安八郡石津郡の北に多藝たぎ郡があり、近世はこの四郡で推移した。郡域をみれば南濃町の大半部と海津町のほぼ大江おおえ川右岸側を占めた石津郡が広く、海西郡長良川の現流域の右岸に長く続き、安八郡は平田町の中心部一帯、多藝郡は南濃町の北部を占める。このほか大河川の流路の変遷も影響してか、近世には伊勢国桑名郡の三ヵ村、尾張国海西郡二ヵ村があり、いずれも明治期の県境変更に伴い現郡域に編入された。

〔原始・古代〕

南濃町の養老山地の麓にはアサリハマグリを主とする主鹹貝塚の庭田にわだ貝塚、その二キロ南東にはシジミを主とする主淡貝塚の羽沢はざわ貝塚があり、現段階では縄文時代の貝塚としては県下でこの二例のほか発見されていない。庭田貝塚の形成された縄文時代中期初めには海岸線が濃尾平野の奥深く入込んでいたが、中期後半・晩期の羽沢貝塚の時代には海岸線がかなり後退していたと考えられる。庭田地区に全長六〇メートルの円満寺山えんまんじやま古墳があり、四世紀半ばに比定される美濃地方最古の前方後円墳とされる。南濃町域にはこれを含め後期古墳を中心に一〇〇基近くの古墳が確認されている。

斉衡二年(八五五)閏四月多藝郡を割いて石津郡が建郡された(文徳実録)。「和名抄」に記載の石津郡四郷の一つやまざき郷は南濃町の山崎を遺称地とし、同郷に郡衙があったと推定されている。同書の安八郡六郷・多藝郡八郷のうち現郡域に比定地がわたるとされる郷があるが、必ずしも有力な説とはなっていない。一方、同書尾張国海部郡一二郷の一つ物忌ものいみ郷は八開村南端から立田村北部、さらに海津町にわたる地域とみられている。尾張国海部郡は海東かいとう郡・海西郡に分割されるが、その時期は一〇世紀半ば以降一二世紀半ば頃であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報