上房郡(読み)じようぼうぐん

日本歴史地名大系 「上房郡」の解説

上房郡
じようぼうぐん

面積:二四五・三三平方キロ
賀陽かよう町・有漢うかん町・北房ほくぼう

県中央部やや西寄りに位置。明治三三年(一九〇〇)阿賀あが郡南部、昭和三〇年(一九五五)吉備郡(旧賀夜郡・賀陽郡)の一部が編入され、また上房郡のうち西半部が高梁たかはし市となったため、現在の上房郡は北は阿哲あてつ郡・真庭まにわ郡、東は御津みつ郡、南は岡山市・総社市、西は高梁市・新見市に接する。吉備高原の一部を占め、旭川と高梁川水系の分水界にあたる。北部はカルスト台地、南部は高原性のなだらかな地形を呈する。おもな河川は旭川水系に属するものとして備中川・中津井なかつい川・宇甘うかい川、高梁川水系に属するものとして有漢川・佐与谷さよだに川・槙谷まきだに川などがある。当郡は平安末ないし鎌倉初期に賀陽郡の北西部を割いて成立したものとみられる(→賀陽郡。「拾芥抄」に「上方」郡とみえ、もと賀陽郡の多気たけ巨勢こせ・有漢の三郷が郡域とされる。近世に入るとほぼ上房と記すようになった。

〔中世〕

郡域には山城石清水いわしみず八幡宮領の吉川よしかわ(現賀陽町)、京都新熊野いまくまの社領の多気(現同上)などがあった。両庄は古代多気郷の地域にあたるとみられる。「吾妻鏡」寛喜三年(一二三一)六月二二日条に「備中国多気・巨勢両庄」がみえ、高野法印貞暁の所領であったが、貞暁が没したので西園寺実氏の子道勝に譲られている。巨勢庄(現高梁市)は古代巨勢郷の地域にあたる。なお中世の賀陽郡にあたる地域には野山のやま(現賀陽町)、古代英賀あが中井なかつい呰部あさべ水田みずたの三郷にあたる地域にはそれぞれ中津井庄(郷)呰部あざえ(庄)・水田郷(庄、以上現北房町)があった。

承久の乱後、功のあった相模国三浦氏の一族秋庭重信が有漢郷(現有漢町)を与えられ入部した。重信は現有漢町城下しろもとだいはな城を築き、延応二年(一二四〇)頃には松山まつやま(現高梁市)に城を築いて備中中央部の支配権を握った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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