英田郡(読み)あいだぐん

日本歴史地名大系 「英田郡」の解説

英田郡
あいだぐん

面積:四〇二・八五平方キロ
西粟倉にしあわくら村・東粟倉ひがしあわくら村・大原おおはら町・作東さくとう町・美作みまさか町・英田あいだ

県の北東部に位置し、郡北東部の西粟倉・東粟倉両村の一部はひよう山後山那岐山せんうしろやまなぎさん国定公園に含まれる。西粟倉村から郡域をほぼ二分して南西流する吉野よしの川は,東粟倉村境の後山(一三四四・六メートル)から発する後山川などを合せて、大原町・作東町を流れ、美作町に入って林野はやしの付近で梶並かじなみ川を合せ、英田町の北西部を過ぎ、赤磐あかいわ吉井よしい周匝すさいで吉井川に合流する。南部は和気わけ吉永よしなが町・和気町・佐伯さえき町、西側は久米くめ柵原やなはら町、勝田かつた勝央しようおう町・勝田町、北部は鳥取県八頭やず智頭ちず町・若桜わかさ町、東側は兵庫県宍粟しそう千種ちくさ町、同県佐用さよう郡佐用町・上月こうづき町と接する。津山市とを結ぶJR姫新線・中国自動車道・国道一七九号は美作・作東の両町をほぼ東西に通る。国道はほかに吉野川に沿って、美作・英田両町域を三七四号、大原町・西粟倉村域を三七三号が南北に通じている。

郡名は「続日本紀」和銅六年(七一三)四月三日条に「英多」とあるのが初見。少なくとも古代には英多と書くのが一般的だったようで、「延喜式」神名帳、「和名抄」東急本国郡部でも英多と記される。訓は「和名抄」に「安伊多」とある。しかしのち英田と表記が変わり、鎌倉中期の成立という「拾芥抄」には「英田あいた」とみえる。現郡域は、近世の英田郡の全部と、同郡より分れた吉野郡の大半、および勝南しようなん郡のほぼ東半部を含む。吉野郡が分れた時期は未詳だが、応仁二年(一四六八)一二月二九日の後花園上皇院宣(案文消息類)に郡名がみえる。なお近世後期の地誌「東作誌」によれば、文明三年(一四七一)英田郡の七郷を割いて吉野郡が成立したという。現英田郡域は、近世にこの三郡で推移するが、明治三三年(一九〇〇)英田・吉野両郡は合併し新たに英田郡となり、同年勝南郡も勝北郡と合併し勝田郡となる(→吉野郡勝南郡

〔原始・古代〕

郡内の旧石器時代の遺跡は現段階では知られていない。縄文時代の遺物としては晩期に属する土器が高本こうもと遺跡(作東町)から発見されている。同遺跡では弥生時代中期の集落跡が検出されているが、郡内の弥生時代の遺跡分布は濃密ではない。古墳は河川流域を中心に中小の古墳が散在するが、美作中央部に比較するとその分布はやや希薄である。おもな古墳は吉野川中流域の大原町の桂坪かつらつぼ一二号墳のほか、美作町に多くみられ、吉野川下流域の緑青塚りよくしようづか古墳・山口やまぐち一号墳、梶並川左岸の金焼山きんやきやま古墳・上経塚かみきようづか古墳・楢原寺山ならばらてらやま古墳などがあり、前方後方墳の楢原寺山古墳以外は前方後円墳。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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