久米郡(読み)くめぐん

日本歴史地名大系 「久米郡」の解説

久米郡
くめぐん

面積:三八五・三七平方キロ
柵原やなはら町・久米南くめなん町・中央ちゆうおう町・久米くめ町・あさひ

県中央部に位置し、おもに吉井川とその支流の久米川・さら川・打穴うたの川、旭川とその支流の誕生寺たんじようじ川の流域に平坦部が開ける。とくに久米川・皿川・倭文しとり川の下流域は、東西に延びる丘陵に沿って平野部を形成し、津山盆地の一角となる。南西部は吉備高原の北東辺にあたり、標高五〇〇メートル級の高原が広がり、中央部には郡内最高の二上ふたかみ山があるが、打穴川の断層によって東西に断ち切られている。皿川東岸から吉井川西岸にかけては標高三〇〇―四〇〇メートル級の高原が広がる。郡の北方は中国山地の南辺をなし、標高四〇〇メートル級の山で、要害岩屋いわや城跡(現久米町)のある岩屋山は標高四八二・七メートル。久米川・倭文川沿いに北の久米町、皿川・打穴川沿いと吉備高原上に中央部の中央町、誕生寺川・全間またま川と高原上に南の久米南町、旭川東岸部から高原にわたって西の旭町、吉井川の両岸部に東の柵原町がある。北東に津山市があり、東は勝田かつた勝央しようおう町、英田あいだ郡美作町・英田町、南は御津みつ建部たけべ町・加茂川かもがわ町、赤磐あかいわ吉井よしい町、和気わけ佐伯さえき町、西は真庭まにわ久世くせ町・落合おちあい町、北は苫田とまた鏡野かがみの町、久世町に接する。

久米川沿いをJR姫新線・国道一八一号・中国自動車道が東西に、皿川・誕生寺川沿いにJR津山線と国道五三号が南北に走る。また吉井川沿いに県道が南北に、久米南町下弓削しもゆげから柵原町大戸だいとを通り勝央町に至る県道が東西に、倭文川沿いに旭町西川にしがわに至る国道四二九号が走る。久米川・皿川・倭文川沿いには古墳など古代遺跡が多い。

近世には久米南条くめなんじよう(久米南郡・久米郡南分とも)久米北条くめほくじよう(久米北郡・久米郡北分とも)に分れていたが(天和二年、一時南北の称を廃した)、明治三三年(一九〇〇)両郡合併して再び久米郡となった。近世の両郡域は、東は吉井川西岸側、南は備前国境、西は旭川東岸側、北は現行と同じであった。現行の行政区分では、津山市の南部、柵原町の吉井川西岸部、建部町の旭川東岸北部、旭町・久米町・中央町・久米南町で、旭町江与味えよみは備前国津高つだか郡に、同町よしの一部は美作国真島ましま郡に、柵原町の吉井川東岸部は勝田郡に属していた。

郡名は「続日本紀」和銅六年(七一三)四月三日条に初見。「延喜式」民部省・「和名抄」ともに久米郡とある。「和名抄」によれば、大井おおい・倭文・錦織にしこり長岡ながおか賀茂かも(賀美)・弓削・久米の七郷を管する。律令制の郡の等級規定によれば下郡にあたる。

久米郡
くめぐん

伯耆国の東部にあり、東は河村かわむら郡、西は八橋やばせ郡、北は日本海に面する。現在の東伯とうはく関金せきがね町・北条ほうじよう町と倉吉市の天神川以西にあたる。北部海岸沿いに北条砂丘が東西に延び、その南に北条平野、さらに郡域中央部にかけて倉吉平野が広がる。南部は大山からひる山へと連なる中国山地北側の山間部が占め、小鴨おがも川・国府こう川などが北東へ流下して天神川に合流する。

〔古代〕

「和名抄」東急本国郡部には郡名に「国府」の注記を付し訓を欠く。出雲国計会帳(正倉院文書)によれば、天平五年(七三三)九月二四日の記事に「久米郡木工山守連伊等志」の名がみえる。貞観一二年(八七〇)一〇月二五日、伯耆国で飢餓と疫病による死者が多く出たため、久米郡など四郡は一年間庸・調・雑徭などの課役が免除された(三代実録)。「和名抄」には八代やしろ立縫たてぬい山守やまもり大鴨おおかも・小鴨・久米・勝部かつべ神代かみしろ下神しもつわ上神かずわの一〇郷を載せる。郡家は久米郷に置かれたとされ、同郷を小鴨川・国府川の合流点南西付近に比定する説がある。当郡には伯耆国の国府が置かれ、その所在地は八代郷であったとされる。現在、伯耆国庁跡・国分寺跡・国分尼寺跡は小鴨川との合流点より上流の国府川左岸にある。天暦二年(九四八)国分尼寺内の倉から出た火事により国分寺・国分尼寺とも焼失した(同年一二月二八日「太政官符断簡」続左丞抄)。貞観九年海岸防備のため建てられたという四王しおう寺の寺地は、国庁跡北東の四王寺山(現倉吉市)山頂であるとされる。このほか白鳳―奈良期の寺院跡として大御堂おおみどう廃寺・石塚いしづか廃寺・藤井谷ふじいだに廃寺(現同上)などがある。条里地割は国府川・小鴨川流域の倉吉平野と北条平野で確認されたが、現在は姿を消している。「延喜式」神名帳に記載される久米郡二座のうち「倭文シトリノ神社」は現倉吉市の倭文しとり神社、「国坂クサカノ神社」は現北条町の国坂くにさか神社に比定され、ほかに奈良時代にさかのぼる神社として勝宿禰かつすくね神社・国庁裏こくちようり神社(現倉吉市)などが祀られている。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に記される山陰道松原まつばら駅は当郡内に設けられた駅とみられるが、比定地については諸説がある。久米郡の伝馬は五疋と定められている。

〔中世〕

平安期以降郡内には久永くえ御厨・矢送やおくり庄・山守庄・北条郷・稲積いなづみ庄などが成立、古代以来の上神郷・立縫郷・八代郷なども中世郷として再編されたとみられる。北条郷では鎌倉前期には北条重時の名が地頭としてみえ、北条氏領となっていたことが知られる。小鴨郷から出たとみられる有力在庁官人小鴨氏は勢力を伸張し、平安末期には紀氏とともに伯耆国を二分するほどであったという。

久米郡
くめぐん

「和名抄」所載の古代伊予国一四郡の一。流布本に「久米」と記し、訓を欠く。郡内の郷として高山寺本には天山あまやま吉井よしい石井いしいの三郷を記し、流布本はこのほかに神戸かんべ余戸あまるべの二郷を記す。

松山平野の東部に位置し古くから開発され、縄文中期から弥生時代の遺物・遺跡が多く発掘された。東は周敷すふ郡、南は浮穴うけな郡、西は伊予郡、北は温泉おんせん越智おちの二郡に接する。「国造本紀」に「軽嶋豊明(応神)朝、神祝尊十三世孫伊与主命定賜国造」とある久味国造の統治区域と一致する。大化改新ののち建郡をみたが、久米郡は小郡であった。郡司には久米直が任ぜられ、その子孫は式内社である伊予豆比古命いよつひこのみこと神社を祭祀したと推察される。来住きし南土居みなみどいの廃寺跡から礎石・瓦などが出土し、奈良時代前期に仏教文化が発展していたこと、西部では条里制が施行され、開発の進んでいたことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報