大野郷(読み)おおのごう

日本歴史地名大系 「大野郷」の解説

大野郷
おおのごう

「和名抄」所載の郷。諸本に「於保乃」と訓ずる。遺称地は現金沢市大野町。「日本霊異記」下巻第一六に「越前の国加賀の郡大野の郷、畝田の村」とみえる。畝田うねだ村の遺称地である金沢市畝田町が犀川河口右岸よりやや内陸部に位置しているので、郷域は通説のように犀川・大野川の河口周辺の海岸部とその後背地と考えるべきであろう。ただし犀川・大野川の流路の変化に注意する必要がある。推定郷域内もしくはその周辺に位置していたと思われる遺跡にビワづか古墳・北塚きたづかオマルづか古墳などとともに寺中じちゆう遺跡・無量寺むりようじ遺跡・畝田遺跡・藤江ふじえ遺跡・古府こふクルビ遺跡などの集落遺跡がある。

大野郷
おおのごう

「和名抄」にみえる餝磨しかま郡大野郷を継承した中世の郷名。現姫路市上大野を遺称地とする。正応二年(一二八九)五月日の僧快円・源有家連署父母遺領等配分状案(祇園社記)に有家分として「壱段 大野」とみえ、広峯ひろみね社社務の知行地があった。正中二年(一三二五)一二月日の広峯長重領知目録(神戸大学国際教養系図書館蔵広峯神社文書)には、広峯社大別当の長重の所領として「大野修理田北畠」がみえる。

大野郷
おおのごう

「和名抄」伊勢本・東急本は「於保乃」と読む。天平勝宝二年(七五〇)四月四日の優婆塞貢進文(正倉院文書)に「酒見君奈良万呂」「年廿四 安波国長郡大野郷戸主漢人根万呂戸口」とあるのが、年代の確実な史料である。さらに天平宝字五年(七六一)二月二二日の奉写一切経所解案(同文書)には「漢人大万呂」「阿波国那我郡太郷戸主漢人比呂戸口」とあり、この「太郷」は大野郷であろう。当郷について「阿府志」は「上中下大野西方宮内岡柳島等ノ地ナルヘシ未詳」とし、「阿波志」は「今廃村存」とし、また明治一八年(一八八五)編の那賀郡郡誌は「上大野中大野下大野ノ三村其名ノ遺レルモノニテ此近傍ノ諸村ハ此郷ニ属セシナラム」とする。

大野郷
おおのごう

「和名抄」所載の郷。東急本の訓は「於保乃」で、同一の郷名は全国に三〇余例を数える。平城京の左京三条二坊八坪南北溝から「利波郡大野里」と記す木簡が出土しており、郷制以前に大野里が存立していた。また神護景雲元年(七六七)一一月一六日の礪波郡井山村墾田地図(正倉院蔵)には、東の丘・山に近い二七条高槐東里四行五山田やまだの地に、「大野郷戸主秦足山口物部乎万呂治田一段二百 歩」との記載がある。

大野郷
おおのごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「大野」と記し、訓を欠く。天平勝宝四年(七五二)一〇月二五日付の造東大寺司牒(正倉院文書)によれば、この時東大寺に施入された封戸一千戸のなかに「吾川郡大野郷五十戸」がある。また醍醐寺方管領諸門跡等目録(醍醐寺文書)に「左女牛若宮別当職、社領土左国大野仲村両郷」とみえ、鎌倉時代には京都左女牛八幡の社領となっている。「土佐幽考」は「弘岡上中下三村是也」とし、「日本地理志料」は「秦氏地検帳、吾川郡大野郷、管上中下弘岡・八田・伊野ノ五邑、大野郷下分、管加田・神谷・小野・鹿敷・勝賀瀬・楠瀬・柳瀬・柏原・大窪ノ九邑」と記す。

大野郷
おおのごう

「和名抄」東急本は「於保乃」の訓を付し、高山寺本は訓を欠く。山梨西郡の一つで、現在の山梨市大野(旧加納岩村)に遺称をとどめる。ただしこの地はほかの山梨西郡とは異なり、笛吹川の左岸に位置することから、その比定地については古くから諸説が論じられてきた。「甲斐国志」は大野辺りを想定しながらも、もと笛吹川の西にあったものが、河道の変化により東岸に移ったと説明する。「大日本地名辞書」はこの説を否定し、東山梨郡牧丘まきおか町の西保にしほ室伏むろぶし辺りに求める。「日本地理志料」は山梨市西部から東山梨郡春日居かすがい町にかけての旧万力まんりき筋の諸村にあたると想定し、「綜合郷土研究」もこの説に従う。

大野郷
おおののごう

好島東よしまひがし庄のうちとして鎌倉時代から南北朝期にみえる郷名で、おおよそ現在の四倉よつくら町のうち旧大野村地区に長友ながともを加えた地と考えられる。建長五年(一二五三)七月一〇日の好島庄政所差文案(飯野八幡宮文書、以下同文書)によれば、八幡宮(飯野八幡宮)の経所造立に際し六間のうち五間を大野が負担している。文永六年(一二六九)一二月九日の八幡宮鳥居造立配分状では「柱一本 番木一 大野分」を負担している。

大野郷
おおのごう

「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。「磐城志」に「今現大高村の内中田の分の川向に字大野と云所あり五十石ばかりの地にて今民家一軒あり久保田町の南に当れり其田の中に古塚あり大野塚と云」と記され、現いわき市勿来なこそ町の大高おおだか上大野かみおおの・下大野を遺称地とするという。

大野郷
おおのごう

「和名抄」高山寺本に「大野」と記し、訓はない。刊本(慶安元年)には「ヲヲノ」と仮名を付す。

郷域については異説が多い。「郡郷考」は「柱野・河内の諸村を指すにや。横山も相連接すれば郷内たるべし」として、現岩国市の西南部を想定する。「日本地理志料」は「今郡北有大野村、亘本郷・広瀬・中瀬・深川・府谷・黒沢・宇佐郷・阿賀・中山諸邑」として、現にしき町から現本郷ほんごう村にわたる玖珂郡北部の山間の一帯、つまり、平安末期に成立する山代やましろ庄の荘域を想定する。

大野郷
おおのごう

観応二年(一三五一)六月二〇日の留守所補任状(大善寺文書)に「大野郷住人」とみえる(→宇多田郷。「一蓮寺過去帳」の明応二年(一四九三)四月二八日供養の妙一房に「大野 三左衛門母」、永正元年(一五〇四)供養の宣阿弥陀仏に大野源三さ衛門と注記されるが、当地と関係するか。天正一〇年(一五八二)一二月九日の徳川家印判状写(御庫本古文書纂)に「大野之内蔵出得替六百文」とみえ、筒井勘右衛門は計五貫六〇〇文を本給として安堵されている。同年の徳川氏と小田原北条氏の甲斐国争奪戦では六月中旬に当郷の大野砦に拠る北条方の大村三右衛門らは徳川方の穴山衆に攻撃され敗退したという。

大野郷
おおのごう

「和名抄」には訓を欠く。天平二〇年(七四八)四月二五日付写書所解(正倉院文書)には「申願出家人事」として「土師連東人 年十八 労一年 山背国愛当郡大野郷戸主土師連万呂戸口」とあり、郷名が記される。山背国愛宕郡雲下里計帳(正倉院文書)にみえる「戸主出雲臣川内戸別項 出雲臣麻呂売年伍拾弐歳 左頬黒子 右人割附大野郷戸主服部連阿閉戸 随夫」とある大野郷も愛宕郡のそれであろう。寛仁二年(一〇一八)には賀茂かも小野おの錦部にしごりの三郷とともに賀茂別雷かもわけいかずち神社(上賀茂神社、現北区)領となっている(「寛仁二年一一月二五日付太政官符」類聚符宣抄)

大野郷
おおのごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「和名抄」の筑前国怡土いと郡大野郷の訓により「おおの」と読む。「続風土記」は現在の四王寺しおうじ山西麓から太宰府市国分こくぶにかけての地域を大野とよんだとしており、その付近に比定される。「日本書紀」天智天皇四年(六六五)八月条によれば、百済の亡命貴族である憶礼福留・四比福夫を筑紫国に派遣し、大野城(基肄城)を築かせた。現在の太宰府市・大野城市・糟屋かすや宇美うみ町にわたる大城おおき(大野山・四王寺山)は、神亀五年(七二八)七月二一日に筑前守山上憶良が妻を失った大宰帥大伴旅人に対して「大野山霧立ち渡るわが嘆く息嘯の風に霧立ち渡る」と詠んだ(「万葉集」巻五)

大野郷
おおのごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「太宰管内志」は「於保奴と訓ムべし」とする。「宇佐大鏡」によると、宇佐宮領の散在常見名田として大野郷二〇三町三反三〇代・高墓たかつか八八町六反一〇代がみえ、伝法寺でんぽうじ(現築城町)本領が立券庄号された際には、その四至と号して桑田くわた・大野両郷の名田をはじめ仲津なかつ郡の城井きい幡野はたの(現犀川町)などが加納田として押領されている。大野郷と高墓は併記されており、高墓は大野郷内にあったとも考えられ、現椎田しいだ高塚たかつかとみられる。

大野郷
おおのごう

「和名抄」諸本に訓はない。郷域は香々美かがみ川左岸の沖積平野を中心とした地域と考えられる。「長沼家記」寛喜二年(一二三〇)八月一三日の長沼宗政譲状(皆川文書)に「美作国西大野保内円宗寺」とあることから、明治二二年(一八八九)成立の大野村に属した現苫田とまた鏡野かがみの円宗寺えんじゆうじが郷域に含まれると推定できる。郷域周辺の主要古墳として鏡野町土居の赤峪どいのあかざこ古墳(全長四五メートルの前方後円墳)土居天王山どいてんのうやま古墳(全長二七メートルの前方後円墳)土居妙見山どいみようけんやま古墳(全長二七メートルの前方後円墳)がある。

大野郷
おおのごう

「和名抄」高山寺本・東急本にみえる郷名。名博本は「大能郷」につくる。訓を欠くが、甲斐国山梨やまなし郡大野郷の「於保乃」の訓に従う。天平八年(七三六)一〇月の平城京跡出土木簡(「平城宮木簡概報」二二―二二頁)に「大野郷田邑里」とみえる。比定地については、智者山ちしやさん権現を大野社とよんだと伝えることから現本川根ほんかわね藤川ふじかわ付近とする説(駿河志料)、現島田市本通ほんとおり付近とする説(大日本地名辞書)、小字大野がある現島田市尾川おがわ付近とする説(旧版「静岡県史」)、藤枝市瀬古せこ御子みこ遺跡付近とする説などがある。

大野郷
おおのごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠くが、美濃国大野郡を刊本は「於保乃」と訓ずるので今これに従う。大野郷内と推定される口大野くちおおの(現中郡大宮町)に大野神社があり、「延喜式」神名帳にみえる「大野オホノヽ神社」に比定する説がある。ただし「延喜式」では大野神社は竹野郡として記されており問題が残る。

大野郷
おおのごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「大野」と記し訓を欠く。「続風土記」は「今の大野荘重根荘なり」、「大日本地名辞書」は「今大野村と曰ふ、亀川村の南、日方村の東なり」とする。いずれも現海南市大野中おおのなか幡川はたがわ重根しこねなど日方ひかた川下流の沖積平野に比定する。

大野郷
おおのごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「大野」と記し訓を欠く。「日本地理志料」は大野は木野の誤りとし「岐乃」と読むとし、「木野荘・木野端・本荘・福山・野上・多治米・川口」の諸村を郷域とする。「大日本地名辞書」は「今詳ならず、大津野村、春日村、引野村などに当るか」と記す。

大野郷
おおのごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、オオノであろう。同書高山寺本は太野と記載する。「出雲国風土記」によれば秋鹿郡四郷の一つで、郡家の西一〇里余に郷長の家があり、郷名は和加布都努志能命が狩をしたとき猪犀を追って阿内あうちの谷に至り見失ってしまい、失せぬといったことから内野うちぬという地名になったが、誤って大野と号しているという。風土記にあげる大野川は現松江市大野町を流れる大野川、同じく大野津おおのつ社は「延喜式」神名帳では秋鹿郡一〇座の一つ大野津神社とみえ、同町の大野津神社に比定される。

大野郷
おおのごう

「和名抄」高山寺本は「大野」と記し、「大」の左側に「丈」の字を書加えており、訓を欠く。東急本は「大野」と記し「於保乃」と訓ずる。「新撰姓氏録」右京皇別上に大野朝臣がみえ、上毛野朝臣同祖として「豊城入彦命四世孫大荒田別命之後也」と記す。してみると大野郷は大野朝臣の本貫地なのであろうか。郷域はつまびらかでないが、「大日本地名辞書」は旧福岡ふくおか(現大間々町)・旧黒保根くろほね(現勢多郡黒保根村)辺りで、渡良瀬川渓谷の流域ではないかとする。

大野郷
おおのごう

「和名抄」所載の郷。東急本の訓は「於保乃」。「播磨国風土記」に大野里があり、地名は同地が荒野であったことに由来するという。欽明天皇のとき村上足嶋の祖先恵多がこの荒野を開墾して居住したので、旧名の大野を里名としたという。里内にある砥堀とほりの地名は応神天皇の代に神前かんざき郡と餝磨しかま郡との境に道を造った時に砥を掘出したことによるという。

大野郷
おおのごう

「和名抄」諸本とも訓を欠く。「因幡志」は(現岩美町)の支村大野があることから同村一帯を郷域と想定している。大野には白鳳期の寺院跡とされる岩井廃寺があり、近くには「延喜式」神名帳記載の「御湯ミユノ神社」に比定される御湯みゆ神社(古くは大野ノ宮ともいった)がある。ここから旧湯村、現在の岩井を中心とする蒲生がもう川中流域に比定される。

大野郷
おおのごう

「和名抄」に載る大野郡四郷の一。高山寺本・東急本ともに訓を欠く。当郷に成立した大野庄は郡の北西部、大野川左岸を占め、現大野町・朝地あさじ町一帯から千歳ちとせ村西部を庄域とした。大神系図(東京大学史料編纂所影写本)によれば、豊後大神氏の祖大神惟基の子基平は大野を名乗っている。当郷に進出した基平とその子孫は郷司職を得るなどして勢力を扶植したと思われ、一二世紀までに山城国三聖さんしよう(現京都市東山区)領大野庄が成立すると、その庄司となったとされる。

大野郷
おおのごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はないが、伊勢本・東急本では大野・長野ながのの順で配列される。伊勢本・東急本・元和古活字本の訓「於保乃」から「おおの」と読む。康和五年(一一〇三)三月一〇日の筑前国藤井今武田地売券(広瀬正雄氏所蔵文書/平安遺文四)や長治二年(一一〇五)三月一〇日の府老藤原延末田地売券(同上)に対象となる「怡土郡大野郷」の土地の条里坪付・地名が記されており、それらをもとにした怡土郡の条里復原により、現前原まえばる香力こうりき曾根そね付近に比定される。

大野郷
おおのごう

「和名抄」東急本には「於保乃」と訓を付す。長岡京跡出土木簡に「香川郡大乃道守在麻呂白米五斗」とある。中世にも大野郷がみえる。現香川郡香川町大野を遺称地とし、同町浅野あさの、高松市一宮いちのみや町・寺井てらい町を含む香東こうとう川右岸沿いの地域に比定される。

大野郷
おおのごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。同書所載の大野郷の訓にはいずれも「於保乃」とあるので、同様に訓じておく。「下野国誌」「大日本史」はもと大野地と称した現馬頭ばとう大那地おおなち付近に比定する。

大野郷
おおのごう

「和名抄」刊本・東急本に訓はなく、高山寺本に於保乃と訓を付す。「大日本史国郡志」「日本地理志料」「大日本地名辞書」ともに大野おおの(現新穂村)にあてる。康永三年(一三四四)一一月一六日の足利尊氏寄進状(園城寺文書)に、近江園城おんじよう寺に対し飛騨国高原たかはら(現岐阜県吉城郡)ほか二ヵ所と替地に「大野保」など六ヵ所の地頭職が寄進されている。

大野郷
おおのごう

「和名抄」諸本に訓を欠くが、同書所載の多くの同名郷の訓から、「オオノ」と読んだと考えられる。吉野よしの川の支流川上かわかみ川両岸の丘陵群を中心とする、現英田郡大原おおはら町川上・桂坪かつらつぼ一帯に推定される。

大野郷
おおのごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓はない。「三河志」「大日本史」国郡志ともに旧大井野おおいの村として岡崎市東部の山間地を考え、「日本地理志料」では岡崎市内の旧常磐ときわ村の地一帯に拡大し、「大日本地名辞書」では「今詳ならず、福岡町・坂崎・相見の辺にやともおもはる、左証なし」とし、岡崎市南部と額田郡幸田こうた町北部かともいう。

大野郷
おおやごう

「和名抄」に「大野」と記され、訓を欠く。正倉院宝物の鍾乳床裏に、天平勝宝四年(七五二)一〇月一日として「常陸国信太郡大野郷戸主生部衣麻呂調壱端」とみえる。

大野郷
おおのごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本など諸本とも訓を欠くが、オホノであろう。「延喜式」兵部省諸国馬牛牧条に上総国の牧として大野馬牧がみえており、当郷に関連するか。

大野郷
おおのごう

「和名抄」東急本には「於保乃」と訓を付す。中世には京都祇園社領の西大野郷がみえる。香川郡大野郷に対し西大野郷と称されていた。

大野郷
おおのごう

「和名抄」高山寺本では「大野」、東急本では「大原」につくり、いずれも訓を欠く。郡名と同一であることから、郡家の所在地と思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報