菊多郡(読み)きくたぐん

日本歴史地名大系 「菊多郡」の解説

菊多郡
きくたぐん

菊田とも書き、浜通りの南東端に位置し、東は太平洋、西は白河郡、南は常陸国多珂たか郡、北は磐城郡に接する。現在のいわき市南部にあたる。西方阿武隈高地さめ川流域に発達した地域で、同川は現東白川郡鮫川さめがわ村に発し、大平おおひら川・小松こまつ川・入遠野いりとおの川・上遠野かとおの川を合せ、四時しとき川合流点から広大な平野となり、いわき市岩間いわま町付近で海に注ぐ。ほぼ鮫川に沿って奥州道中と浜街道を結ぶ御斎所ごさいしよ街道が通る。

〔古代〕

「国造本紀」に道奥菊多国造とみえる。「常陸国風土記」多珂郡条に、成務天皇が建御狭日命を多珂国造に任命したとき「久慈の堺の助河」(現茨城県日立市)をもって道前みちのくち、「陸奥の国石城の郡の苦麻の村」(現大熊町)道後みちのしりとした。のち白雉四年(六五三)に多珂国造石城直美夜部と石城評造部の志許赤らが惣領高向大夫に申請して、統治する領域が広すぎるので多珂・石城いわきの二郡に分けたとある。菊多国造のクニは、大化改新の際も菊多郡が建置されず多珂郡に含まれ、白雉四年までは現双葉郡大熊おおくま町まで常陸国の領域であった。「続日本紀」養老二年(七一八)五月二日条に「割陸奥国之石城、標葉、行方、宇太、曰理、常陸国之菊多六郡、置石城国、割白河、石背、会津、安積、信夫五郡、置石背国、割常陸国多珂郡之郷二百一十烟、名曰菊多郡、属石城国焉」とあり、多珂郡の二一〇戸を割いて新たに菊多郡を立郡し、石城国の昇格に添えたのである。新しい菊多郡は五〇戸を一郷とすると、四郷と余戸あまるべ郷で計五郷となる。「和名抄」に余戸郷を含めた五郷がみえる。浜通り六郡で誕生した石城国は、神亀五年(七二八)にはすでに陸奥国に復帰しているから、わずか一〇年足らずの間存在した国であった。

現いわき市勿来なこそ関田せきたに擬定される勿来関(菊多跡は、「河海抄」に延暦一八年(七九九)一二月一〇日のこととして「白河・菊多守六十人」とある。次いで承和二年(八三五)一二月三日の太政官符(類聚三代格)に「応准長門国関勘過白河菊多両事、右得陸奥国解称、旧記、置以来、于今四百余歳矣」とある。白河・菊多両の通行取締を長門国のに準じて厳重に執行すべしとの太政官符で、隼人・蝦夷に備える関門である長門・陸奥の関は対をなす施設で、菊多は設置以来四〇〇余年ということは、五世紀前半の開設となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報