前国(読み)ちくぜんのくに

日本歴史地名大系 「前国」の解説

前国
ちくぜんのくに

九州の北部中央に位置し、東は豊前国・豊後国、南は筑後国・肥前国に接し、西は玄界灘、北は響灘に面する。

古代

〔前国成立以前〕

筑前地域に関係する地方豪族として岡県主(「日本書紀」仲哀天皇八年正月四日条)、伊覩県主・怡土県主(同書同日条、「釈日本紀」所引「筑前国風土記」逸文)、胸形君・胸方君(「日本書紀」天武天皇二年二月二七日条・同一三年一一月一日条)が知られ、それぞれのちの遠賀おか郡・怡土いと郡、宗形むなかた(宗像郡)地域を本拠としていたと考えられるが、筑紫国造として「日本書紀」継体天皇二一年六月三日条に「筑紫国造磐井」、同書欽明天皇一五年一二月条に「鞍橋君」がみえる。筑紫国造については、同書孝元天皇七年二月二日条は孝元の子、大彦命を始祖とすると伝え、「国造本紀」も成務朝に大彦命の五世孫の日道命が国造に定められたという。「日本書紀」では「筑紫国造磐井」は新羅から賄を受け、朝鮮半島に出兵しようとする近江毛野の軍を阻み、筑・火・豊の三国に拠って反乱を起こし(継体天皇二一年六月三日条など)、「筑紫御井郡」の戦いで物部麁鹿火に斬られたとあるが(同二二年一一月一一日条)、「古事記」継体天皇段では天皇に対し無礼な「竺紫君石井」を物部荒甲大連と大伴金村連に命じて殺害させたとある。「筑後国風土記」逸文(釈日本紀)によると、「筑紫君磐井」は「豊前国上膳県」に逃れ南の山中に逃亡したという。したがって国造か否かは厳密には不明であるが、彼の一族が北部九州地域に勢力を誇った存在であったことは確かであり、同逸文にみえる彼の墳墓とされる現八女やめ吉田の岩戸山よしだのいわとやま古墳(国指定史跡)は北部九州最大の前方後円墳である。「日本書紀」継体天皇二二年一二月条には、磐井の子「筑紫君葛子」が父に連座することを恐れ「糟屋屯倉」を献じたとある。これは献じられた土地を大和政権が屯倉として指定したもので、磐井の乱を契機として大和政権による支配が強化され、外交権の一元化がなされたと考えられる。「日本書紀」はそうした流れのなかに筑紫の穂波ほなみ屯倉(現穂波町に比定)かま屯倉(現稲築町に比定)(安閑天皇二年五月九日条)、いわゆる那津なのつ官家の設置(宣化天皇元年五月一日条)を位置づけている。那津官家は官家を那津の口に修造せよ、とあることに基づく学術用語で本来の名称は不明であるが、大和政権による北部九州の管轄・対外関係の拠点とみられることから、同書推古天皇一七年四月四日条を初見とする筑紫大宰、あるいは大宰府の起源を考察するうえで注目されてきた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報