陸奥国
むつのくに
旧国名。現在の福島、宮城、岩手、青森の各県と秋田県の一部にあたる。『日本書紀』斉明(さいめい)元年(655)条に「道奥」とみえ、東海・東山両道の奥という意味で「みちのおく」と読まれた。のちに読み方は「みちのくのくに」「みちのくに」などを経て、9世紀末ごろ「むつのくに」が成立した。天武(てんむ)5年(676)条にはすでに「陸奥」と表記され、畿内(きない)、長門(ながと)とともに高位者が国司として任命されたが、辺境防備のために重視されたものとみられる。712年(和銅5)出羽(でわ)国の設置に伴い最上(もがみ)、置賜(おきたみ)両郡を割き、また718年(養老2)石城(いわき)、石背(いわしろ)両国の設置により、現在の福島県と宮城県の一部にあたる地域を割いたが、数年足らずで陸奥国に復旧した。719年全国に設置された按察使(あぜち)では、陸奥按察使が置かれ、出羽国も所管し、他が廃止されたあとも、陸奥、出羽だけは残された。律令(りつりょう)制では、北辺に接する軍事的意味が重視されて、戸令の現住に従って本貫を定めるとか、軍防令の帳内(ちょうない)・資人(しじん)の任用を禁じた、いわば例外的規定の対象となった。『延喜式(えんぎしき)』では、東山道に属する大国で、白河(しらかわ)、菊多(きくた)、磐城(いわき)、標葉(しねは)、行方(なめかた)、宇多(うだ)、亘理(わたり)、伊具(いぐ)、刈田(かりた)、会津(あいづ)、耶麻(やま)、磐瀬(いわせ)、安積(あさか)、安達(あだち)、信夫(しのぶ)、柴田(しばた)、名取(なとり)、宮城(みやぎ)、黒川(くろかわ)、賀美(かみ)、色麻(しかま)、玉造(たまつくり)、栗原(くりはら)、新田(にゅうた)、長岡(ながおか)、遠田(とおた)、小田(おだ)、志太(しだ)、桃生(もものう)、牡鹿(おしか)、登米(とよね)、気仙(けせん)、磐井(いわい)、江刺(えさし)、胆沢(いさわ)の35郡を管轄し、国府は多賀城(たがじょう)、現在の宮城県多賀城市に置かれていた。『和名抄(わみょうしょう)』には、大沼郡が加わり、36郡を管したとみえる。
律令政府の蝦夷(えぞ)支配の前線基地となった陸奥では、反乱と鎮圧が繰り返され、797年(延暦16)の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)、811年(弘仁2)の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)をそれぞれ征夷(せいい)大将軍に任命して行った鎮圧が、胆沢(いさわ)城、志波(しわ)城を築くなど効果をあげ、支配も拡大した。しかし、律令国家の衰退とともに弛緩(しかん)し、平安時代中期以降、在地勢力を形成した安倍(あべ)・清原両氏らが支配の実権を握り、安倍氏が前九年の役で、また清原氏が後三年の役で滅亡すると、平泉(ひらいずみ)を根拠地とする藤原清衡(きよひら)の支配が確立し、その子基衡(もとひら)、孫秀衡(ひでひら)の3代にわたる奥州藤原氏の政治と独自な地方文化が展開した。1189年(文治5)全国に支配を拡大しつつあった源頼朝(よりとも)は、弟義経(よしつね)の追捕(ついぶ)を機会に、これをかくまった奥州藤原氏を征討し、奥州総奉行(そうぶぎょう)を置いた。このとき任ぜられた伊沢家景(いえかげ)は、陸奥国留守職(るすしき)とも称し、のち伊沢氏がこの職を世襲した。建武(けんむ)新政(1334)では、陸奥将軍府を設置し、北畠顕家(きたばたけあきいえ)が皇子義良(のりよし)親王(後村上(ごむらかみ)天皇)を奉じて赴任した。ついで室町幕府は奥州探題を設置、奥州管領(かんれい)として足利(あしかが)氏一門の石塔義房(いしどうよしふさ)を派遣し統治したが、のちに吉良(きら)、畠山、斯波(しば)の諸氏が加わり混乱、奥州管領も廃止され、陸奥国は鎌倉府の管轄となった。その後、大崎五郡を根拠とする大崎氏が支配権をもち、戦国時代に入ると、伊達(だて)、蘆名(あしな)、葛西(かさい)、大崎、南部の諸氏が割拠、抗争し、豊臣(とよとみ)秀吉の奥州仕置(しおき)では、津軽、南部、伊達、相馬(そうま)、岩城の諸氏がそれぞれ所領を封ぜられ、蒲生(がもう)氏が会津へ入部した。
江戸時代には、津軽郡の黒石藩・弘前(ひろさき)藩、岩手郡の盛岡藩、宮城郡の仙台藩、白河郡の白河藩、白川郡の棚倉(たなぐら)藩、磐城郡の磐城平(たいら)藩、会津郡の会津藩、信夫(しのぶ)郡の福島藩などが置かれ、産業と交通も飛躍的に発展した。幕末・維新期に、諸藩は、奥羽越(おううえつ)列藩同盟を結んで、明治新政府に抵抗したが、会津戦争に敗れ、崩壊した。新政府は、1868年(明治1)12月7日付けの太政官(だじょうかん)布告によって、陸奥国を磐城、岩代(いわしろ)、陸前、陸中、陸奥の5国に分割、分割後の陸奥国は現在の青森県と岩手県の一部にあたり、二戸(にのへ)、三戸、北、津軽の4郡からなり、1871年の廃藩置県を迎えた。
産業は、古来、砂金と馬が著名であり、近世には材木、俵物(たわらもの)、米、蚕種、生糸、鉄、銅などの産物が移出されることが多かった。
[菊池克美]
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むつのくに【陸奥国】
現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県の全域と秋田県の一部を占めた旧国名。古くは蝦夷(えみし)の地で、大化(たいか)の改新後に整備され、国府を多賀(たが)城においた。律令(りつりょう)制下では東山道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府の多賀城は現在の宮城県多賀城市、国分寺は仙台市若林区木ノ下(きのした)におかれていた。平安時代初期には蝦夷の抵抗も一応鎮定され、俘囚(ふしゅう)の末裔(まつえい)の安倍(あべ)氏、清原(きよはら)氏が勢力をもったが、のちに奥州藤原(おうしゅうふじわら)氏が平泉を中心に独特の文化を展開した。鎌倉時代には奥州総奉行がおかれ、建武新政(けんむのしんせい)下では北畠顕家(きたばたけあきいえ)が義良(のりよし)親王(後村上(ごむらかみ)天皇)を奉じて陸奥将軍府を設置、室町幕府の奥州探題と対立した。戦国時代には伊達(だて)氏、蘆名(あしな)氏、葛西(かさい)氏、大崎氏、南部氏らが勢力を競い、江戸時代には大小の藩が成立、盛岡藩、仙台藩、会津(あいづ)藩などが幕末まで存続した。幕末維新期には、会津藩を中心に奥羽越(おううえつ)列藩同盟を結んだが、新政府軍に敗れた。1868年(明治1)12月、明治政府は陸奥国を陸奥国(岩手県北西部と青森県)、陸前(りくぜん)国(宮城県中・北部と岩手県南東部)、陸中(りくちゅう)国(岩手県の大部分と秋田県北東部)、岩代(いわしろ)国(福島県中・西部))、磐城(いわき)国(福島県東部と宮城県南部)の5ヵ国に分けた。ついで1871年(明治4)の廃藩置県後に現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県の4県に整理された。◇奥州(おうしゅう)ともいう。
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陸奥国
むつのくに
現在の福島県,宮城県,岩手県,青森県。東山道の一国。大国。「みちのく」と称され,蝦夷の地であったところへ大和朝廷が次第に支配を拡大し,大化改新の詔 (646) で一国となったが,時代によりその領域は北上していった。 35郡に分れ,国府は宮城県多賀城市,国分寺は仙台市若林区木ノ下におかれた。記録に残るところでは和銅5 (712) 年に出羽国 (山形県内陸部) がおかれ,養老2 (718) 年石城国 (福島県東海岸) ,石背国がおかれたが,まもなく陸奥国に再編入された。多賀城 (→多賀城跡 ) は碑文によれば神亀1 (724) 年に築城されたとあるが確実ではない。延暦 21 (802) 年坂上田村麻呂が胆沢城 (→胆沢城跡 ) を築き,多賀城からここに鎮守府を移した。平安時代中期以降には俘囚の長,安倍氏,清原氏が次第に力を伸ばしたが,源頼義,義家父子による前九年,後三年の役で没落した。藤原氏3代の時代には政治的,軍事的のみならず,文化的にもすぐれたものをもつにいたった。鎌倉時代には奥州総奉行がおかれ,守護はおかれなかった。南北朝時代には北畠氏が支配したが,室町時代には群雄割拠となり,末期には南に伊達氏,北に南部氏の勢力が強まった。江戸時代には仙台に伊達氏,盛岡に南部氏,会津に松平氏,弘前に津軽氏,中村に相馬氏,二本松に丹羽氏,八戸に南部氏,守山に松平氏,一ノ関に田村氏,福島に板倉氏,三春に秋田氏,磐城平に安藤氏などの藩があり幕末にいたった。明治維新直後,磐城,岩代,陸前,陸中,陸奥の5国に分けられたが,その後明4 (1871) 年の廃藩置県後,福島,宮城,岩手,青森の4県に編成された。
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デジタル大辞泉
「陸奥国」の意味・読み・例文・類語
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むつのくに【陸奥国】
旧国名。奥州。現在の福島県,宮城県,岩手県,青森県の全域と秋田県の一部。
【古代】
東山道に属する大国(《延喜式》)。《延喜式》の規定では35郡を管し,国府は多賀城(現,宮城県多賀城市)にあった。その設置は他の諸国と同様,大化改新(645)後あまり時を経ない時期と思われるが,当時は〈道奥国(みちのおくのくに)〉と記し,読まれた。この〈道奥国〉という命名は他の諸国の国名とは趣を異にし,東海・東山2道の奥すなわち最末端に位置する国という意味である。
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陸奥国
むつのくに
陸奥国はもと道奥国と書き、「みちのおくのくに」と読まれたが、その確実な文献上の初見は「日本書紀」斉明天皇五年三月是月条の「道奥と越との国司に位各二階、郡領と主政とに各一階授く」という記事である。このうち後半の郡領(郡の長官と次官)や主政(郡の三等官)という表現は、明らかに後の大宝令の知識によって修飾されたものであるから、史料としての信憑性に問題が残るが、斉明天皇の時代にすでに東のフロンティアに位する国として道奥国、北のフロンティアに位する国として越国が存在していたことまでを疑う理由はない。とすれば道奥国が初めて設置されたのは他の諸国と同様、大化改新後あまり時を経ない時期であったとみるべきであろう。この道奥国という命名は、他の諸国の国名とは多少異なった命名法で、東海・東山二道の奥という意味で名付けられたものと思われる。二道の最末端に位置する国、すなわち東限(地理的には北限)の国という意味である。道奥国はその北限が本州最北端の津軽海峡に到達するまで前進していく可能性を秘めた国として、設置されたわけである。ということは南の方の常陸国や下野国との国境は確定できるが、北方の蝦夷の国と相対する側の国境は常に不確定であって、その領域はしだいに拡大されていく可能性を初めからもっていたことになる。事実、創置当初の道奥国は福島県の全域と宮城県の南部を併せたものであったと推定されるが、その後、この国の領域が津軽海峡にまで達するのに五〇〇年近くの歳月を要しているのである。
道奥国は天武天皇五年以前の某時点で「陸奥国」と表記法が変わり、のち変わることはなかった。ただしその読み方は八―九世紀を通じて正式には「みちのおくのくに」(「和名抄」には「三知乃於久」)であったらしいが、これと並んでその約称たる「みちのくのくに」(「万葉集」に「美知能久」「美知乃久」などの用例)も行われた。そしてさらに九世紀末までに「みちのくに」(古今集、伊勢物語)、やや遅れて「むつのくに」(「柿本集」にみえるものが最古か)という読み方が成立した。最後の二つは九世紀の宮廷における漢詩文の盛行に伴って、陸奥国を唐風に「陸州」と表記したことに由来するらしい。すなわち陸州をそのまま和訓で読めば「みちのくに」となり、一方、「陸」の借字「六」を用いて「六州」とも表記したため、その和訓「むつのくに」が生れたと考えられる。これらの読み方のうち、「むつのくに」が一般化されて今日まで使用され、さらに「みちのく」のほうは広く出羽国をも含む東北地方全体の汎称として用いられるようになって今日に至っている。
陸奥国
むつのくに
近世までの陸奥国は現在の岩手県および青森・宮城・福島三県と秋田県の鹿角市・鹿角郡を併せた広大な地域にあたる。東は太平洋、北は津軽海峡に臨み、西は北から日本海・出羽国・越後国、南は常陸国・下野国などに接する。明治元年(一八六八)一二月、明治新政府は「奥羽両国ハ曠漠僻遠ノ地ニシテ古来ヨリ教化洽ク難敷及儀モ有之候ニ付」(太政官布告第一〇八三号)として、陸奥・出羽両国をそれぞれ分割した。陸奥国は陸奥・陸中・陸前・岩代・磐城の五ヵ国となり、現岩手県域は大半が陸中国に属し、南東端の気仙郡は陸前国、北西端の二戸郡は陸奥国に属した。
〔国の成立〕
「日本書紀」斉明天皇五年(六五九)三月条に「道奥と越との国司に位各二階、郡領と主政とに各一階授く」とあり、大化改新後あまり時を経ない時期に道奥国(みちのおくのくに)が成立したと考えられる。陸奥国はもと道奥国と記し、東山道の奥の意と思われる。東山道が国家支配の及んだ地域であるのに対し、その領域外の地域の呼称で、支配が及んだのちもその名が使用されたとみられる。同書天武天皇五年(六七六)正月二五日条に「凡そ国司を任けむことは、畿内及び陸奥・長門国を除きて、以外は皆大山位より以下の人を任けよ」とあり、この頃までに「陸奥国」と表記を改めたものと思われる。しかし「和名抄」による読み方は「みちのおく(三知乃於久)のくに」で、「万葉集」においては「美知乃久」「美知能久」などの「みちのくのくに」の呼称が用いられている。九世紀頃には陸奥国を唐風に「陸州」と表記し、「みちのくに」と読んだようであるが、「陸」の借字「六」を用いて「六州」とも表記したため、「むつのくに」の読み方が生じたと考えられる。「みちのく」の呼称は、旧出羽国を含む東北地方全体の汎称として、現在も使用されている。
創立期の陸奥国の範囲は明らかではない。従来地方豪族が中央政権の支配下に入って国造となり、国造の支配した領域が郡に編成されることが多いとされる。「国造本紀」にみえる陸奥国一一国造のうち伊久が伊具郡、思は亘理郡か志田郡に叙任されたとする説があり、三郡とも当時の陸奥国の最北端地域にあたる。陸奥国の領域においてはいずれも現宮城県域で、現岩手県域は国家支配の及ばぬ「未開」の地とされていたようである。
〔日高見国〕
「日本書紀」景行天皇二七年二月一二日条によると、東国の視察を終えた武内宿禰は「東の夷の中に、日高見国有り。
陸奥国
むつのくに
〔国の成立〕
陸奥国はもと道奥国と書き、「みちのおくのくに」とよばれた。「日本書紀」斉明天皇五年(六五九)三月条に、「道奥と越との国司に位各二階、郡領と主政とに各一階授く」とあり、大化改新のすぐ後には道奥国が成立したとみられる。道奥とは東山道の奥という意で、道が国家支配の及ぶ範囲とすると、その外の未開の土地という意味であるが、国家の支配が及んでもそのような言い方が続いたとみられる。同書天武五年(六七六)正月二五日条には、「詔して曰はく、凡そ国司を任けむことは、畿内及び陸奥・長門国を除きて、以外は皆大山の位より以下の人を任けよ」とあり、この頃までに「道奥」を「陸奥」と改めたものと思われる。それでも「和名抄」によれば正式には「みちのおくのくに」であり、それをつづめて「みちのくのくに」(万葉集)とよんでいたらしい。九世紀頃には陸奥国を「陸州」と書き、それを「みちのくに」、また「六州」とも表記し、それを「むつのくに」と読むようになったと考えられる。
創立期の陸奥国の範囲は明らかでないが、従来の地方豪族が中央の支配下に入って国造となり、国郡制をとるようになると、従来の国造の支配した領域が郡に編成されることが多いので、当地方の国造をみれば範囲の推測の手掛りとなる。「国造本紀」に道奥菊多・道口岐閇・阿尺・思・伊久・染羽・浮田・信夫・白河・石背・石城の一一国造がみえ、伊久・思以外は現在の茨城県・福島県内である。伊久は伊具郡で、思については亘理郡と志田郡と両説がある。亘理郡とするとおよそ阿武隈川以南までが創立期の範囲となる。志田郡とみれば、ほかの郡に比して北に一つだけ離れていることになる。旧志田郡の現古川市内に四世紀の造営と考えられる青塚古墳があり、同地域が早くから開発されていたこと、また「続日本紀」慶雲四年(七〇七)五月二六日条に「陸奥国信太郡生王五百足」とあり、これを志田郡ともみられることから、思を志田とすることも可能である。
〔陸奥国の拡大〕
仙台市の名取川左岸の郡山遺跡から、七世紀後半と八世紀初めの遺構群が発見され、付属寺院跡も確認された。これを多賀城創設以前の官衙として名取郡衙とする説、陸奥鎮所とする説、また一時陸奥国衙であったとする説などが出され、今後の研究がまたれる。また七世紀末とみられる土器に「名取」と篦書があることから、名取郡(評)は七世紀末には存在していたとみられる。
陸奥国
むつのくに
古代
現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県域にあった旧国名。「日本書紀」斉明天皇五年(六五九)三月条に「道奥と越との国司に位各二階、郡領と主政とに各一階授く」とあり、大化改新の国郡制により道奥国が成立したと思われる。道奥国とは本来東山道・東海道の奥にある国の意で、道が国家支配の及ぶ範囲だとすると、国家の支配範囲の拡大とともに道奥国の領域も東に拡大する性格をもっていた。「日本書紀」天武天皇五年(六七六)正月二五日条に「凡そ国司を任けむことは、畿内及び陸奥・長門国を除きて、以外は皆大山位より以下の人を任けよ」とあり、この頃までに「道奥」から「陸奥」に改めたと思われる。しかし「和名抄」によれば、訓はいまだに「三知乃於久」と読まれている。「国造本紀」によれば、大化前代には道奥菊多国造・道口岐閇国造・阿尺国造・思国造・伊久国造・染羽国造・浮田国造・信夫国造・白河国造・石背国造・石城国造の一一の国造が支配しており、うち道口岐閇国造は現在の茨城県域、思国造・伊久国造は現宮城県域といわれ、他は本県域に属した。つまり大化改新による道奥国成立時には、本県域は完全にその内に含まれていたといえよう。なお「国造本紀」に会津国造はみえない。このことについて「大日本地名辞書」は阿尺国造・思国造の条に「阿岐閇国造」とあり、この「阿岐閇」は「阿比闘」(「アヒヅ」とよむ)の誤写ではないかと想定している。
和銅元年(七〇八)の現状を示す陸奥国戸籍(正倉院文書)によれば、大宝二年(七〇二)に戸籍が作られたこと、「郡上里」と称する里があったことが判明する。和銅五年九月に出羽国が建置され、同年一〇月には陸奥国のうち最上・置賜二郡(現山形県)を割いて出羽国に属させた。同八年相模国・上総国・常陸国・上野国・武蔵国・下野国の富民一千戸を陸奥国に移民させたうえで、養老二年(七一八)陸奥国のうち石城郡・標葉郡・行方郡・宇太郡、曰理郡(現宮城県)と常陸国菊多郡を割いて石城国、白河郡・石背郡・会津郡・安積郡・信夫郡を割いて石背国を建置した(以上「続日本紀」)。これにより、奈良時代の県域には一〇郡があったことがわかる。同四年一一月二六日の勅(類聚国史)に「陸奥、石背、石城三国調庸并租、減□之」とある。養老令の新付条に「大宰部内、及三越、陸奥、石城、石背等国」では、逃亡農民の戸籍は現住に従って定めることがあり、軍防令の帳内条に「三関及大宰部内、陸奥、石城、石背、越中、越後国人」に対しては、帳内資人を取ってはならないことを規定している(令義解)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報