山梨郡(読み)やまなしぐん

日本歴史地名大系 「山梨郡」の解説

山梨郡
やまなしぐん

甲斐国の中部から北部にかけて存在した。現在の東山梨郡・塩山市・山梨市のほぼ全域、東八代郡石和いさわ町の北部および甲府市のあら川以東に当たる。東は都留郡、西は巨摩(巨麻)郡、南は八代郡に境を接し、北は秩父ちちぶ山地が国境線を形成し、武蔵国秩父郡・信濃国佐久さく郡に接している。秩父山地に源を発する笛吹川とその支流が郡域を潤し、永正一六年(一五一九)の武田信虎による甲府開府までは甲斐の政治・経済・文化の中心地であった。

〔古代〕

古代の郡域には現東八代郡一宮・御坂みさか・石和の三町も含まれた。一方、甲府市の西半は巨麻こま郡に所属していた。「和名抄」東急本国郡部は郡名に「夜万奈之」の訓を付す。郡名の初見は正倉院宝物の調庸白金青袋に「(甲)斐国山梨郡可美里日下部 一匹 和銅七年十月」とある墨書銘で、これが現在のところ甲斐の郡名の初見でもある。当郡に関する史料は比較的多く残され、平城宮跡からも関係木簡が出土している。たとえば昭和三六年(一九六一)二月奈良平城宮の大膳職跡と推定される場所から「甲斐山梨郡雑役胡桃子一古」(表)、「天平宝字六年十月」(裏)と墨書した木簡二点が発見された。天平宝字六年(七六二)一〇月山梨郡より雑役として平城宮へ送られた胡桃に付けられた荷札である。「雑役」という税目は従来の史料にみえないので注目を受けたが、「延喜式」民部省に甲斐国の「年料別貢雑物」の一つとしてみえる「胡桃子一石五斗」がそれに該当するかと思われる。また平城宮跡出土木簡には「(甲)斐国山梨郡加美郷丈部宇万呂六百文」(表)、「天平宝字八年十月(裏)と墨書したものも発見された。「加美郷」は前記正倉院宝物の「可美里」の後身で、日下部某が調か庸として一匹を貢進したちょうど半世紀後に、同郷の人丈部宇万呂が都へ徴発されて衛士か仕丁を勤めていたことが知られる。この木簡は宇万呂の元へ国元から送られてきた養銭(生活費の銭)に付けられた荷札である。

令制の中郡で「和名抄」による管郷は全部で一〇郷。うち於曾おぞ能呂のろ林部はやし井上いのえ玉井たまのいの五郷を山梨東部、石禾いさわ表門うわと・山梨・加美かみ大野おおのの五郷を山梨西郡としている。郡を東西に分けるといっても、それぞれを独立の郡として郡家や郡司などを別置したものではなく、同書東急本国郡部が「国分為東西二郡」と分注している上野国群馬くるま郡の場合と同じような扱いをしたものであろう。東西にいつ分けられたかは明らかでないが、律令的郡制が変貌し郡を東西や南北に分ける事例が多くなるのは一般には平安時代中期以降の現象である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報