三野郡(読み)みのぐん

日本歴史地名大系 「三野郡」の解説

三野郡
みのぐん

讃岐国の西部に位置し、東は多度たど郡・那珂なか郡、南は豊田とよた(古代は苅田郡)と阿波国に接し、北西は瀬戸内海に面する。ほぼ中央を高瀬たかせ川が北西流し、南部を財田さいた川が西流する。「和名抄」国郡には「美乃」と訓を付す。現三豊みとよ郡の北部地域を郡域とした。

〔古代〕

天平一九年(七四七)二月一一日の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(正倉院文書)の寺領を記した項の「讃岐国拾参処」のうちに「三野郡一処」とある。「播磨国風土記」餝磨しかま郡の部に、同郡美濃みの里の地名起源として「讃岐国弥濃郡人、到来居之」とある。これらの記事から奈良時代初期には「みの」の郡名で成立していたとみられる。「和名抄」記載の管郷は勝間かつま大野おおの本山もとやま高野たかの熊岡くまおか・高瀬・託間たくまの七郷で、下郡である。令の規定では下郡の郡司定員は大領・少領・主帳各一員であるが、「三代実録」貞観七年(八六五)五月二五日条に、讃岐国三野郡に主政一員を置くとある。前掲流記資財帳によって当郡に奈良法隆寺の庄があったことがわかるが、その後の史料にはみえない。承和二年(八三五)七月一二日に郡内の空閑地一〇〇余町が仁明天皇の皇女時子内親王に与えられ(続日本後紀)、貞観七年一二月九日には託間郷に置かれていた託磨牧が停廃された(三代実録)。「古語拾遺」に讃岐国の忌部は調庸のほかに祭祀に用いる桙を貢じているとあり、「西讃府志」は忌部の所在地を現三豊郡豊中とよなか竹田たけだの地としている。

「先代旧事本紀」に、物部氏の先祖饒速日命が天降るとき供奉した一族の一つとして讃岐三野物部をあげている。これを事実とすることはできないが、古代のある時期に当郡に物部の氏族が居住していたことを示しているかもしれない。「三代実録」貞観一五年一二月二日条に、三野郡の人桜井田部連豊貞の本居を改め右京六条一坊に貫すとあり、元慶元年(八七七)一二月二五日条にも当郡の桜井田部連豊直を山城国に移し貫すとある。「日本書紀」によると、安閑天皇二年に各国に屯倉を設置し、桜井田部連らに屯倉の税を主掌させたという。このことから当郡域に屯倉が置かれ桜井田部連の一族が管掌のため派遣されたとする説がある。また「続日本紀」宝亀二年(七七一)三月四日条に、三野郡の人丸部臣豊が私物をもって窮民を養った功により爵二級を賜うとある。丸部は大和国の豪族和邇氏の部曲であり、丸部臣豊はその管掌者の後裔であろう。嘉祥元年(八四八)一〇月一日、豊の子孫と思われる丸部臣明麻呂が当郡の大領に任ぜられたが、父己西成にその職を譲り孝養を尽したとして賞されている(続日本後紀)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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