越中国(読み)エッチュウノクニ

デジタル大辞泉 「越中国」の意味・読み・例文・類語

えっちゅう‐の‐くに〔ヱツチユウ‐〕【越中国】

越中

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日本歴史地名大系 「越中国」の解説

越中国
えつちゆうのくに

古代

律令制の形成期に設置された北陸道の一国。東は越後国・信濃国、西は加賀国・能登国、南は飛騨国に接し、北は日本海に面する。「和名抄」東急本国郡部に「古之乃三知乃奈加」の訓があり、また「万葉集」巻一七の越中国に贈る歌二首(大伴坂上郎女作)に「美知乃奈加」、立山の賦一首(大伴家持作)に「古思能奈可」と表記される。越中を含む北陸道の古称には「越」(日本書紀)、「高志」(古事記)、「古志」(出雲国風土記)等の表記がある。「日本書紀」には「越国」のほか「越海」「越之路」「越之丁」「越辺蝦夷」がみえ、同地から白鹿・燃土・燃水献上の記事があり、大和政権における労働力源、蝦夷対策の補給基地、高句麗使の渡来経路などとして現れる。このうち斉明天皇四年(六五八)越国守阿倍比羅夫が一八〇隻の船団を率いて秋田・渟代ぬしろに進出し蝦夷と戦った件は、越国が東北経営の前線基地となり蝦夷勢力と厳しい緊張関係にあった状況を物語る。なお「先代旧事本紀」巻一〇の「国造本紀」では、律令制以前の越中の地に「射弥頭国造」がみえ、志賀高穴穂朝(成務天皇、実在性は不詳)の代に大河音足尼(建内足尼の孫)を国造に定めたとする伝承がある。

〔越中国の成立〕

越国から越中国の分立した時期は不明だが、「日本書紀」には「越」名が持統天皇三年(六八九)正月九日条や同年七月二三日条に「越の蝦夷」、分立国の「越前」国名は同六年九月二一日条に「越前国司、白蛾献れり」とあるので、同三年七月から同六年九月までの間に越中国も成立した可能性が高い。史書における越中国の初見は「続日本紀」大宝二年(七〇二)三月一七日条に「分越中国四郡属越後国」とする記事で、それ以前の越中国には越後国へ編入された頸城くびき古志こし蒲原かんばら魚沼いおぬの四郡が含まれた。国域の変更は天平一三年(七四一)一二月に能登国を越中国に併合し、天平宝字元年(七五七)五月に能登国を以前のように越中国から分立させた(続日本紀)。管郡は射水いみず礪波となみ婦負ねい新川にいかわの四郡で、国の等級は延暦二三年(八〇四)六月に上国と定められ(日本後紀)、「延喜式」民部上でも上国とするが、すでに天平期に守・介・掾・大目・少目・史生の定員がみえ、上国の待遇を受けていたことがわかる。これは管内に能登四郡を含んだ段階に対応している。「和名抄」東急本は越中の本田の田積を一万七千九〇九町五段三〇歩とし、平安後期の「掌中歴」は一万七千九町、鎌倉期の「拾芥抄」は二万一千三九九町とするが、「和名抄」と「掌中歴」の田積が近似する。

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改訂新版 世界大百科事典 「越中国」の意味・わかりやすい解説

越中国 (えっちゅうのくに)

旧国名。現在の富山県全域にあたる。

北陸道に属する上国(《延喜式》)。北陸の地一帯は古くは(こし)と総称されたが,律令国家の形成過程で越前,越中,越後の3国に分割された。その時期は明確ではないが,《日本書紀》持統6年(692)9月癸丑条に〈越前国司白蛾を献ず〉と見えるのが分割された国名の初見である。20年前の672年7月の記事には〈越〉とあり,おそらくこの間に3国の分立をみたものであろう。越中の国名の初見は《続日本紀》大宝2年(702)3月甲申条で,〈越中国四郡を分け,越後国に属す〉と見え,このとき頸城郡以北の4郡が越後国につけられて両国の国境が定まった。741年(天平13)12月能登国が当国に合併されたが,757年(天平宝字1)5月に再び分置され,射水(いみず),礪(砺)波(となみ),婦負(ねい),新川(にいかわ)の4郡を管する越中国の領域が確定した。《延喜式》に上国とあるが,上国と定められたのは804年(延暦23)で,それ以前はすでに上国なみの官制を適用されてはいたが,等級としては中国であったらしい。国府は射水郡,現在の高岡市伏木古国府の地に所在した。小矢部川の河口左岸段丘上に位置し,付近には国分寺跡も存在する。《万葉集》には,746年(天平18)から751年(天平勝宝3)まで越中国守であった大伴家持の作歌が多数収録されており,古代越中の風物を今に伝えている。8世紀中葉以降,当国内には盛んに東大寺などの墾田地が占定されたが,残された諸荘の田図によって当時の地形,開発の状況などを具体的に知ることができる。それらによれば各郡の平野部には条里地割がかなり施されていたようであるが,今日では一部断片的にしかその痕跡を見いだすことはできない。《和名抄》には当国の田積1万7909町5反30歩と見えるが,これは9世紀ごろの状態を示すものであろう。平安時代には立山が霊山として信仰され多くの参詣者がここを訪れた。
執筆者:

1180年(治承4)信濃に挙兵した源義仲が翌年平氏方の越後の城氏を破ると,宮崎党や石黒党など越中の有力武士団は義仲に味方するようになった。義仲はこれら在地武士に対して本領安堵策をとり,その支援をえて83年(寿永2)5月俱利伽羅峠の戦で平氏軍を破り,一挙に上洛した。翌年義仲が源義経軍によって近江粟津で敗死すると,源頼朝はそれまで義仲の掌握下にあった北陸道へ比企朝宗を鎌倉殿勧農使として派遣した。勧農使は〈守護人〉とも称され,国衙指揮権をももち,後の守護より強大な権限をもつものであった。比企氏の北陸道守護は91年(建久2)以前に一度停止され,再びその一族とみられる大田朝季が越中守護となったが,1203年(建仁3)9月比企の乱によって北条氏一族がこれに替わって守護になったとみられる。その由緒で承久の乱には北条朝時が北陸道大将軍となって西上,これ以後,鎌倉時代を通じてその子孫の名越氏が守護職を世襲した。しかし守護名越氏もその守護代もともに鎌倉にあって,在地では又守護代が職務を代行し,守護所は放生津に置かれた。また名越氏と被官関係にあった地頭代(岡成,土肥,椎名氏等)が鎌倉幕府内における名越氏の権勢を背景として所領支配を拡大強化し,南北朝期以降に国人として発展する基礎を築いた。

建武政権の下で,越中国司には中院定清が任じられたが,守護には吉見頼隆,ついで越中の豪族普門俊清がなった。その後これに替わって桃井直常が守護となったが,直常は1350年(正平5・観応1)観応の擾乱(じようらん)で足利尊氏に反した足利直義にくみし,南朝方として反幕軍事行動をとったため,越中は反尊氏方の拠点となった。その間に井上暁悟(普門俊清と同一人物)が再び守護に任じられ,その後守護は細川頼和,斯波氏(高経か),桃井直信斯波義将と交替した。管領となった義将は弟義種を守護代とし,守護所を守山(現,高岡市守護町)においたとみられる。80年(天授6・康暦2)ころに越前,越中両守護が畠山基国と斯波義将とで入れかわり,それ以後越中守護は畠山氏にうけつがれた。畠山氏は管領職とともに越中のほか河内,紀伊,能登等の守護職も兼帯したので,越中支配は当初遊佐氏を守護代としてこれに任せたが,後には礪波郡は蓮沼の遊佐氏,射水・婦負郡は放生津の神保氏,新川郡は松倉の椎名氏が,それぞれ分郡支配する体制となった。ところが応仁の乱の要因となった畠山氏の家督争いでは,持国の養子政長と実子義就とが抗争,越中の神保氏等は政長方の主力となり,越中国内では神保・椎名氏が強大化し,荘園侵略を推し進めた。応仁・文明の乱が終わっても政長と義就の抗争は続き,越中の家臣はその渦中におかれ,出陣をくりかえした。

1493年(明応2)細川政元のクーデタによって政長が倒されると,将軍足利義稙は逃れて越中放生津の神保長誠のもとに身を寄せ,98年越前の朝倉貞景を頼り,さらに周防の大内義興のもとに走って,細川政元死去後の1508年(永正5)将軍職に復した。その間に越中は細川政元方にくみした一向一揆の支配をうけ,一向一揆と協調関係を結んだ神保氏は守護畠山尚順との溝を深め,越後の長尾氏や能登の畠山氏とも対立抗争関係に入った。20年には長尾為景に攻められて神保慶宗,椎名慶胤が滅び,翌年守護畠山尚順は為景を新川郡守護代とした。為景は椎名長常を又守護代として支配にあたったので,越中の東部は長尾氏の勢力圏に入った。しかし礪波・射水・婦負郡では一向一揆勢力が浸透し,31年(享禄4)の大小一揆の影響をうけ下間頼秀が新川郡まで勢力を伸ばそうとした。天文年間(1532-55)には神保長職が登場して富山城に拠って神保氏を再興し,新川郡の椎名氏と対立することになった。長尾為景の没後その子輝虎(上杉謙信)も越中を制圧しようとし,62年(永禄5)には神保長職を破るが,68年椎名康胤が武田信玄,本願寺と結んで輝虎から離反すると,逆に長職は輝虎と結んだ。翌年輝虎は松倉城の椎名康胤を攻め,魚津城に河田長親をおいて越中侵攻の拠点とした。72年(元亀3)康胤と一向一揆は富山城に陣したが,神保方の要請で越中に出陣した謙信によって退けられた。76年(天正4)本願寺,一向一揆と和睦した謙信は急速に越中を制圧,翌年には能登の畠山氏の七尾城もおとした。

 以上のように一向一揆の勢力が介入して複雑な情勢にあった越中では,78年謙信が没すると織田信長が神保長住,斎藤新五を越中へ侵攻させ,さらに81年には越前府中三人衆の一人であった佐々成政を越中に封じた。成政は上杉景勝方と抗争をくりかえし,翌年6月には上杉方の越中侵攻の拠点魚津城を陥落させたが,本能寺の変のため成政は富山城に入って上杉方と抗争を続け,越中の制圧にあたった。83年越前北庄の柴田勝家を滅ぼした豊臣秀吉は成政の越中支配を認めたが,成政は秀吉と同心する前田利家と対立したため,83年秀吉に攻められてこれに降伏,所領は新川郡のみとされ,さらに翌々年肥後に転封された。婦負・射水・礪波の3郡は前田利勝(利長)に,新川郡は直轄地として利家に預けられ,前田氏の支配が始まった。
執筆者:

前田利長は一時富山に居城したが,1609年(慶長14)関野(高岡市)に築城してここに移った。39年(寛永16)加賀3代藩主利常が小松に隠退し,富山10万石を次子利次に分封した。以後廃藩に至るまで越中は加賀藩富山藩の支配下にあった。中世から続いている近世の町は,守護所のあった放生津,戦国期に城郭のあった富山・魚津,同期に港町であった氷見(ひみ),真宗瑞泉寺の門前町であった井波がある。近世には富山は城下町,魚津,放生津,氷見は港町,井波は門前町として栄えた。近世に興った町には,礪波郡では北陸道の要衝で加賀藩の奉行所のおかれた今石動(いまいするぎ),真宗善徳寺の門前町より在郷町に変化した城端(じようはな)のほか,福野・福光・津沢・戸出(といで)・杉木新(すぎのきしん),射水郡では高岡が元和の一国一城令で廃城後,商人の町に性格をかえて発展したほか,伏木・大門(だいもん)・小杉,婦負郡では八尾(やつお)・西岩瀬・四方(よかた),新川郡では東岩瀬・水橋・滑川(なめりかわ)・生地(いくじ)・泊・上市・上滝・五百石などの町々があった。近世の越中は百万石加賀藩を支える穀倉地帯で,四公六民で御蔵(公領)・蔵宿(給人知)に収納された年貢米の一部は,伏木・東岩瀬より北前船で大坂に運ばれて売却された。越中新川郡七かね山(松倉・河原波・虎谷・下田(げた)の金山,吉野・亀谷(かめがや)の銀山,長棟(ながと)の鉛山),婦負郡片掛銀山は初期には加賀・富山両藩のドル箱であったが急速に衰滅した。富山売薬は反魂丹(はんごんたん)を主薬とする和漢の行商人による配置制度で商圏を全国にのばした。富山湾における台網(定置網)漁業,礪波郡の八講布・城端絹,新川郡の新川木綿は,近世に興って近代軽工業発展の基盤となった。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「越中国」の意味・わかりやすい解説

越中国
えっちゅうのくに

現在の富山県全域にあたる旧国名。北陸道に属する。律令(りつりょう)体制によって設けられた。東は越後(えちご)、信濃(しなの)、南は飛騨(ひだ)、西は加賀、能登(のと)、北は日本海に面す。古くは北陸道一帯を高志(越)(こし)国と称したが、律令体制形成過程で越前、越中、越後に分割された。702年(大宝2)に越中国の東4郡が越後国に含められて両国の国境が確定し、また能登国が越中国に合併されたこともあったが、757年(天平宝字1)能登国が分立して、以後は射水(いみず)、礪波(となみ)、婦負(ねい)、新川(にいかわ)の4郡の構成で国の境域が定まった。国府は現在の高岡市伏木(ふしき)の地にあり、奈良時代中期に万葉の歌人大伴家持(おおとものやかもち)が越中守(えっちゅうのかみ)として在任し、越中の風土を詠んだ多くの名歌を残した。奈良時代後半には東大寺などの墾田(こんでん)が開発され、その地図の一部がいまも正倉院に残っている。平安時代以後は、中央の社寺権門によって多くの荘園(しょうえん)が設定された。そのころから在地の武士団が勢力をもつが、新川郡東部の佐味(さみ)荘を本拠とする宮崎氏および入善(にゅうぜん)氏、南保(なんぼ)氏などの宮崎党、また礪波郡南部の石黒(いしぐろ)荘を本拠とする石黒氏および福光(ふくみつ)氏などの石黒党が有力であった。守護は承久(じょうきゅう)(1219~22)ごろは北条義時(よしとき)の子朝時(ともとき)であり、その子孫名越(なごや)氏が世襲し、射水郡放生津(ほうじょうづ)を守護所とした。

 南北朝以後、室町幕府の管領(かんれい)畠山(はたけやま)氏が他国と兼ねて越中守護を管したが、現地支配は遊佐(ゆさ)、椎名(しいな)、神保(じんぼ)氏らの守護代に任せた。室町中期以降、加賀尾山御坊(おやまごぼう)を中核とする一向一揆(いっこういっき)が越中にも波及し、井波(いなみ)瑞泉寺(ずいせんじ)、城端(じょうはな)善徳寺、八尾(やつお)聞名寺(もんみょうじ)などが一揆の拠点となったが、神保、椎名氏らの守護代に押されて、一揆の一国支配はならなかった。1581年(天正9)織田信長の北国平定の先兵として、佐々成政(さっさなりまさ)、前田利家(としいえ)、柴田勝家(しばたかついえ)らが入国すると、一向一揆をはじめ越中の在地土豪はこれに屈した。信長の死後豊臣(とよとみ)秀吉は佐々成政に越中一国を与えた。成政は富山城を修築し、ここを軍事、政治上の拠点としたので、以後富山は城下町として発展した。成政は秀吉に背こうとしたが、1585年秀吉軍に降伏し、87年肥後へ移された。かくて越中一国は前田氏の支配下に入り、加賀藩100万石領地の一部となった。1639年(寛永16)前田利常は、富山城を中心に婦負郡および新川郡の一部を次男利次に分与、富山藩10万石が成立し、加賀藩の分藩となった。富山2代藩主前田正甫(まさとし)は反魂丹(はんごんたん)を中心とする富山売薬を始めたと伝えられ、元禄(げんろく)(1688~1704)以後富山売薬は「越中富山の薬売り」として全国を行商し、富山売薬の名を高めた。1871年(明治4)7月富山県となり、11月新川県と改称、76年石川県に併合されたが、83年富山県として再置された。

[坂井誠一]


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藩名・旧国名がわかる事典 「越中国」の解説

えっちゅうのくに【越中国】

現在の富山県域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で北陸道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の高岡市におかれていた。746年(天平(てんぴょう)18)に大伴家持(おおとものやかもち)国司として赴任し多くの歌を『万葉集』に残した。鎌倉時代守護は比企(ひき)氏、名越(なごえ)氏、南北朝時代から室町時代には吉見(よしみ)氏、桃井氏、井上氏、畠山(はたけやま)氏など。戦国時代佐々成政(さっさなりまさ)が、その後は前田利家(まえだとしいえ)が領有、江戸時代には富山藩金沢藩の支藩)領となった。富山2代藩主前田正甫(まさとし)のとき売薬が始まり、元禄時代以後全国を行商する「越中富山の薬売り」として有名になった。1871年(明治4)の廃藩置県により富山県となる。翌年新川(にいかわ)県と改称、1876年(明治9)に石川県に編入されたが、1883年(明治16)に富山県として再設置された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「越中国」の意味・わかりやすい解説

越中国
えっちゅうのくに

現在の富山県。北陸道の一国。上国。もと伊弥頭国造が支配。初め越国 (こしのくに) であったが天武天皇のときに越中国として独立。大宝2 (702) 年,東部2郡を越後国に移し,天平 13 (741) 年,能登4郡を越前国から当国に合併し,さらに天平宝字1 (757) 年,能登4郡を分国。天平 18 (746) 年,万葉の歌人大伴家持は当国の守 (かみ) となり,天平勝宝3 (751) 年,少納言となり帰京するまで5年間在国。国府,国分寺ともに高岡市伏木。『延喜式』には新川 (にひかは) ,婦負 (ねひ) ,礪波 (となみ) ,射水 (いみつ) の4郡がみえ,『和名抄』は郷 42,田1万 7909町余をあげている。しかし『色葉字類抄』『拾芥抄』は2万 1359町余。鎌倉時代には比企氏,北条氏の一族名越氏が守護。室町時代には畠山氏が支配した。戦国時代には一時,越後の上杉謙信の支配下におかれたが,やがて佐々氏の領有となり,豊臣秀吉は前田利家を越中国に封じた。江戸時代には加賀国の前田氏の一族である富山藩が幕末まで支配。明治4 (1871) 年7月の廃藩置県では富山県となり,11月に新川県,1883年に再び富山県となる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「越中国」の解説

越中国
えっちゅうのくに

北陸道の国。現在の富山県。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では礪波(となみ)・射水(いみず)・婦負(ねい)・新川(にうかわ)の4郡からなる。7世紀後半に越国(こしのくに)とよばれた北陸地方を分割して成立。はじめ管郡は8郡であったが,702年(大宝2)頸城(くびき)郡以下4郡を越後国に移管。741~757年(天平13~天平宝字元)は能登国を併合した。国府・国分寺・国分尼寺は射水郡(現,高岡市)におかれた。一宮は高瀬神社(現,南砺市)。「和名抄」所載田数は1万7909町余。「延喜式」では調庸は綿を主体とするが,中男作物として紅花・漆・胡麻油・鮭などを定める。平城宮跡出土木簡に鯖の例がある。平安時代以降,立山が霊山として知られ,多くの修行者を集めた。鎌倉時代の守護ははじめ比企(ひき)氏,承久の乱以降は名越氏。室町時代は畠山氏。守護所は国府と射水川を挟んだ対岸の現在の射水市放生津(ほうじょうづ)にあり,一時高岡市の二上(ふたがみ)山麓におかれたこともあったらしい。守護大名・戦国大名は育たなかった。近世は金沢藩領とその支藩の富山藩領となる。1871年(明治4)の廃藩置県の後,富山藩は新川県となり,翌年七尾県の所管であった射水郡を合併。76年石川県に併合されたが,83年富山県が再置された。

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百科事典マイペディア 「越中国」の意味・わかりやすい解説

越中国【えっちゅうのくに】

旧国名。北陸道の一国。今の富山県。もと越(こし)の国に含まれ,7世紀末に分立。741年能登国も合わせたが,757年再び分置。《延喜式》には上国,4郡。中世に比企・名越・畠山氏らが守護。近世では金沢藩前田氏の支藩富山藩があり,金沢藩の影響が大きかった。売薬商人も著名。
→関連項目石粟荘石黒荘中部地方富山[県]

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世界大百科事典(旧版)内の越中国の言及

【能登国】より

…国名の由来は,立国の際,能登郡(現,七尾市)に国府が置かれたことによる。しかし741年(天平13)に至り,能登国は越中国に併合され廃国となった。748年(天平20)春,越中守大伴家持が出挙(すいこ)のために能登半島を巡行したときの和歌が,《万葉集》に載せられている。…

※「越中国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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