引野村(読み)ひきのむら

日本歴史地名大系 「引野村」の解説

引野村
ひきのむら

[現在地名]八幡西区引野一―三丁目・別所町べつしよまち割子川わりこがわ一―二丁目・養福寺町ようふくじまち上の原うえのはる一―四丁目・的場町まとばまち永犬丸東えいのまるひがし一丁目・美原町みはらまち若葉わかば一―三丁目・竹末たけすえ一―二丁目・相生町あいおいまち鉄王てつおう一―二丁目・鉄竜てつりゆう二丁目・小鷺田町こさぎだまちたか三丁目

永犬丸村の東、割子川や同川の支流みや(別所川)の流域に位置する。北は穴生あのお村、東は市瀬いちのせ村、南は下上津役しもこうじやく村。集落は本村のほか竹末・別所別当坂べつとうさか(東部は市瀬村抱え)上原うえのはる(北部は当村、東・西・南部は下上津役村抱え)西嶺にしがみね(西か峰)的場山上やまかみなど(続風土記拾遺)

引野村
ひきのむら

[現在地名]福山市引野町一―五丁目・引野町・鋼管こうかん

蔵王ざおう山塊より南に突出する深津ふかつ高地と引野山塊の間は奈良時代は深く入込んだ湾となり、良港であったと考えられている。近世に相次いで干拓され新涯村が造成され、海岸は引野山塊の南端と川口かわぐち新涯しんがい水呑の箕島みのみのみのしまを結ぶ線上に南下してきた。福山湾中の小島手城てしろ島は引野村に属していたが、寛文六年(一六六六)手城新涯が造成されたとき、陸続きとなった。

引野には古代すでに海岸に沿って集落があったらしく、不動里ふどうり宅部たくべ長浜ながはまの山麓には古墳時代の貝塚があり、長浜の丘上に箱式石棺の古墳もあった。引野山塊中には横穴式石室をもつ後期古墳も点在し、すでに破壊された谷地たにじ一―二号墳・不動里古墳・宅部古墳と、一部残存する大谷おおたに古墳の存在は、古墳時代に山麓一帯深津湾岸に集落のあったことを推測させる。

引野村
ひきのむら

[現在地名]上板町引野

鍛冶屋原かじやばら村の西にあり、北は泉谷いずみだに村、南は五条ごじよう(現吉野町)、西は高尾たかお(現土成町)阿讃あさん山脈から流れ下る泉谷川の扇状地に開け、南を宮川内谷みやごうちだに川が東流する。南部を撫養むや街道がほぼ東西に通る。紀伊熊野新宮領日置ひき庄の遺称地とされる(阿波志)。慶長二年(一五九七)の分限帳に引野とみえ、木全七兵衛知行分・谷源太郎知行分として各一〇〇石が記される。同七年の新開検地帳(上板町役場蔵)では高五六石余、田七町三反余・畠四町一反余。同九年の検地帳(同役場蔵)では高三四七石余、田一二町九反余・畠三三町三反余。

引野村
ひきのむら

[現在地名]豊岡市引野

気多けた郡に属し、土淵ひじうち村の南、円山まるやま川東岸に位置する。江戸時代の領主の変遷は清冷寺しようれんじ村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)に村名がみえ、高四三六石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では高四三八石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高四五二石余。出石封内明細帳でも高四五二石余(拝領高四三八石余・改出高一四石余)、内訳は屋敷高一六石三斗余・麻畑高一二石六斗余・田高二七九石余・畑高一四三石余、ほかに古新田高(二筆)計三六石余がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報