信太郡(読み)しだぐん

日本歴史地名大系 「信太郡」の解説

信太郡
しだぐん

「常陸国風土記」は「信太の郡東は信太の流海、南は榎の浦の流海、西は毛野河、北は河内の郡なり」と四至を記し、同書逸文(釈日本紀)には「古老の曰へらく、難波の長柄豊前の宮に御宇しめしし天皇の御世、癸丑の年、小山上物部河内・大乙上物部会津等、惣領高向の大夫等に請ひて、筑波・茨城の郡の七百戸を分ちて信太の郡を置けり。此の地は、本、日高見の国なり。云々」とあり、孝徳天皇の白雉四年(六五三)の建郡を記す。また同書逸文(万葉集註釈)は、黒坂命葬送を述べ、郡名の由縁について「時の人、赤幡のしだりの国と謂ひき。後の世の言に、便ち信太の国と称ふ。云々」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の信太郡の言及

【常陸国】より

…筑波郡は北条,南条に分かれ,このうち南条は片穂(かたほ)荘(日吉社領)となる。信太郡は東条,西条に分かれ,西条は信太荘(八条院領)となる。常陸国西部のうち下妻荘を除く真壁郡東部は常陸平氏の庶流真壁氏の勢力下にあった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」