中島村(読み)なかしまむら

日本歴史地名大系 「中島村」の解説

中島村
なかしまむら

[現在地名]大和町中島、三池みいけ高田たかた徳島とくしま

島堀切しまほりきり村の南、中島川(矢部川下流)の最下流部両岸にある。三池街道が通り、中島渡が設けられている。中世には鷹尾たかお別符の一部で、建保五年(一二一七)三月晦日の瀬高下庄公文所下文(鷹尾家文書/鎌倉遺文四)によると「鷹尾別符中島名頭所」に対して、中島所当米一石余を毎月鷹尾別宮(現鷹尾神社)朔幣料に充てるように命じている。その後武蔵国の御家人多賀江氏の所領として「小犬丸名田畠并(中島)屋敷」がみえるが(弘長二年五月六日「将軍家政所下文」深江文書/鎌倉遺文一二)、多賀江八郎入道蓮光のとき没収地となり(元亨四年三月二〇日「鎮西下知状案」同文書/鎌倉遺文三七)、正和四年(一三一五)に安富頼泰に宛行われた(同年四月三日「関東御教書」同文書/鎌倉遺文三三)。元亨年間(一三二一―二四)には鷹尾別符雑掌道慶と安富頼泰の子泰長との間でこの中島屋敷の年貢済物をめぐり相論となり(前掲下知状案)、嘉暦四年(一三二九)にも同様のことが争われ、安富氏の主張が通った(嘉暦四年八月二〇日「鎮西下知状案」深江文書/鎌倉遺文三九)。この時の鎮西下知状には「押領田地五町号中島」とあり、また延文元年(一三五六)七月九日の安富宗種譲状案(同文書/南北朝遺文(九州編)四)には宗種から甥泰重へ譲られた所領のうちに「鷹尾別符本田廿五町号小犬丸名、此内中嶋□新開屋敷」とあることから、中島屋敷は小犬丸名内であった。

中島村
なかじまむら

[現在地名]岡崎市中島町

碧海へきかい郡の最西南端に位置する。村域南部には広田こうた川右岸沿いに中島道が通り、集落は道沿いに細長く立地。西は高畑たかはた村および米野こめの(現西尾市)、東南は広田川で対岸の下羽角しもはすみ村・貝吹かいふく(現西尾市)、北西は安藤あんどう川で東浅井ひがしあさい村・西浅井村(現西尾市)、北は安藤村・二軒屋にけんや村・正名しような村と接する。

「神鳳鈔」の河内御薗一三町五反余の地という(明治村史)。伊勢神宮との関係は「三河志」の日長ひなが神社の項に「中島村内宮神明社領十石」と記し、字小園おぞのの小園神社の項に「小園村外宮神明社領十石」と記す。村域内には昌泰三年(九〇〇)建立と伝える天台宗昌泰しようたい寺が存在した。また浄光じようこう寺の明応六年(一四九七)銘実如上人方便法身像に「碧海郡碧海庄中嶋(郷カ)教梁」と記す。室町時代に中島城主として由良氏の存在が伝えられ、小園神明は社伝では永正元年(一五〇四)由良光兼が本殿などを修造したという。

中島村
なかしまむら

[現在地名]御津町中島

現御津町の北端に位置し、揖保川からなか川が分流する付近の右岸に立地する。北は真砂まなご(現龍野市)市場いちば(現揖保川町)および揖保川を境に上川原かみがわら(現姫路市)、東は中川を挟んで上余部かみあまるべ(現同上)、南はしも村、西は碇岩いかりいわ村。岩崎いわさき中村なかむらすみの小地名からなる。揖保川の中洲が発達し村を形成したので中島と称したという。貞和三年(一三四七)六月二四日の刑部守延譲状(広峯文書)に広峯神社(現姫路市)の播磨国内の檀那場として「中島」がみえる。また応安六年(一三七三)一一月一八日の守護方使節肥塚元基書状案(教王護国寺文書)には「中島保」とあり、「蔭涼軒日録」延徳元年(一四八九)一〇月二一日条によると、細川政元は「揖西郡中島保内宝寿禅寺」に経王を寄進している。

中島村
なかじまむら

[現在地名]君津市中島

籾山もみやま村の南東に位置し、村境北側を小糸こいと川が西流する。応永四年(一三九七)一二月二三日の足利氏満挙状(中山法華経寺文書)周東すとう郡「末利上村中島」とみえ、中山法華経寺の日尊から日暹へ当地などの譲渡を安堵するよう幕府に申入れている。弘治三年(一五五七)三月二一日、秋元あきもと中島の盛願じようがん(成願寺)道場で永秀が円宥に印信を与え、一一月七日には両部灌頂を授けている(「醍醐許可印信奥書」成願寺文書)。天正一五年(一五八七)銘の神野じんや寺蔵棟札に「秋元郷中嶋村神野寺鹿野山修善院」とあり、秋元氏一族の地主藤原義次および里見家臣によって修造された。

文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高五五〇石。

中島村
なかじまむら

[現在地名]小山市中島

鬼怒川西岸の沖積地に位置し、福良ふくら村に北・西・南の三方を囲まれる。寛永一四年(一六三七)の検地帳(柴山良四郎文書)では「下野国結城領中島村」とみえ、田はなく、畑二四町二反余・屋敷一町四反余、ほか真明院・薬師・稲荷の除地四反余、新畑一七町二反余。慶安郷帳では都賀つが郡の内に村名が記される。初め幕府領、寛文四年(一六六四)の久世広之領知目録では下総国結城郡一四ヵ村に属し、老中久世大和守領で、同九年幕府領、同一一年に旗本戸田領。延宝四年(一六七六)幕府領、天和元年(一六八一)に旗本松平領、同二年幕府領に復し、文久元年(一八六一)より旗本松平領。延享元年(一七四四)の流作場新田検地帳(柴山良四郎文書)では畑四反余・芝畑一町六反余が打出された。天保九年(一八三八)の村明細帳(同文書)によれば田一石余・反別五反余、畑三〇四石余・反別七一町余。新畑は寛文四年の検地高一九石余・反別九町五反余、正徳二年(一七一二)の滝野忠央の検地では高三五石余・反別一七町六反余、見取畑は元文二年(一七三七)に一町二反余が打出され、ほかに石川原六町余であった。

中島村
なかじまむら

[現在地名]静岡市中島・東新田とうしんでん一―五丁目・下川原しもかわはら広野ひろの

安倍あべ川河口部左岸沿いに位置し、北は中野なかの新田、南は駿河湾に面する。安倍川対岸沿いも当村のうちで、熊野くまの新田と称された(「修訂駿河国新風土記」など)。村名の由来は上島村と同じ。寛永九年(一六三二)幕府領、明暦二年(一六五六)ないし元禄一一年(一六九八)から旗本松平滝脇領、のち小島藩滝脇松平氏領として幕末に至る(「寛政重修諸家譜」・明治四年旧桜井県事蹟取調書など)西脇にしわき村・西島にしじま村・下島村とともに小島藩領のはま四ヵ村と称されたという。元禄郷帳では高六一五石余。旧高旧領取調帳では小島藩領六一五石余、中島神社除地一石余・見性寺除地一石・昌林しようりん(現曹洞宗)除地四石。

中島村
なかじまむら

[現在地名]土佐市中島

用石もちいし村の北、仁淀によど川西岸、波介はげ川北岸の小村。仁淀川対岸は森山もりやま村・弘岡上ひろおかかみノ村(現吾川郡春野町)。中島渡があり、高知城下となか(現中村市)を結ぶ中村街道が村の北を通る。明治二二年(一八八九)の町村制施行まで、当村は仁淀川西岸にありながら吾川あがわ郡に属した。「続日本後紀」承和八年(八四一)八月二三日条によると、この時吾川郡のうち四郷を割いて高岡郡が新設されたが、両郡は仁淀川で区切られたと考えるのが自然であり、当時仁淀川本流は当村より西を流れていたとみられる。現在のいずみ川の川筋がその名残で、明治三二年の洪水の折にも川成りになったという(土佐市史)。長宗我部地検帳(天正一七年)の表紙に「吾川郡中村郷森山地検帳之事」とあり、地域表示には「森山村中島」「中島村」の両方を使っている。

同地検帳によれば、近世の中島村に該当する地域の総検地面積二七町九反余。

中島村
なかじまむら

[現在地名]伏見区中島〈あきやま町・河原田かわらだ町・きたくち町・御所ごしようち町・外山そとやま町・中道なかみち町・かみ町・堀端ほりばた町・前山まえやま町・みやうしろ町・みやまえ町・流作りゆうさく町〉

北・東は竹田たけだ村、南は下鳥羽しもとば村、西はかも川を介して塔森とうのもり(現南区)に接す。白河天皇が退位後の後院として造営した鳥羽殿(鳥羽離宮)の中心地。離宮の庭池中に中島が作られ、一四世紀に離宮が衰退後、この島に集落が形成されていったものと推定される。中世後期には鳥羽庄の荘域に含まれていたと考えられるが、その実態は明らかでない。

鳥羽街道沿いにあった中島村は、近世馬借を業とするものが多かった。京都御役所向大概覚書に

<資料は省略されています>

と記される。

中島村
なかじまむら

[現在地名]福島市岡島おかじま

岡部おかべ村の北、阿武隈川右岸の低位沖積段丘面上に立地し、東端を胡桃くるみ川が北流する。村名は往古阿武隈川が二派に分流しており、その間で島状を呈していたことによるという(信達二郡村誌)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高二二二石余。近世初期の邑鑑によると高二二〇石余、免九分、家数九(役家四・肝煎一・脇家四)、人数二四、役木として桑・楮がある。元和元年(一六一五)の長井郡伊達信夫郡高物成之帳(黒沢家文書)でも高二二〇石余、免九分一厘八毛。

中島村
なかじまむら

[現在地名]中島町中島

熊木くまき川河口左岸の村。対岸は浜田はまだ村と上町かんまち村、東は海に臨む。内浦街道の馬継所で、街道沿いに町並が続く(天明年間「中島村絵図」中島中学校蔵など)。貞応三年(一二二四)一〇月一日の熊来庄立券文写(尾沢文書)に「中島里」とみえ、不作田一町八反四とある。永禄二年(一五五九)九月二五日の釶打熊野権現奉加札(藤津比古神社蔵)によると「中島」の浄順が米袋二つを納めていた。

天正一〇年(一五八二)九月一日、前田利家が当地の与一に宛てた印判状写(能登国古文書)には「熊木村与一」となっており、以後四代までの十村扶持状にいずれも熊木村とみえる(「加能越里正由緒記」金沢大学蔵)。この頃は上町村とともに熊木と称されることもあり(能登志徴)、正保郷帳によれば中島村の高七七八石余、田方三六町四反余・畑方一五町四反余。

中島村
なかしまむら

[現在地名]安佐北区可部かべ町中島

可部町の南に位置し、東は根谷ねのたに川を挟んで上原うえはら村・下深川しもふかわ村、西は沼田ぬまた八木やぎ(現安佐南区)太田おおた川が村境を流れる。両河川は当村の南で合流する。村内の北には下町屋しもまちや村飛郷の小松原こまつばらがある。深川郷から可部町へ通じる往還は、下深川村尾和おわから当村東南部へ入り、北部の三本松さんぼんまつで八木村へ出る。「芸藩通志」は深川筋一二村の一としている。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では村高一六二石九斗二升、寛永一五年(一六三八)の地詰で二六六石二斗(郡中国郡志)、正徳五年(一七一五)の地詰で五五二石七斗七合と急増(同書)

中島村
なかしまむら

[現在地名]福山市駅家えきや町中島・駅家町弥生やよいおか

倉光くらみつ村の北に位置し、北は丘陵地を境して新山にいやま村に続き、西は近田ちかた村。付近で最も早く開けた地域で、その丘陵部は古代集落であったことが発掘調査によって確認された。弥生中期から後期にかけての住居跡約六〇基、なかには火災に遭って炭化した竪穴住居の建築材がそっくり残るなど、全丘陵に密集した竪穴住居群がみられた。古墳時代の住居跡や古墳群も存在、二子塚ふたごづか古墳を主墳とし、残存する古墳は中島地域で二二基が確認されている。さらに北部新山の小山田おやまだに続いて数十基の古墳がみられ、備南における大集落の存在が推定される。

中島村
なかじまむら

[現在地名]いわき市小名浜おなはま 後宿うしろじゆく沖見おきみ上町かみちよう上明神町かみみようじんちよう下町しもちよう下明神町しもみようじんちよう諏訪町すわちよう辰巳町たつみちよう中明神町なかみようじんちよう中坪なかつぼ橋本はしもと元分もとわけ小名浜諏訪町おなはますわちよう小名浜花畑町おなはまはなばたけちよう

小名浜四ヵ村の一つで、西は中町なかちよう村、東は米野こめの村。小名浜の中心であった。磐前いわさき郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から延享四年(一七四七)以降幕府領。文禄四年(一五九五)の岩城領小物成目録(秋田県立秋田図書館蔵)によれば、塩竈二、大船一五・小船一がある。

中島村
なかじまむら

[現在地名]高砂市中島一―三丁目・今市いまいち一―二丁目・緑丘みどりがおか一―二丁目・百合丘ゆりがおか美保里みほのさと末広町すえひろちよう

小松原こまつばら村の西に位置し、西洗にしあらい(現法華山谷川)と東洗川(現廃川)に挟まれた中洲に立地する。印南いなみ郡に属し、西は今市村。魚崎の山本千軒うおざきのやまもとせんげんから移住して集落ができたとの伝承がある(増訂印南郡誌)。慶長国絵図に村名がみえる。慶長五年(一六〇〇)池田輝政(姫路藩)領となるが、正保(一六四四―四八)頃は幕府領(正保郷帳)、延宝六年(一六七八)相模小田原藩領となり(「稲葉家引継書」小田原市立図書館蔵など)、延享四年(一七四七)三卿の一橋領となり幕末に至る(「一橋家領知高帳」一橋徳川家文書、旧高旧領取調帳など)

中島村
なかじまむら

[現在地名]右京区うめはた御所ごしよぐち町・笹江辺ささえべ町南部・高雄たかお町・谷山川西たにやまかわにし中島なかじま町南部・西にしはた町・檜社ひのきやしろ町・御経坂みきようさか町南部〉

北は谷山、西は上嵯峨かみさが村、南は善妙寺ぜんみようじ村、東北はいち村に接し、山に囲まれた山村。谷間を東から西に清滝きよたき川が流れ、一条街道(現周山街道)に面する東中腹に集落がある。

集落の西側高雄山麓には和気清麻呂の子真綱が天長元年(八二四)河内の神願しんがん寺を移建して高雄寺に合併したことに始まるとされる神護じんご寺がある。

中島村
なかしまむら

[現在地名]石井町高原たかはら 中島

東覚円ひがしかくえん村の南に位置し、東は高畠たかばたけ村・天神てんじん村、西は高原村、南は南島みなみじま村。かつて吉野川の中洲であったことに村名は由来するといわれる。現兵庫県三原みはら町の国分こくぶん寺が所蔵する暦応四年(一三四一)六月二五日に安置された木造釈迦如来坐像に、信心結縁衆として「道賢房、阿州名西庄中嶋郷延福寺住」とある。文明一〇年(一四七八)一〇月吉日に書写された那智山花蔵院檀那書立(米良十方主所蔵文書)に阿波国「中嶋先達引旦那一円、道賢分、五貫文」とみえ、当地にかかわるものか。天正九年(一五八一)九月、長宗我部元親は名代久武親秋に二万の軍勢を派遣、一宮成助が中島に出迎えたという(「三好家成立記」など)

中島村
なかしまむら

[現在地名]奈義町中島東なかしまひがし中島西なかしまにし

荒内西あらうちにし村・荒内東村の南、たき川・是宗こりむね川・高殿こうどの川の合流地域に立地。正保・天保両郷帳には中島村とあるが、「東作誌」によれば明暦元年(一六五五)東分・西分に分村、庄屋も別々に置かれていた。中島西には条里制遺構があった。正保郷帳に田五八七石余・畑一一三石余とある。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高二二一石余・開高一八〇石余、村位は中。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によれば、延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数七三(うち大つホ五・福本村一九・有本四など)、延宝四年からは津山藩主の弟森長俊領。

中島村
なかしまむら

[現在地名]東洋町野根のね 中島

なか村から北西へ、野根川北岸の山裾に沿って続く集落、近世末までは川の自然堤防上に人家があったので中島の名がある。上流は内田うちだ村。野根郷中で最も広い沖積平野を耕地とするが、江戸時代には決して安定した耕地ではなかった。

天正一七年(一五八九)の野禰村地検帳によると、二一町三反余のうち、畠が四町七反余、しかし荒分が三町六反余もあって、屋敷地を差引くと耕作可能な水田は全体の五四パーセントにすぎない。天明七年(一七八七)の野根郷中村別本田改(北川家文書)では、本田七町五反二九代一歩で、額面石高の三分の一強にすぎない。その後四町七反余が「尓来永荒」(「奉願口上覚」同文書)とされていたが、天保四年(一八三三)の地押の際「丸地境混じ合居候ニ付、御詮義之上打崩被仰付」再調査の結果二町八反余の出地を生じ、荒起を命じられ八石五斗余の貢物増を招いている(「因果物語」同文書)

中島村
なかじまむら

[現在地名]和歌山市中島・新中島しんなかじま手平てびら三丁目・北中島きたなかじま一丁目・小雑賀こざいか三丁目

名草なくさ郡に属し、和田わだ川の北西にある。北東は枝郷新中島を挟んで杭瀬くいのせ村。永徳二年(一三八二)八月一七日付の国造紀俊長田地寄進状写(「続風土記」所収日前宮文書)に「中島観音堂」(想福寺)とみえる。中世は日前国懸ひのくまくにかかす宮領であった。また永禄五年(一五六二)七月吉日付の湯河直春起請文(湯河家文書)によると雑賀一揆の社家しやけ郷のうちに「中嶋 嶋田殿」とみえる。

中島村
なかじまむら

[現在地名]金井町大和やまと 中島

北は馬場ばんば村・船津ふなつ村、東は船津村、南は国府こうの川を隔てて下新穂しもにいぼ(現新穂村)国仲くになか丘陵の低位段丘先端にある。古くは国府川が大野おおの川と洞丸どうまる川に分岐する付近の中洲状のところにあったという(佐渡金井町史)。元禄七年(一六九四)の検地帳(中島区有)には地字に屋敷・沢屋敷・東屋敷・中屋敷・屋敷ノ下・屋敷前などの屋敷地名がみられ、有力百姓の所在したところと思われる。地字寺ノ川内・寺の前は善積ぜんしやく寺付近の田地であろう。

中島村
なかじまむら

[現在地名]小山町中島

鮎沢あゆざわ川の支流野沢のざわ川の左岸に位置し、北・西を柳島やなぎしま村、東を生土いきど村、南を藤曲ふじまがり村などに囲まれる。集落は野沢川が形成した河岸段丘の谷間に広がり、北に西丹沢にしたんざわの山地を控える。寛永一〇年(一六三三)相模小田原藩領となり、以後の領主の変遷は小山村に同じ。寛永改高附帳では田高三五石余・畑高二三石余。正保四年(一六四七)の検地帳(中島林野組合文書)によれば、反別は田三町五反余・畑四町余、ほかに野畑二反余。宝永四年(一七〇七)の富士山噴火による積砂は三尺六寸(「亥積砂寸尺覚」室伏家文書)。寛保元年(一七四一)の村鑑(中島林野組合文書)では、高七一石余、反別は田三町五反余・畑四町五反余で、高外として新田六畝余・新畑一反余がある。

中島村
なかじまむら

[現在地名]河北町中島

東流する追波おつぱ川の北岸、中野なかの村の西に位置し北方北上山地丘陵と、南側丘陵の山麓に集落が点在する。東西に古川ふつかわ堀が流れる。天文五年(一五三六)六月二五日、伊達稙宗は江刺左衛門に大森おおもり・中島の反徒を早く鎮めるよう促している(「伊達稙宗書状」伊達家文書)。正保郷帳では田四九貫一七〇文・畑九貫五九〇文で旱損と注され、ほかに新田六貫二六〇文。桃生郡北方二〇ヵ村大肝入の支配下で、すぎに御蔵場があり、米を納めたという(わがふるさとの町飯野川)

中島村
なかじまむら

[現在地名]立川町肝煎きもいり

立谷沢たちやざわ川下流右岸に位置し、対岸は片倉かたくら村・肝煎村、南は枝郷の興屋こうや村を挟みなか村。東は土湯つちゆ山麓。立谷沢七ヵ村の一村。正保郷帳に村名がみえ、田二五五石余・畑一四石余。弍郡詳記では高二七八石余、免四ツ四分、家数四五。小名として興野・生操いくり(繰)ざわを記す。寛政八年(一七九六)には高二七八石余のうち一四八石余が川欠高であった。同年の家数四九、男一四二・女一一四、馬一五(「七ヶ村高其外明細帳」斎藤文書)。文政九年(一八二六)の堂林松杉改帳(同文書)に神明堂(現皇大神社)・山神堂(現山神社)がみえる。興屋は同改帳に、興屋村分として観音堂(現豊受神社)・明神堂が記され、同年頃にはすでに一村の形態を整えていたと思われる。

中島村
なかじまむら

[現在地名]酒田市米島よねしま

今泉いまいずみ村の南東、日向につこう川の中流右岸にある。集落は久保田くぼた金山かねやま中城宮下なかじようみやしたくち福島ふくしま田中たなか門前もんぜん興野こうやに散在し、北側を北中島村、南側を中島村と称した。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高六五六石余と二八石余で計六八四石余。寛永元年庄内高辻帳の高一千九九石余。正保郷帳では田方九一七石余・畑方二九一石余。正保三年(一六四六)には鮭一六尺八分の代銀五八匁八分を納めた(庄内三郡左沢浮役帳)。明暦二年(一六五六)の検毛帳(飽海郡誌)では中島村五六六石余・北中島村六三九石余。貞享年間(一六八四―八八)には中島村一千二〇六石余、家数三三、うち本百姓一二。

中島村
なかじまむら

[現在地名]木更津市中島

瓜倉うりぐら村の北東、小櫃おびつ川右岸に立地し、北方は海に面する。天正四年(一五七六)と推定される三月二八日の北条氏規朱印状(山本文書)に小田原北条氏の半手所領として「中島」とあり、敵対する北条氏と里見氏の双方に年貢を半分ずつ納めている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高五一六石。寛永三年(一六二六)田畑屋敷高辻帳では高五一六石余。田一三町八反余で、うち下田一〇町六反余、畑屋敷八四町余のうち荒川欠が一六町六反余に及ぶ。製塩を行っており、定納塩八五七俵のほか、浦役として塩二七俵、瓜蔵(瓜倉)山代として塩一二〇俵を納入。

中島村
なかじまむら

面積:一八・八七平方キロ

阿武隈高地と那須山地に挟まれた中通り南部、南から東を阿武隈川が流れ、村内をいずみ(滑里川)が東流する。南はひがし村、北は矢吹やぶき町、東は石川町、西は泉崎いずみざき村に接する。古代から中世にかけて、この地域は東山道と常陸への街道が交差する交通の要衝であった。中世には石川氏の一族奈目津(滑津)氏の支配から結城白川氏の所領となり、天正一八年(一五九〇)伊達政宗領となる。江戸時代には阿武隈川・泉川の河岸と滑津なめづ原の平野部に六ヵ村を形成した。

中島村
なかじまむら

[現在地名]分水町中島

東流する島崎しまざき川左岸にあり、南は泉新いずみしん村、北は源八げんぱち新田。元和六年(一六二〇)の三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)に「関中嶋村」とみえ、高六三五石余で三条藩領。正保国絵図では高六四一石余、幕府領に属する。のち村上藩領となり、貞享元年(一六八四)の同藩領分郷村高辻帳に村名がみえ高六一〇石四斗余。享保一一年(一七二六)から同一四年にかけて北方の入会野谷地が開発され、中島村新田が成立、幕末まで幕府領。

中島村
なかしまむら

[現在地名]小野市中島町

敷地しきじ村の東に位置し、加古川左岸の標高約五〇メートルの河岸段丘面に立地する。東は上大門うえだいもん村・下大門しもだいもん村、南は黒川くろかわ村。当村と上大門村・下大門村・両谷寺りようたにじ西谷寺にしたにじ土橋つちはし村・黒川村を含む地域は原田はらだと称し、鎌倉時代初期重源によって開発されたと伝える原田八〇町にあたる地で、現在も同一の氏子圏に属し、水利系統も同じくするなど相互に密接な関係を有している。

中島村
なかじまむら

[現在地名]広神村中島

破間あぶるま川と羽根はね川が合流するデルタ地帯の先端に位置する。現小出こいで町から六十里越ろくじゆうりごえ道が縦貫する。北に中島新田が続く。北部を上中島、南部を下中島という。正保国絵図に村名がみえ、高四〇二石余。天和三年郷帳では高四二一石九斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(安達家文書)では田二九町三反余・畑一〇町三反余・青苧畑三反余。下倉したぐら(現堀之内町)四日町よつかまち村・小出島こいでじま(現小出町)へ越石がある。小出島の陣屋番給・牢番給・郷蔵番給を納める。

中島村
なかしまむら

[現在地名]厳木町大字中島

多久たく市との境にあり、境界は東の権現岳と南東の瀬戸木場せとこば山の稜線沿いで、両岳の間に笹原ささばる峠がある。村の北部で厳木川が大きく迂回して河床をつくり、鉄砲てつぽう町の集落がある。中島集落は佐賀往還(唐津往還)に沿い、瀬戸木場山山麓に篠原しのはら集落がある。

正保絵図に中島村・篠原村の村名があり、藩政期中頃までは、両者は別の村であった。明和二年(一七六五)の幕府の唐津藩水野氏への領知目録には、両村の名があるが、唐津藩小笠原氏時代の文化年中(一八〇四―一八)の記録には篠原村の村名はない。

中島村
なかじまむら

[現在地名]幸手市中島

花島はなじま村の北、江戸川右岸の洪積地に位置する。東は江戸川を隔てて関宿元せきやどもと(現千葉県関宿町)。もと下総台地上にあったが、寛永一八年(一六四一)新利根川の開削により江戸川右岸に位置するようになった(明暦二年「小流寺縁起」小流寺蔵)。幸手領天神島てんじんしま城主の一色宮内少輔源直高が同城落城後蘆原に潜み蘆葉某と名乗って当村を興したと伝え、同家は江戸時代名主を世襲したという(郡村誌)

中島村
なかしまむら

[現在地名]一宮市萩原はぎわら中島なかしま

美濃路が村の中を通り、並木が五〇八間にわたって茂っている。萩原村の東南、北は東宮重ひがしみやしげ村・西宮重村・高木たかぎ村に接する。

中島郡の郡名発生の地と考えられる。天平六年(七三四)中島氏の祖とみられる郡司中島連東人(尾張国正税帳)以来、中島氏はここを本拠とし、在庁官人として国府において地方行政を担っていたとみられる。鎌倉末期には大介職として惣領家の地位を築き、居館や広大な耕地を所有した。

中島村
なかじまむら

[現在地名]大野市中島

うばヶ岳の北麓、笹生さそう川・くも川・鎌谷かまだにの合流部に位置する。東は黒当戸くろとうど村。永禄元年(一五五八)五月吉日銘の当村春日かすが社神像に「中島中務尉景智」の名がみえる。中島景智は朝倉氏の家臣で、字安養寺あんようじに居を構えていたと伝える。同氏の名はそのほか同社の元亀二年(一五七一)付の神明像台座などにもみえる。村名は正保郷帳にみえ、畠方のみ一二石。文政六年(一八二三)一〇月の郷中家数人別仕出帳(「越前宗門帳」所収)によれば家数は高持二九・水呑五〇、人数四三九とあり、西ノ谷中最大の集落。

中島村
なかしまむら

[現在地名]日田市大肥おおひ 大肥本町おおひほんまち・大肥町・大鶴町おおつるまち

なか村の西方に位置し、大肥川が南流する。天正一二年(一五八四)三月の大友義統合戦手負注文一見状(石松文書)によれば今山いまやま村などを焼払ったあと筑後国境の針目はりめ城で防戦したとあるが、この針目山の城は大肥庄中島村の内とされる(豊後国古城蹟并海陸路程)。近世初頭と考えられる一月一六日の岸寿安秀奉書(石松文書)に村名がみえ、当村に庄屋がいないので友田ともだ村の御宿七郎左衛門を庄屋とする旨を惣百姓に伝えている。

中島村
なかじまむら

[現在地名]福田町中島

東は福田村、中央をぼうそう川が東流し、西側を南流する今之浦いまのうら川と合流する。今之浦の干潟化によって形成された村。鎌田かまだ御厨の一部で、「猪隈関白記」正治二年(一二〇〇)八月四日条に「遠江国鎌田御厨内字中嶋新開田」とみえ、近衛家実は伊勢豊受大神宮(伊勢神宮)の権禰宜度会神主為康と同俊弘との相論に関して、後鳥羽上皇より諮問を受けている。正中二年(一三二五)三月と推定される度会行文譲状写(櫟木文書)によれば、次男繁行に譲る中嶋御園のうち次郎検校屋敷在家付田畠を除いた「中嶋新開御園」が長男某に譲られており、贄口入料麦三斗(八合枡)を毎年口入所に送ること、外宮・内宮祈祷料麦各三斗をそれぞれの神主に送ることを定めている。

中島村
なかじまむら

[現在地名]板倉町南中島みなみなかじま

せき川とその支流大熊おおくま川の合流点近くに位置し、東は下米沢しもよねさわ村、西は小石原こいしはら村、北は中島新田に接する。永正八年(一五一一)七月と推定される越後守護上杉定実袖判安国寺領所付写(関興庵文書)に「中島」とみえ、安国あんこく(現上越市)の蝋燭代捻出のための田地があった。正保国絵図に村名がみえ、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳に高五四六石三斗余とある。天和三年(一六八三)の検地帳(高橋文書)によれば高四七五石余、うち山高二石八斗七升・漆高一斗五升、田三一町一反余・畑六町余、家数四一。郷蔵があり、中島・中島新田・下米沢・吉増よします・小石原、北条きたじよう(現新井市)各村の年貢米を収蔵する(いたくら郷土誌)。川下げは田井たい村の関川右岸から行った。

中島村
なかじまむら

[現在地名]境町中島

下武士しもたけし村の東南に位置し、東は新田につた高岡たかおか村・八木沼やぎぬま村に接する。平坦地。現在広瀬ひろせ川が南を東流する。古くは西の小此木おこのぎ村と一村で「伊勢崎風土記」に「小柴村を割きて境町・中島・島村の三村を置けり」とある。分村時期を天正九年(一五八一)とする説がある。「長楽寺永禄日記」永禄八年(一五六五)二月九日条に「中嶋」とみえる。寛文郷帳では高一五八石余、畑方のみ、前橋藩領。

中島村
なかしまむら

[現在地名]岩泉町中島

小本おもと川の下流域、中里なかさと村の東に位置。小本川が北寄りを東流、南に大きく湾曲して小本村に入る。流域および南境の外川目そとかわめの谷間に耕地がわずかに開かれる。小本街道が通る。正保国絵図に村名がみえ、高は三九石余。元禄十郡郷帳による〆高は畑方一一五石余のみで、うち四〇石は中里村とある。享保三年(一七一八)の検地帳(盛岡市中央公民館蔵)では高五四石余、うち五石余は小本川洪水による川欠け定引、残り四九石余のうち二七石余が蔵入地で、二二石余は中里氏の知行地であったが、文化一一年(一八一四)の百姓一揆によって中里氏給地は取上げられ全村蔵入地となる。

中島村
なかじまむら

[現在地名]富士見村時沢ときざわ

不動堂ふどうどう村の北西に位置し、西端をしら川が流れる。白川扇状地にあるため、大水に悩まされることが多かった。もとは不動堂村に含まれたが、慶長年間(一五九六―一六一五)新田が開発され、やがて一村として独立したという(郡村誌)。寛文郷帳では不動堂村に含まれており、寛延二年(一七四九)の村明細帳(時沢区有文書)によると元禄六年(一六九三)の検地帳があるというので、その頃までに独立村となったようである。

中島村
なかしまむら

[現在地名]三原町志知中島しちなかしま

国衙こくが村の北西にあり、東部は平地で西部は山地。東からまえ(現馬乗捨川)なか(現大日川)山路やまじ川が北流する。この三つの川が形づくる砂洲上にあり、昔は高島たかしまと称したという。上条かみじよ・下条・大屋所おやじよの三傍示がある(味地草)。天正一四年(一五八六)一一月三日の淡路国御蔵入目録に「中しま」とみえ、三〇石が羽柴秀吉の蔵入地となっていた。正保国絵図では高五五九石余。天保郷帳では高六〇五石余。反別戸数取調書によると反別五〇町八反余、高六四五石余、うち蔵入高一二四石余・給知高五一四石余。給人は渡部勘吾ら一二人。ほかに八幡宮領三斗余がある。

中島村
なかじまむら

[現在地名]吉井町中島

石神いしがみ村の北、西は矢田やた村、北西はいけ村、南東は小串おぐし村と接し、北東部でかぶら川と矢田川が合して南東流する。天正二〇年(一五九二)の中島村寄帳(森文書)によると田七反七畝余・畑九町三反九畝余・屋敷三筆、分米一三一石二斗、一九人の耕作者が記されるが、分付・給分もみられる。田は上田はなく、畑は上・中畑で六町四反余を占める。寛永二年(一六二五)当村三一石が長谷川久三郎に与えられた(記録御用所本古文書)

中島村
なかじまむら

[現在地名]水原町中島町・岡山おかやま町・金田かねだ町・中央ちゆうおう町一―二丁目・外城とじよう町・学校がつこう町・中島

北は水原村、南は下金田村。慶長三年(一五九八)頃の新発田藩の御領内高付帳(新発田市史資料)に四五四石六斗八升とあり、同一〇年の給知方村々高目録(同資料)には毛付二二三石七斗八升四合、荒四五〇石五斗三合と記される。正保国絵図には二四〇石余とあり、寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳には高二四七石四斗余とある。同七年と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)では岡方組の分田組に属し、家数二七・人数一三六とある。享保一九年(一七三四)には干害のため安野あんの川上流の大野地おおやち村へ用水路開削の願書(水原博物館蔵)を提出している。

中島村
なかじまむら

[現在地名]余目町京島きようじま

吉田よしだ村の南、京田きようでん川北岸にある。松山まつやま(現飽海郡松山町)南野みなみの村方面から南下する道沿いに集落があり、南境の京田橋で江戸街道と合する。北楯大きただておお堰の幹川狩川上かりかわかみ堰から狩川村(現立川町)の南端で取水する中島堰を用水源として開発された村(嘉永七年「狩川大堰手控」佐藤文書)で、元和二年(一六一六)の開村(「渋谷家南野開発日記」伊藤文書)。寛永三年庄内高辻帳に村名がみえ、高一六七石余。正保二年(一六四五)の庄内村々高辻(酒井家文書)では高二三七石余。寛文九年(一六六九)の検地帳(檜山文書)によれば田一八町四反余・畑三町九反余・屋敷七反余で、田は中田が最も多い。

中島村
なかじまむら

[現在地名]紫波町中島

五内ごない川下流右岸の平坦地に位置。東は高水寺こうすいじ村、西は太田おおた(現矢巾町)、南は二日町ふつかまち新田・じんおか村、北は太田村・北郡山きたこおりやま(現矢巾町)。「雑書」寛永二一年(一六四四)三月二五日条によれば当村に堀籠将監・松崎与三・稲藤甚助・高林帯刀・岡井立斎の知行地があり、材木金が未進となっている。正保国絵図では高二四〇石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高五九九石余、七ヵ年平均の免四ツ七厘二毛。元禄十郡郷帳による〆高は、田方五四九石余・畑方六三石余。

中島村
なかのしまむら

[現在地名]岩舟町和泉いずみ

北の五十畑いかばた村と南の茂呂宿もろじゆく村の間に位置し、東は古橋ふるはし村、西は駒場こまば村。仲ノ島村・中野島村などとも記された。寛文三年(一六六三)の富田宿寄人馬帳(福島茂文書)に村名がみえ、富田とみだ宿(現大平町)の臨時助郷を勤めている。元禄郷帳では高二六九石余、下総古河藩領。改革組合村では旗本市川領、以後幕末まで同じ。日光御用割付(野城勝文書)によれば、元和三年(一六一七)の岩舟山の本百姓三一とあり、立花たちばな(現大平町)七・鶴巻つるまき(茂呂宿の小字)五・中野島五と注される。

中島村
なかじまむら

[現在地名]岩出町中島

紀ノ川右岸に広がる大村。北は吉田よしだ村・中野黒木なかのくろき村。東北は畑毛はたけ村・金屋かなや村・馬場ばば村。「続風土記」は「此ノ地、旧は紀ノ川の中にありて、此所にて川岐して中洲なりしを、元禄年中南の方に堤を築きて岐流を堰き田地を開き一村となす、因りて中島の名あり」と記す。

天保郷帳には「中野黒木村新田中島村」とみえ、村高一千四一石余。「続風土記」によれば家数六四、人数二五一。

中島村
なかじまむら

[現在地名]須坂市中島町

現須坂市西部。東部は九反田くたんだ村で小山こやま村、北は高梨たかなし村、西は福島ふくじま村、南は外百々そとどど(九反田堰水流末、権五郎川に入る)井上いのうえ村と境す。東に百々川・あい川の合流点。南から諸村の用水を集水して権五郎川、西方の千曲川の洪水の災を受け、東西南を堤防で囲む。集落は南北の道沿いに路村をなし、北方は村山むらやま村南端を通る須坂善光寺ぜんこうじ(現須坂―長野線)が通じ、南は東南の枝村荒屋あらやを経て九反田村方面へ通じる道がある。

慶長三年(一五九八)の「御検地水帳写、信州高井郡井上村ノ内中島村」(堀内六兵衛氏蔵)に「井上村ノ内中島村」とあり、井上村の枝村である。

中島村
なかじまむら

[現在地名]岐阜市東中島ひがしなかじま一―三丁目・芋島いもじま一―三丁目・手力町てぢからちよう長森東中島ながもりひがしなかじま

芋島村の南にあたり、南は羽栗はぐり平島へいじま(現羽島郡岐南町)。平坦な農村で、集落は南部にあり東西に分れる。慶長郷帳に村名がみえ、高三〇二石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳によれば高二九〇石余で幕府領。正保郷帳では田一九石余・畑二七〇石余。元和五年尾張藩領となり幕末に至る。明暦覚書によれば概高二四七石余、人数一三二、馬八。「濃陽志略」によれば、さかい川に伽藍がらん橋が架かり、芋島村に通じる。家数四五・人数一八〇、熊野権現とあがた明神がある。

中島村
なかしまむら

[現在地名]岡山市高松たかまつ

原古才はらこさい村の北に位置する。一帯は中世には高松(郷)と称された。永正五年(一五〇八)の吉備津宮秋季祭礼記録写(吉備津神社文書)によると、宝蔵前のこも敷は高松・庭瀬にわせの別当役であった。永正六年八月一三日、中島村久成名内の一五代が一貫二〇〇文で売却されている(「神主守治売券」同文書)。天正四年(一五七六)宝福ほうふく(現総社市)の寺領検地帳(宝福寺文書)によれば、高松郷内に一九貫文余の寺領があった。

中島村
なかじまむら

[現在地名]南国市岡豊おこう町中島

香長かちよう平野中央部にあり、土佐街道は当村内で東街道と北街道に分岐。村の北を国分こくぶ川が西流する。「土佐州郡志」は「東限小籠村常通寺島、西限布師田村、南限大津村、北限蒲原小野村、東西十二町許南北十三町余、自高知至甲浦大路、戸凡百九、伝云昔村東西有川故曰中島」と記す。また村内の小村として車之瀬・洲崎・留崎・高木・蔵之谷・瀑之宮・山畠・石之坪を記す。

延元二年(一三三七)八月一七日の懐良親王令旨(集古文書)にみえる「富崎別符」は当村域に比定され、この地の下司職を高野山堂衆に配分、知行すべきよう指示している。

中島村
なかじまむら

[現在地名]竜洋町中島

天竜川下流東岸に位置し、南は宮本みやもと村・高木たかぎ村、西は同川、北は赤池あかいけ(現豊田町)、東は下本郷しもほんごう(現同上)。天正一九年(一五九一)一一月二〇日の四拾七村惣高辻書上(横山家文書)に高木中嶋とみえ高一五八石余。慶長(一五九六―一六一五)初年高木村から分村して成立したと伝える(磐田郡誌)。正保郷帳に村名がみえ、田八一石余・畑一一八石余、蓮覚れんかく寺領三石。正保年間(一六四四―四八)仁兵衛にへえ新田(現豊田町)を分村したといい(遠江国風土記伝・遠淡海地志)、元禄郷帳では高三二三石余。同新田は同帳に中島村枝郷とみえ高一九石余。正保郷帳によると幕府領、国立史料館本元禄郷帳では旗本花房領、旧高旧領取調帳でも同じ。

中島村
なかじまむら

[現在地名]小田原市なか町一―三丁目・ひがし町一丁目

東北境を久野くの川下流の山王さんのう川が流れ、西に荻窪おぎくぼ村、南に小田原宿新宿しんしく町と接する。小田原衆所領役帳に宮川左近将監「卅貫文 西郡中島」とある。永禄一〇年(一五六七)六月二四日の北条氏康朱印状(県史三)に「中嶋郷懸銭、前々高辻百九十四文」とあり、宛先は「中嶋郷小代官 百姓中」、天正一五年(一五八七)七月晦日の北条家定書(同書)も「中嶋小代官 百姓中」に宛てられている。

近世は小田原藩領。

中島村
なかしまむら

[現在地名]久留米市大善寺町中津だいぜんじまちなかつ

荊津おどろつ村の西、筑後川とひろ(大善寺川)の下流に挟まれた低地に位置する。筑後川の対岸は肥前国三根みね天建寺てんけんじ(現佐賀県三根町)。集落は自然堤防上にある。文禄四年(一五九五)の知行目録に「なかしま村」とみえ、高二八六石余。同五年四月二八日、立花親成は三池親家に「安武之中嶋村」二九九石余などを与えており(「立花親成知行宛行状」三池家文書)、当地にあたるか。

中島村
なかじまむら

[現在地名]尾花沢市中島

押切おしきり村の南、丹生にゆう川支流赤井あかい川の左岸に位置する。元和八年(一六二二)山形藩領、寛永二〇年(一六四三)幕府領となり、安政二年(一八五五)からは松前藩預地。寛永一三年の保科氏領知目録に村名がみえ、高四一四石余。正保郷帳では田方三八〇石余・畑方三三石余。宝暦一一年(一七六一)の御巡見様御案内覚帳(二藤部文書)では高四一八石、家数二九・人数一一二、馬六。

中島村
なかしまむら

[現在地名]智頭町大呂おおろ

西野にしの村の東、北股きたまた川沿いに位置し、集落は同川左岸にある。枝村に池本いけもとがある。拝領高は六四石余。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高七〇石余、毛付高七七石余、本免六ツ一分、同年の物成高四五石余、ほかに藪役銀一三匁五分、山役銀二〇匁(西野村と共同負担)が課されていた。「因幡志」では家数二五。

中島村
なかしまむら

[現在地名]小野市三和町みわちよう

長町ながちよう村の北に位置し、加古川右岸と青野原あおのがはら台地の中間の沖積地に集落を形成する。領主の変遷は長町村に同じ。慶長国絵図に村名がみえるが、正保郷帳・元禄郷帳ともに村名はみえない。当時中島集落は長町村の一部で、万治二年(一六五九)に北の西森にしもり村とともに新たに検地を受け高分けされたという(藤本家文書)。同時期に作成されたと思われる中島村田畑名寄帳(梶本家文書)では高三八三石余・反別二八町一反余。明和二年(一七六五)の高四三五石余、うち無地高引四三石余・土砂入無土引三石余(「覚」同文書)。寛政一〇年(一七九八)の高三九一石余、家数四〇・人数一六六(「口上書」同文書)。産土神は上川原かみかはらに鎮座するすずみや神社。

中島村
なかじまむら

[現在地名]宮代町百間もんま 中島・道仏どうぶつ

百間村の東に位置し、古利根川右岸に沿う。同川の東対岸は葛飾郡堤根つつみね(現杉戸町)。天正一八年(一五九〇)島村出羽守宗明が開発して道仏村と称したが、元和五年(一六一九)の検地で中島村と改称、のち百間村のうちとなり、元禄八年(一六九五)同村から分立したという(風土記稿)。元禄郷帳に百間と肩書して村名がみえ、古くは道仏村と注記され高三一六石余、旗本池田領(国立史料館本元禄郷帳)

中島村
なかじまむら

[現在地名]川崎区中島一―三丁目・さかい町・富士見ふじみ一―二丁目

多摩川河口右岸に位置し、南は大島おおしま村、西は堀之内ほりのうち村に接し、東は大師河原だいしがわら村と村境が錯雑する。「風土記稿」は多摩川の寄洲を開墾し、しだいに村落をなしたと記すが、成立時期は不明。蟹田耕地かにだこうち野良新工のらあらく蒲原耕地かんばらこうち八幡下耕地はちまんしたこうちの小字がある。りよう用水の分流中島用水を利用。田園簿に村名がみえる。近世を通し幕府直轄領。延享四年(一七四七)の稲毛川崎用水通田反別堰々諸色人足一件(横浜市添田文書)によれば田二〇町余、畑一〇町三反余。

中島村
なかしまむら

[現在地名]東広島市高屋たかや町中島

杵原きねはら村の南にあり、入野にゆうの川とその支流杵原川の合流点一帯を村域とする。南部は宮領みやりよう村に属する白鳥しらとり山麓から延びる低丘陵が入野川近くまで迫り、平地は入野川北の杵原川沿いのほうが広い。桂保和に宛てた天文一二年(一五四三)六月二日付平賀弘保預ケ状(「譜録」所収桂保心家文書)にみえる「高屋之内実重名、同きやう免半分」は「芸藩通志」にみえる杵原川と入野川の合流点北岸の「さねしけ」、その西北方杵原川西岸の「京免」(経免)に比定される。

村高は元和五年(一六一九)には二八三・三八八石で(安芸国知行帳)、宝暦一〇年(一七六〇)五石余の新開が高付されて二八八・七八八石となった(明治三年「郷村高帳」広島大学蔵)

中島村
なかじまむら

[現在地名]茅ヶ崎市中島

相模川の河口にあり、西南の一隅に大住おおすみ須賀すか(現平塚市)の飛地に接し、東から南は古相模川(現小出川)を隔てて下町屋しもまちや村・柳島やなぎしま村に対し、北を東西に東海道が通る。

天正一九年(一五九一)旗本山岡景長への知行宛行状(県史八)に「八拾石四斗 中嶋之郷」とある。近世を通じ山岡領。山岡陣屋跡と伝えられる所をトノヤシキとよんでいる。天和三年(一六八三)大通行に際し当村にかかる東海道一九九間分の掃除・普請を課された(「東海道宿村道場間数高書帳」大和市史四)。相模川氾濫時にはたちまち家屋耕地を浸し、また古相模川には堤防もなく多年水災に苦しんだという(皇国地誌)。北の今宿いまじゆく村などとともに相模川川除堤普請役を勤めた(宝暦一二年「相模川川除普請仕様帳」茅ヶ崎市史一)

中島村
なかしまむら

[現在地名]矢部町島木しまぎ

北は北中島村、東ははる村に接し、南西に木鷺野きさぎの村がある。御船みふね川とその諸支流に沿って村落が散在する。南の間谷まんたに(八一二メートル)からは西は熊本平野と有明海を、東は宮崎県の山々を遠望できる。正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「なかしま」とみえ、貫高は七四貫。同一八年閏一月二五日の阿蘇社造営料木納帳(同文書)に「やへの中しまかう(島郷)」とみえ、虹梁一本を納めている。

慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属し正徳四年(一七一四)から一時期中島手永に属したが、のち旧に復した。南中島村とも称し、小村として「国誌」は嶺(峯)村・福良村・松ノ生村・小樫(柏)原村・暮瀬村・水増みずまさる村・小椎原村・白木谷村・布勢井村・栃木村・下津留村を記す。

中島村
なかじまむら

[現在地名]藤岡市中島

北境をからす川が東流し、中山道が村央を通り西部で北向する。東と南は立石たついし村、西は森新田もりしんでん村と阿久津あくつ(現高崎市)に接する。往古は烏川が南を流れ、古河川の中洲に位置したために村名が起こったという。永禄六年(一五六三)四月一二日に安中丹後守に与えられた地に「中嶋」があり(「北条氏照宛行状」市谷八幡神社文書)、同一〇年五月五日に中島の一貫二〇〇文が瀬下豊後守に与えられている(武田家朱印状写「上州瀬下氏由緒書」所収)

中島村
なかしまむら

[現在地名]熊本市中島町

白川河口近くの左岸低地にあり、南は山下やました村、西は沖新おきしん村に接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では「中嶋村 今新開村」と併記され、今新開村分を含んで田方六二町九反余・畠方四七町九反余、分米一千一〇七石三斗余とある。同一二年の検地帳は破損がはげしいが、田方は三七町三反余・四八石二斗余である。寛永一二年(一六三五)の地撫帳では今新開村が分出し、島五郎左衛門手永に属し、当竿前の田二二町九反余・畠六町八反余のほか、新潟畠の当竿前下々田二町一反余・畠二町六反余を記載する。その後池田手永に属し、宝暦一一年(一七六一)の下ケ名寄帳では惣畝数三五町二反余、うち御蔵納三四町四反余・新地六反余・諸開二反余で、ほかに「長岡左七郎殿御赦免開」の畑四町三反余があり、庄屋のほか頭百姓三・小百姓四二がいた。

中島村
なかしまむら

[現在地名]有田市下中島しもなかしま

たき村・滝川原たきがわら村の西に位置し、近世の保田やすだ庄五ヵ村のうち有田川北岸にある二ヵ村の一。「続風土記」に「古は在田川、村の北山の麓まて流れて此地は川原なりしに、後、川中の洲を開きて村居せしより村名起れり、其後終に北の方の流れ水絶えて山麓に続きて今の形とはなれり」とある。地名の示すとおり低地の溜水の停滞地として浸水の害が多かった。北部の山麓にある鳥垣内とりがいとから集落が発生し、低地の島の内しまのうち西向にしむかいなどへ水田耕作地を求めたのであろう。低湿地特有の屋敷を築きあげた住宅景観である。慶長検地高目録によれば村高四八七石余。

中島村
なかしまむら

[現在地名]山陽町中島・さくら丘西おかにし一―一〇丁目

すな川の支流十七じゆうしち川上流に位置し、日古木ひこぎ村と山を隔てて南の谷間にある。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)鳥取ととり庄に村名がみえる。寛永備前国絵図では高三〇九石余。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると慶長九年検地があり、高三四五石余。貞享元年の荒などを引いた残高三二四石余。享保六年(一七二一)には田畠二二町二反余、家数四四・人数二〇五、池八(備陽記)。同一〇年名主源十郎が、村方検見の際不正をしたとして処罰されている(藩法集)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると直高五二三石余、蔵入地と家臣五名の給地。

中島村
なかしまむら

[現在地名]大津町中島

下町しもまち村の東方、白川中流の左岸にあたる。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると、名請人二〇人(うち屋敷持八)、田はなく、畠(屋敷を含む)四〇町一反余、分米二六〇石二斗余。同一三年の検地帳では、人数五三・屋敷数一二・家数四六、牛馬一六、田二四町八反余・畠(屋敷を含む)一六町一反余、分米四二一石一斗余と記されている。寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳では下町組に属し、戸数一六・家数一二五、人数一一八(うち庄屋一・医者一)、牛馬五九、居百姓分の高四一五石一斗余、出作分の高五石九斗余である。その後合志郡大津手永に属した。宝暦八年(一七五八)の下ケ名寄帳では、給知三〇町五反七畝余・高四二六石三斗余、新地三反余、諸開七町五反余。

中島村
なかじまむら

[現在地名]鴨島町中島

三谷みたに川を挟んで森藤もりとう村の北に位置し、東は山路さんじ村、北東は内原うちばら村。慶長二年(一五九七)の分限帳では今田四郎右衛門知行分のうちに中島高九三石余、樋口分右衛門知行分のうち同高七五石がみえる。正保国絵図には中嶋村とあり高一六九石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳によると高一六九石余はすべて畠方であった。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高二〇一石余。旧高旧領取調帳では高一六石余が蔵入、残りの高一八九石余は村上猪八郎(八三石余)ら七名の知行であった。寛文六年には、村内の東原六反余と西原二反余が一反につき一匁五分の運上銀を支払うことで牛飼原となっている(「牛飼原運上納覚書」御大典記念民政資料)

中島村
なかしまむら

[現在地名]久世町中島

目木めき川と旭川の合流地点に位置し、北は鍋屋なべや村・台金屋だいかなや村・多田ただ村、南は平松ひらまつ(現落合町)、西は旭川を境にそう村・富尾とびのお村。目木川・旭川の氾濫によりしばしば流路が変化したものと考えられ、「作陽誌」には久世川(旭川)が流路を変えたため、当初真島ましま郡に属していたが大庭おおば郡に属することになったと記される。氏神も旭川対岸の惣の現八幡神社であった。出雲往来が通り、また大山往来も垂水たるみ(現落合町)から当村を経て久世村で出雲往来と合流した。

中島村
なかじまむら

[現在地名]婦中町中島

井田いだ川中流右岸に隣接し、北は余川よかわ村、東は浜子はまのこ村。当村は元鵜坂うさか(現在の神通川)の中流にあった中島で、浜子村の一部村民が住みつき村となったという(婦負郡志)。正保郷帳では余川村とともに上井沢かみいさわ村の内と記される。享保六年(一七二一)の高一一二石余(「村付高改帳」島倉家文書)。寛政二年(一七九〇)の古高一五一石余・定免四ツ八歩、新田高五七石余・平均免四歩八厘余、小物成は銀納林役二匁・川原役一二匁・鮎川役一三匁・鮭川役四匁・仕切川役二匁(高物成品々手鏡)。また河川氾濫による永引高が延宝七年(一六七九)から宝暦八年(一七五八)まで一〇回にわたって計一五一石ある(「富山藩高物成帳」斎藤家文書)

中島村
なかじまむら

[現在地名]尾西市小信中島このぶなかじま

西は小信村とおこし村に接する。小信中島村と称して小信村と合わせて一村とする扱い方もあるが、それぞれ近世中頃からは庄屋が存在する。概高三六一石八斗余。近世初頭に開かれた備前びぜん新田・山方やまかた新田・古川ふるかわ新田(これらの名称は小信村と同じ)、慶安元年(一六四八)の子新田、寛文二年(一六六二)の寅新田、同九年の酉新田、元禄六年(一六九三)の同所新田と開墾を進めてきた(天保村絵図)。寛文の頃の家数五五、人数三三六(寛文覚書)、天保村絵図では、家数一二四、人数五六〇で、我曾がそ仁井にいは枝郷。

中島村
なかのしまむら

[現在地名]滑川市中野島なかのしま

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇央部付近に位置し、西は中島新村、北は四ッ屋よつや村・曲淵まがりぶち村。中野島とも記す。正保郷帳では高八五石余、田方五町三反余・畑方三反余、新田高三三〇石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(小幡家文書)によると草高一一二石、免五ツ、小物成は野役一四匁・鮭役二匁・鱒役一匁、鮎川役一匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。所属組は上島かみじま村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は九左衛門、家数一一(百姓九・頭振二)。明和五年(一七六八)の家数一一(奥野家文書)

中島村
なかしまむら

[現在地名]筑後市島田しまだ

古島こじま村の北、花宗はなむね川左岸に位置する。中世は水田みずた庄のうち。室町期の大鳥居知行所領注文(太宰府天満宮文書/大宰府・太宰府天満宮史料一三)に「中嶋」とみえ、高良こうら山宝生院(現久留米市)が質に入れていた水田庄のうちほん村にあった当地一町を買取ったが、溝口氏によって押領されていた。文禄四年(一五九五)の知行方目録に「なか島村」とみえ、高二五〇石余。江戸時代の本高は三四一石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高四七〇石・役高三一四石。享和二年(一八〇二)の春免高帳によると高三一四石。

中島村
なかしまむら

[現在地名]米子市中島

車尾くずも村の北西にある。古くは同村の一部で、低湿地の中の微高地であったことから中島とよばれたという。また「伯耆志」は当村は日野川東岸のいま(現日吉津村)と一村であったが、日野川氾濫による水難をたびたび受けたので、寛文年中(一六六一―七三)現在地に移ったとする。また村開きの伝承によると、戦国末期播磨国から岸本きしもと(現岸本町)に逃れた別所長治の末子竹松丸が、成長して尾高おだか城主吉田肥前守の客分となり、尾高城廃城後帰農して当村を開いたという。さらに伊予の浪人古都玄覚夫妻が享保(一七一六―三六)頃車尾村と上福原かみふくばら村境の荒地開墾をしたとされ(古都家墓碑銘文)、村内開拓にはそのほか米子町の末次氏、上福原の堀尾氏一族も加わったという。

中島村
なかのしまむら

[現在地名]出雲市上島町かみしまちよう

斐伊川氾濫原中の数個の島であったと思われるが、水害に苦しみ、住民の大半は上之郷かみのごう村に、一部は出雲郡阿宮あぐ(現斐川町)に転住し、上之郷村内の山麓などに上之郷村民と混住していたという。万治元年(一六五八)出雲郡から神門かんど郡になる(「八雲栞」出雲大社蔵)。文久三年(一八六三)の絵図(県立図書館蔵)には中島村と上中島村の名がある。元禄十年出雲国郷帳では高四〇六石余、寛文四年(一六六四)の本田高三八六石余・新田高一六石余。「雲陽大数録」では中ノ島とあり、高二八〇石。宝暦四年(一七五四)の神門郡北方万指出帳(比布智神社文書)では田二五町七反・畑五町二反、家数四二・人数二七七、牛一五・馬七、木挽一・綿打一、威鉄砲一と記す。

中島村
なかじまむら

[現在地名]亀田かめだ郡七飯町字中島・字中野なかの・字豊田とよだ

近世から明治一二年(一八七九)まで存続した村。久根別くねべつ川の中流域にあり、西は函館平野に続く。安政年間(一八五四―六〇)大川おおかわ村に御手作場が作られ、慶応四年(一八六八)中島郷として一村立された(「箱館蝦夷地在勤中諸用留」など)。村名は箱館奉行の開拓係中島辰三郎の姓を採ったという。安政四年越後から岩崎恒右衛門らが入植して藍の栽培を始めた(函館支庁管内町村誌)。明治二年亀田郡に所属。同年九一万七千四五一坪がプロシア人ガルトネルの租借地に含まれたため、七重ななえ村などとともに屋敷地・田畑などの返却を嘆願している。

中島村
なかじまむら

[現在地名]上志比村中島

九頭竜くずりゆう川中流域の左岸に位置し、北は九頭竜川を挟んで、大野郡坂東島ばんどうじま(現勝山市)、南は竹原たけはら村。枝村として茶屋ちやや小島こじまがあった(越前国名蹟考)。慶長三年(一五九八)七月一三日付越前国吉田郡志比庄之内竹原村御検地帳(「上志比村史」所収)に「中島出作」とあり、隣村竹原村へ出作していたことがうかがえる。慶長一一年頃の越前国絵図では「志比上之庄」に含まれていたと思われる。正保郷帳によると田方一四九石余・畠方四五石余。正保二年(一六四五)福井藩領から松岡藩領となり、享保六年(一七二一)再び福井藩領となった。

中島村
なかしまむら

[現在地名]北野町中島

筑後川中流右岸、鳥巣とりす村の北東に位置し、北は千代島ちよじま村。文永一〇年(一二七三)六月一〇日の沙弥蓮種所領譲状(草野文書/鎌倉遺文一五)によれば、竹野たかの河北かわきた郷内の「中嶋」などが草野蓮種(永種)から養子の永平に譲られた。本高は一三五石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一〇〇石・役高一九六石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高二一四石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では畑田四町三反余(うち開畑田一町五反余)・畑一七町五反余・居屋敷二反余。

中島村
なかじまむら

[現在地名]三島市中島

大場だいば川と支流の御殿ごてん川に挟まれた地点に位置し、南端で両川が合流する。大場川に沿って北はなか村、同川の東対岸は大場村など。御殿川の西は梅名うめな村で、同川はこの辺りでは梅名川と名称を変える。中央を下田街道が南北に通る。中世中島郷の遺称地。古くは大場村のうちで、大場上村と称したともいう(増訂豆州志稿)。元禄郷帳によると高三一二石余。初め幕府領、宝永五年(一七〇八)相模荻野山中藩領となり幕末に至る(韮山町史)

中島村
なかしまむら

[現在地名]倉敷市中庄なかしよう 中島

別府べふ村の東に位置する。寛永五年(一六二八)庭瀬藩より分知の旗本戸川(早島)領となる(寛政重修諸家譜)。当初、中庄なかのしよう村と称していたが(寛永八年「徳川家光朱印状写」島村文書)、寛永備中国絵図では「中島村」とある。高五三〇石余。元禄一五年(一七〇二)戸川安貞は中島村のうち高四〇〇石を弟安通(藤十郎)に分知し、残る一三〇石は早島戸川領つじ村として独立(「寛政重修諸家譜」など)

中島村
なかしまむら

[現在地名]大分市皆春みなはる

乙津おとづ川が南から西に大きく曲流する左岸に位置する。北は鶴崎町、西は門田もんでん村。慶長一三年(一六〇八)の大分郡門田村之内中島村検地帳写(二巻本「大分市史」)があった。領主の変遷は門田村に同じ。正保郷帳では門田村に含まれ、元禄郷帳では中島村の高三七八石余。明治二年(一八六九)の本田高三七七石余・新田高一石余、竈数一一二・人数四九七(「竈数石高人別調帳」内藤家文書)。宝暦六年(一七五六)には高札二枚が設けられていた(「大分郡三拾弐ヶ村御高札員数書上帳」同文書)。天明三年(一七八三)紺屋二人が阿波徳島藩の商人から藍玉を購入しており(同文書)、文化九年(一八一二)の一揆に際して廃止されるまで紺屋職取締が置かれていた(「万覚書」同文書)

中島村
なかじまむら

[現在地名]宇都宮市中島町

北は東横田ひがしよこた村、東は砂田すなた村、西は上御田かみみた村と接する平坦地で、西部に川が南流する。村内山林に古墳群がある。江戸時代を通じて宇都宮藩領。慶安郷帳に田方二四九石余・畑方六六石とある。正徳年間(一七一一―一六)の宇都宮領村々諸割物高付覚帳(五月女久五文書)では藁縄干葉納高二五五石余、山家萱付馬人足勤青草等勤高三五二石余、堰川除人足往還馬勤高三六二石余。享保元年(一七一六)雀宮すずめのみや宿助郷高三二九石(「雀宮宿助郷帳」県立図書館蔵)

中島村
なかじまむら

[現在地名]岐阜市西中島にしなかじま

瓢箪形のしま輪中の底部にあたり、北島きたじま村・江口えぐち村の西、旦島だんのしま村の南にある。西端を長良古川、東端を両満りようまん川が南流し、川筋に沿って堤が築かれる。集落は本郷ほんごう新屋敷しんやしきがある。

慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳によれば高一七六石余。正保郷帳では畑一六四石余・菅野年貢一二石。

中島村
なかじまむら

[現在地名]池田町大字会染あいそめ 中島

現池田町中部の段丘上に位置し、堀之内ほりのうち半在家はんざいけ両集落に隣り合う。

中島村は江戸時代初頭は池田郷に属していたが、寛永一五年(一六三八)から同一九年の間に作られたとみられる信州松本御領分村々高附帳に「高四百四拾三石五斗六升六合 中島村」と初見されるが、集落の発生は古田の存在からみて非常に古いと判断される。

中島村では慶安三年(一六五〇)に松本藩の検地が施行されたが、その検地帳(矢口文左衛門氏蔵)によるとこの村の水田の石盛は上田二石二斗となっていて、池田町村に次いで高年貢率となっている。このことは、この地域の水田はいずれも耕土が深く、地味も豊かであることを示しており、中山なかやま山地から流下する沢水の利用によって段丘下に早くから水田が設けられたことと関連していよう。

中島村
なかじまむら

[現在地名]土佐町田井たい

東流するもり川が吉野川に合流する付近の北岸に位置する。南は森川を隔てて田井村。長岡郡に属し、本山もとやま郷の一。天正一七年(一五八九)の本山郷地検帳に「中島村」として一四筆みえるが、近世の当村にはさらに同帳記載の「カハノ村」「モハラノ村」などが含まれる。慶長八年(一六〇三)の本山一揆(滝山一揆)には当地方からも参加している(長岡郡本山町の→北山村。元禄地払帳では田井村と並記して記される。元禄郷帳によると当村の本田高五四石余。寛保郷帳では戸数六六、人口三一〇、馬一五、牛二〇、猟銃二。

中島村
なかじまむら

[現在地名]掛川市中西之谷なかにしのや

原野谷はらのや川の支流西之谷川の流域にあり、西は久居島ひさいじま村。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高一六石余。正保郷帳では田方一三石余・畑方二石余、掛川藩領。国立史料館本元禄郷帳でも同藩領。延享三年(一七四六)幕府領、明和五年(一七六八)掛川藩領となる(文政一二年御高等書留など)。旧高旧領取調帳では同藩領一九石余。前掲書留によると高一九石余(うち新田三石余)、毛付高一一石余の納辻米一六俵余・大豆二俵余、夫永として永銭三六文を納め、御用筒一・猟師鉄砲一・威鉄砲一があり、家数九は本家、人数四六。

中島村
なかじまむら

[現在地名]銚子市中島町

船木台ふなきだい村の南東にあり、三門みかど村境を高田たかだ川が流れる。天正一八年(一五九〇)松平伊昌領となり、年未詳の松平氏領書上(宮内家文書)では中島村一三九石余。元和三年(一六一七)の柑子木数帳(谷本家文書)では二良右衛門尉が柑子木一本を植えていた。寛永四年(一六二七)の知行宛行状では高一三九石が旗本松平領。

中島村
なかしまむら

[現在地名]福崎町南田原みなみたわら

長目ながめ村の東に位置し、いち川の左岸、西光寺さいこうじ野の河岸段丘上と段丘下に立地する。長目村との境には市川の旧流路の低地が残り、村の南東部を市川の支流ヤゴ川が流れる。神東じんとう郡に属した。中世は田原庄に含まれた。永正九年(一五一二)一〇月日の田原庄本所分段銭田数注文(九条家文書)に名主である中嶋の孫衛門と三郎兵衛の名がみえる。正応四年(一二九一)八月日の田原庄実検注進状(九条家文書)には庄内里寺一三ヵ寺の一つとして中嶋寺があり、その仏神田三反二〇代が除田とされている。

中島村
なかしまむら

[現在地名]倉敷市中島

水江みずえ村の南に位置し、すぐ東を東高梁ひがしたかはし川が流れる。永禄年間(一五五八―七〇)鬼の身きのみ城主上田氏の門葉澳伝次郎の拠った上河原城があり、また佐々木満経の四男満氏の末葉建部民部の拠った中大道城があった(備中誌)。元和元年(一六一五)頃と推定される二月九日の小堀政一書状(佐治文書)によると、対岸の四十瀬しじゆうせに堤を築いたために中島の堤が傷み、倉敷への高瀬舟の回航が困難視されていた。

中島村
なかじまむら

[現在地名]日置川町中嶋なかじま

北は神宮寺じんぐうじ村、南は尾根を、西は川を隔てて寺山てらやま村に、東は三舞みまい山をもって小川こがわ村と境を接する。「続風土記」に「古は川中の島なりし」と記される。慶長検地高目録によると村高四六石余、小物成二斗六升三合。周参見組に属し、「続風土記」によれば家数二五、人数九五。

中島村
なかしまむら

[現在地名]南光町中島

佐用郡に属し、下徳久しもとくさ村の南西、千種ちくさ川に志文しぶみ川が合流する地点に位置する。千種川の西岸に中島・那手なでの二集落がある。慶長国絵図に中島村とみえる。江戸期の領主の変遷は林崎はやしさき村に同じ。正保郷帳では田方三二四石余・畠方一五二石余、旱損所、芝山有、小松はへ有と注記される。元禄郷帳では高四六一石余。天保郷帳では高四七五石余。天保九年(一八三八)の庄屋手帳(間嶋家文書)によれば家数七五・人数三二九、牛三九。

中島村
なかじまむら

[現在地名]大井川町中島

下江富しもえどめ村・西島にしじま村の南に位置し、大井川左岸に立地する。同川対岸は川尻かわしり(現吉田町)、南東は飯淵はぶち村。文禄二年検地高目録に飯淵中島村とみえ、高七四三石。正保郷帳では田方三一八石余・畑方三七石余、幕府領、ほかに盤石ばんじやく(盤石寺)領四石余がある。元禄郷帳では高五八〇石余、幕府領(国立史料館本元禄郷帳)。以後村高は幕末まで変わらない。

中島村
なかじまむら

[現在地名]藤崎町中島

東は柏木かしわぎ堰を境にさかき(現常盤村)、西は小畑こばた村、北は柏木堰かしわぎぜき村に接する。村の中央を羽州街道が通る。

貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、田方八六町四反一〇歩、畑方三町八反六畝一五歩、田畑屋敷合せて九〇町二反六畝二五歩、村高九〇八・一三三石とある。「平山日記」元禄三年(一六九〇)に「中崎村」とあるのが当村と思われ、常盤組に属し、村位は上とある。

中島村
なかしまむら

[現在地名]岡山市中島・八幡東町やはたひがしまち

八幡村の西、南流する旭川の東岸に位置し、百間ひやつけん川の取入口左岸にあたる。伝承によると、当地はかつて旭川の中洲で、地名もこれにちなむという。寛永備前国絵図では高二九五石余。「備前記」によると平場にある川端の集落で、西に百間川荒手口がある。洪水時には、旭川の水は荒手(仮堤)を乗越え、百間川に流入放水される。旭川に架かる城下きよう橋の上の雁木は、この荒手の高さより一尺ほど高く設定されている。「備陽記」では田畑二三町七反余、家数四九・人数二八四。

中島村
なかじまむら

[現在地名]龍ケ崎市南中島みなみなかじま

牛久うしく沼から流出する江川えがわ用水に沿う低地の村落で、北は若柴わかしば村、南は河原代かわらしろ村に接し、下総国相馬郡との境にあたる。「新編常陸国誌」には「若柴村ニ隣接シテ、旧其属地ナリシガ、正保、元禄ノ間、分レテ一村トナル」とあり、成立は小貝こかい川の流路変更が行われた寛永年間(一六二四―四四)以後で、村名も中洲の形成に由来すると思われる。

中島村
なかじまむら

[現在地名]いわき市四倉町中島よつくらまちなかじま

白岩しらいわ川が仁井田にいだ川に合流する地点から北方に延び、東と北は白岩村、南と西は玉山たまやま村。磐城郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から延享四年(一七四七)幕府領、寛延二年(一七四九)常陸笠間藩領、安永六年(一七七七)幕府領、翌七年磐城平藩預、寛政二年(一七九〇)以降笠間藩領。

中島村
なかじまむら

[現在地名]会津若松市門田町面川もんでんまちおもがわ

阿賀川東岸に位置し、東は面川村、北は花坂はなさか村。南五町一七間に端村荒屋敷あらやしきがある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では大沼郡のうちに記され、高一三〇石余。南青木組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高二一〇石余。

中島村
なかじまむら

[現在地名]東村西代につしろ

利根川左岸の低地にあり、北は西代村。慶長五年(一六〇〇)飯島いいじま(現千葉県佐原市)の百姓が移住して開かれた地と伝え、十六島じゆうろくしまの一で上新島かみしんしま六ヵ村のなかにあった(佐原市史)。元禄郷帳には無高とあるが、天保郷帳では五二石余に増加する。

中島村
なかじまむら

[現在地名]一宮町豊津とよつ

三河一宮の砥鹿とが神社の真東にあたる。東から南に井之島いのしま村が隣接する。本宮ほんぐう山南山麓の段丘下の低地帯にある。近世は、寛永八年(一六三一)までは幕府領であったが、以後明治に至るまで吉田藩領であった。ただし藩主小笠原長矩の時の寛文三年(一六六三)から元禄九年(一六九六)までの間、藩主の弟外記長秋に分知されていた。

中島村
なかじまむら

[現在地名]鶴来町中島町

手取川右岸、白山しらやま村の南に位置し、集落は同川河岸段丘上にある。仮名付帳は「なかしま」と訓ずる。かつて広瀬ひろせ村と称したが、対岸の能美のみ郡広瀬村(現鳥越村)との混同を避け、中島村と改称したと伝える(加賀志徴)。正保郷帳に村名がみえ高一七八石余、田方六町三反・畑方五町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一八八石、免四ツ二歩、小物成は山役九二匁・川役一六匁(三箇国高物成帳)

中島村
なかじまむら

[現在地名]浦和市中島一―四丁目・南元宿みなみもとじゆく二丁目・山久保やまくぼ一丁目・中島

千駄せんだ村の東に位置する。大宮台地与野支台の西縁にあたる台地上とその直下の荒川の沖積低地からなる。田園簿では田一八一石余・畑七〇石余で、旗本水野領。以後領主の変遷は西蓮寺さいれんじ村に同じと考えられる。

中島村
なかしまむら

[現在地名]吉備町上中島かみなかしま

長田ながた村の西、有田川の南岸に位置する。旧有田川の中洲を開発したものであろう。慶長検地高目録によれば村高四七一石余、小物成一升五合。田殿組に属し、「続風土記」は家数七〇、人数三二九、社寺として王子社、教蓮きようれん(浄土真宗本願寺派)・講場(浄土真宗西派若山鷺森御坊掛所)を記す。明治八年(一八七五)の村誌(和歌山県立図書館蔵)によれば戸数八一(うち寺二)、人数三四八(男一八六・女一六二)、牝牛三三、川舟四艘(一〇石積)

中島村
なかじまむら

[現在地名]加賀市中島町

柴山しばやま潟に注ぐ動橋いぶりはし川河口両岸にわたる村で、川沿いに上中島・下中島・西手にしての三集落を形成。動橋川の三角洲地帯で、堆積によってできた「川田」の開発によりしだいに耕地を増加させてきた。正保郷帳では高一千一一四石余、田方六〇町一反余・畑方七町七反余、物成高四九〇石余、ほかに新田高一三八石余(物成高四一石余)、田方八町一反余・畑方三畝余。「江沼志稿」では高一千三二四石余、小物成は潟役一〇八匁・船役五五匁・葭役一九匁、家数七八・人数二一七、馬一三、川船一一、潟役・船役は農閑期の柴山潟での漁業に対するもの。

中島村
なかじまむら

[現在地名]伊奈村中島

上嶋かみじま村の南に所在。近世に入って新開され、古くは弥之介やのすけ新田といった。享保三年(一七一八)に土浦藩土屋氏領(谷原下郷組)となり廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)の村高は二二六・四一一石。

中島村
なかしまむら

[現在地名]中村区中島町

大秋おおあき村の東にある。「寛文覚書」には枝郷大和田が記されているが、大和田は江戸後期には廃村となった(尾張志)。集落中央に真宗大谷派の覚円かくえん(現則武本通二丁目)があり、「尾張志」「尾張名所図会」には、この本尊の裏書に「明応六二月尾州愛知郡大脇郷中島」とあると記している。寛文一一年(一六七一)の家数二〇、人数一二二(寛文覚書)

中島村
なかじまむら

[現在地名]上越市東中島ひがしなかじま

千原ちはら村の飯田いいだ川対岸にある。吉野よしの道が通る。正保国絵図によると高八四〇石余。天和三年郷帳では八六四石六斗余、うち漆高四斗九升、このほか新田高九八石九斗余。近世末には高田藩預所。郷蔵があり、文政五年(一八二二)の蔵米点検書上控(上越市教育委員会蔵)によれば米四五一俵を収蔵していた。

中島村
なかじまむら

[現在地名]橋本市隅田すだ町中島

霜草しもくさ村の南、紀ノ川右岸の河岸段丘上平坦地にあり、高橋たかはし川が流れる。隅田八幡宮の南西に開け、条里地割が残る。中世は隅田庄に属し、応永二八年(一四二一)の交名写(葛原家文書)に「なかしま」の「とうちやう」の名がみえる。慶長検地高目録による村高四六七石余、小物成六斗九升三合。

中島村
なかじまむら

[現在地名]豊田市畝部東うねべひがし上中島かみなかじま

矢作川に架かる天神橋の北にあり、東名高速道路が矢作川を横切る地点の南に位置する。明治初年上中島村と改称。近世を通じて岡崎藩領であった。近世上野雑抄によると、明和九年(一七七二)には、上野手永の大庄屋に当村幸助が就任している。字石蔵いしくらの浄土宗薬王やくおう院は、創建年代は不明であるが、もと真言宗で、文禄年中(一五九二―九六)成田氏により再興されたと伝える。

中島村
なかじまむら

[現在地名]高崎市中島町

利根川右岸崖際に位置し、東は板井いたい(現佐波郡玉村町)、南は滝新田たきしんでん村。群馬郡に属し、元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)では総社領に村名がみえる(高崎藩領)。高二五〇石余、田方六町八反余・畑方二二町八反余。江戸後期の御改革組合村高帳では幕府領で、家数三三。寛保二年(一七四二)八月の大洪水被害記事(須賀文書)によると、当村の田畑は残らず川砂が入り、民家は三分の一ほど残して流失、七、八〇人、馬二、三〇疋が死んだ。

中島村
なかじまむら

[現在地名]東村中島

新利根川左岸に成立した新田村で、北は幸田こうだ村、南は脇川わきがわ村。江戸時代は天領で、元禄郷帳の村高は二三石余。天保郷帳では四四石余に増加し、幕末の村高は三七石余(各村旧高簿)。「新編常陸国誌」によれば、東西八町三〇間・南北六町四間・周囲二一町一間。

中島村
なかじまむら

[現在地名]吉川町中島

皿沼さらぬま村の南に位置し、村の東西を大場おおば川が流れる。慶長一九年(一六一四)に開墾されたといわれ、村内を下総国流山方面に向かう往来が通る。田園簿に村名がみえ、田高四九八石余・畑高三八石余で、ほかに野銭永四六文があり、幕府領。

中島村
なかじまむら

[現在地名]羽黒町後田うしろだ

狩谷野目かりやのめ村の南にあり、東方に大きく蛇行する黒瀬くろせ川の両岸に集落が発達。正保郷帳に村名がみえ、田高二一四石余・畑高二五石余。弍郡詳記では高二二九石余、免四ツ四分七厘、家数一八、小名として上・下・向が載る。

中島村
なかじまむら

[現在地名]安来市飯梨町いいなしちよう

岩舟いわふね村の東に位置し、東は飯梨川に限られる。通説では「出雲国風土記」大原郡条に「飯梨郷 本の字は云成」とあり、「郡家の東南三十二里なり。大国魂命、天降り坐しし時、此処に当りて御膳食し給ひき。故、飯成と云ふ。神亀三年に、字を飯梨と改む」と説明される飯梨郷の地といわれ、云成・飯成については云成がいちばん古い表記かとされる。正保国絵図・「雲陽大数録」に村名がみえ、「郡村誌」によると田五二町八反余・畑五町九反余・宅地二町七反余・山林三五町二反余、戸数七二・人数三四二、牛三三・馬二、船(三間未満)一、人力車一・荷車一。

中島村
なかしまむら

[現在地名]津山市中島

北を吉井川が流れ南に嵯峨さが(二八八・八メートル)がそびえる。元禄一一年(一六九八)以後も津山藩領。正保郷帳では田方二三八石余・畑方一三〇石、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では四六九石余、うち改出高九一石余・開高九石余。寛政元年(一七八九)津山領郡村高帳では本田畑四五九石余・新田畑九石余・新開田畑二石余。

中島村
なかじまむら

[現在地名]大治町中島

西は西条にしじよう村、東は花常はなつね村に接し、現在はこれら三ヵ村の境の判別がつかないほどである。「尾張志」に「馬島の西の方、名古屋の二里半余西也。和名抄に海部郡中島と見え、民部省図帳に海部郡中島庄公穀八百九十三束有余、仮粟四百七十三丸と記したる御地也」とある。「徇行記」によれば、概高一四五石余はすべて藩士三人の給知で、田は七町六反余、畑は一町八反七畝余。

中島村
なかじまむら

[現在地名]三木市口吉川町大島くちよかわちようおおしま

大殿林おおとのばやし村の北東に位置し、北西は笹原ささはら村。正保郷帳に村名がみえ、田方二〇九石余・畑方一三石余。元禄郷帳・天保郷帳ではともに高二七六石余。領主の変遷は大柿おおがき村と同じ。

中島村
なかじまむら

[現在地名]村松町中島

大口おおくち村の南、滝谷たきや川が低地に入る辺りに立地。西は別所べつしよ村。正保国絵図および元禄一一年(一六九八)の村松藩内図(村松町役場蔵)によると、この頃滝谷川は当村の北西において二つに分流し、一は北西に、一は北東に流れて大口村がその三差路にあたっていた。

中島村
なかじまむら

[現在地名]越谷市中島

増森ましもり村の東、古利根川と元荒川の合流する出洲の地に立地。当地から天正二年(一五七四)在銘の板碑が発見されている。田園簿に村名がみえ、高は田方八石余・畑方一六一石余。幕府領で以後幕末に至る。

中島村
なかじまむら

松山まつやま村と当村を併せて松山中島まつやまなかじまとよばれた木曾川沿いの小村。太閤検地での村高は五二石余だったが、御国検で一一石余に規定された。正保三年(一六四六)の木曾川付替えで八石余が禿引となり、わずか三石余が横井作左衛門の給知。

中島村
なかじまむら

[現在地名]富士市中島

潤井うるい川の右岸、平垣へいがき村の北に位置する。加島かじま新田村の一つ。延宝七年(一六七九)の加島領郷帳(須津文書)に中島村加島新田とみえ、高二三七石余、反別三〇町余、年貢米一二六石余。

中島村
なかじまむら

[現在地名]小国町中島

越中里えつちゆうざと村の北、あら川右岸、支流折戸おりと川との合流点付近の平坦地にある。正保郷帳に村名がみえ、田高一九石余・畑高五石余。上杉領村目録によると高八六石余、本免一ツ二分二厘一毛余。

中島村
なかしまむら

[現在地名]一宮市北方きたがた中島なかしま

木曾川の東側にあって、北・東・西の三方を北方村に囲まれ、宮田用水の恩恵にあずかる中型農村。天保村絵図では概高三五七石余は藩士四人の給知、ほかに一二石弱の新田高はすべて蔵入高。

中島村
なかじまむら

[現在地名]福井市安波賀あばが中島町

足羽あすわ川左岸、安波賀村の北に隣する。村名は正保郷帳にみえ、田方八五石余・畠方八九石余。福井藩領で、文政六年(一八二三)給人地方渡名寄帳によれば、狛杢の知行所。

中島村
なかしまむら

[現在地名]小松島市日開野町ひがいのちよう

日開野村のうちで、同村西部にあたる。慶長年間(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「中嶋」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「中嶋村」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中島村」の意味・わかりやすい解説

中島〔村〕
なかじま

福島県南部,白河市の東方にある村。 1955年吉子川 (よしこがわ) 村と滑津 (なめづ) 村が合体して成立。阿武隈川上流部の白河盆地を占め,米作と野菜の栽培が盛ん。ほかに緑化木の生産が行われる。面積 18.92km2。人口 4885(2020)。

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