海上郡(読み)かいじようぐん

日本歴史地名大系 「海上郡」の解説

海上郡
かいじようぐん

面積:四六・八一平方キロ
海上うなかみ町・飯岡いいおか

千葉県域の北東部に位置する。旧郡域は三方を水域に囲まれ、西は香取郡、南は匝瑳そうさ郡と接していた。郡名に異表記はないが、菟上の例がみえる。「万葉集」巻一四および「和名抄」東急本などでは宇奈加美の訓を付し、「和名抄」名博本や「延喜式」民部省、「拾芥抄」ではウナカミと訓じている。「寛政重修諸家譜」でも「うなかみ」で、昭和三〇年代まではウナカミとしていたが、それ以後にカイジョウとするようになった。江戸時代の郡域は現海上郡二ヵ町と銚子市・旭市であるが、古代より中世までは佐原市、香取郡小見川おみがわ町・山田やまだ町・干潟ひかた町・東庄とうのしよう町・栗源くりもと町にわたる広域の郡であった。

〔古代〕

北方常陸国に広がるながれ(のちの霞ヶ浦など)と連なる海上潟(「万葉集」巻一四)があり、西は香取海で、東には太平洋に開く安是あぜ湖が続いていた。律令期以前、当郡域と香取郡・匝瑳郡を含む下総東部地域は「古事記」「国造本紀」に記す下海上国造の領域に含まれていたとみられ、拠点的にある大型前方後円墳がその実在を裏付けている。四世紀代の大型古墳は内陸部に多いが、五世紀代には中心的勢力は利根川沿岸に集約し、五世紀前半に一之分目いちのわけめ古墳(小見川町)、五世紀中葉に流域最大規模の三之分目大塚山さんのわけめおおつかやま古墳(同上)が造営され、下海上国の原形ともいうべき広域に君臨する首長勢力が誕生したと考えられる。のち中小規模の前方後円墳が分散的に造営され、六世紀中葉―後半には城山じようやま一号墳(小見川町)御前鬼塚ごぜんきづか古墳(干潟町)などの中型・大型前方後円墳が造営されている。古墳後期には強大な首長勢力が一ヵ所に集中・継続することなく、しだいに拡散していったかのようである。

下海上国造に対してのちの上総国域に上海上国造がおり、この両者の緊密な関係を想定し、海上首長連合、称して大海上国ともいうべき時代があったが、武社国造や印波国造などによって、上海上と下海上に分断されたという説が出されており、武蔵の豪族との同族関係をも想定したもので、海運を生かした勢力であったとする。「万葉集」巻九に「牡牛の 三宅のみやけのうらに さし向ふ 鹿島の崎に」とある三宅は「和名抄」の下総国海上郡三宅郷(現銚子市三宅を遺称地とする)と考えられ、「海上の その津を指して 君が漕ぎ行かば」とあるように津が置かれていたことが知られる。平城宮跡出土木簡に海上郡酢水浦とみえ、贄として若海藻を貢納しているが、これは海上国造の貢進の伝統であったとされる。

海上郡
うなかみぐん

上総国の西部に置かれた古代以来の郡。近世は市原郡。北西は江戸湾に臨み、南西は望陀もうだ郡、北東は市原郡と接する。郡名に異表記はない。「万葉集」巻一四および「和名抄」東急本などでは宇奈加美の訓を付し、同書名博本・「延喜式」民部省および「拾芥抄」ではウナカミの訓を付すが、「拾芥抄」はアマカミとも読んでいる。古代の郡域は現市原市南西部、養老ようろう川左岸の地域であった。

律令期以前の当郡域は「国造本紀」に記す上海上国造の領域に比定することができ、下流域の姉崎あねさき古墳群を中心に、流域には多数の古墳群の分布が認められる。弥生時代以来、大規模集落・方形周溝墓群の形成が流域の幾多の遺跡において認められるが、三世紀中頃、前方後円墳の原初的形態を示す惣社の神門そうじやのごうど古墳群が造営され、東京湾沿岸諸地域のなかでも先進的に古墳時代社会への移行を示す。四世紀代には姉崎天神山てんじんやま古墳・今富塚山いまどみつかやま古墳といった房総最大級の前期古墳が築造され、傑出した首長勢力の存在がうかがわれる。姉崎地区ではその後、釈迦山しやかやま古墳を経て、五世紀中葉に二子塚ふたごづか古墳が築かれ、小糸こいと川・小櫃おびつ川の勢力と肩を並べて流域全体を統括する上海上国の首長領域が形成されたとみられるが、六世紀前半には姉崎地区に山王山さんのうやま古墳、中流域の江子田えごだ金環塚きんかんづか古墳が築かれ、下・中流域で勢力が分立的となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android