代官町(読み)だいかんちよう

日本歴史地名大系 「代官町」の解説

代官町
だいかんちよう

[現在地名]千代田区北の丸公園きたのまるこうえん

明治一二年(一八七九)に成立。かつての江戸城郭内北ノ丸で、吹上ふきあげ御苑北部、千鳥ちどりヶ淵・うしヶ淵・清水しみず堀が巡り、北の田安たやす門、東の清水門・竹橋たけばし門で郭外へ通じる。町名は江戸時代の通称(元治元年改正尾張屋版切絵図など)。別本慶長江戸図にはすでに「御番衆」とある。大永四年(一五二四)太田道灌が当地に起立した平河山法恩ほうおん寺が慶長一一年(一六〇六)に神田へ移り(のち本所に移転)、同年に周囲の堀普請が完了、徳川家譜代家臣のほか、証人屋敷も配された(慶長江戸絵図など)。寛永期(一六二四―四四)になると徳川忠長や天樹院(徳川秀忠女千姫)英勝院(徳川家康側室勝)・春日局ら徳川将軍家ゆかりの人物の屋敷も多くなり(寛永江戸図)、天樹院はこの居所から「北之丸様」と呼称された。徳川忠長屋敷は寛永八年の改易後幕府御蔵となる。慶安二年(一六四九)には竹橋御門内が松平長松(のちの徳川綱重)上屋敷(竹橋御殿)となる。明暦の大火で一帯が全焼し、元禄一一年(一六九八)までに全屋敷が郭外に移転した。

代官町
だいかんちよう

[現在地名]小田原市ほん町三―四丁目

千度小路せんどこうじの西、本町の南、東海道に並行する脇町。南は海に臨む。戦国時代は代官小路と称し、天正二〇年(一五九二)六月の加加爪政尚書状(相州古文書)に「蘆河屋敷之儀、代官小路九間廿間、此年貢弐百五十文」とあり、芦川半左衛門の屋敷があったことを伝える。

貞享二年(一六八五)の小田原町明細書上(県史九)には代官町と記され、魚座商人二九がおり、小田原宿の魚座名主も居住、また宿場町として本人足役七人分を魚座以外の家持町人が負担した。

代官町
だいかんちよう

[現在地名]弘前市代官町

城下の南東のはずれに位置し、土手どて町から和徳わつとく町に至る道筋の町並。西は植田うえだ町・みどり町・北瓦きたかわらケ町・上瓦かみかわらケ町に接する。

寛文一三年(一六七三)の弘前中惣屋敷絵図(市立弘前図書館蔵)では、不完全ながら現町域が屋敷割され、和徳派わつとくはたち町とあり、四六軒の屋敷、うち空家一で、すべて町屋。町の南側に行人光海の屋敷があり、これは後の万能ばんのう寺である。

代官町
だいかんちよう

[現在地名]宇都宮市大寛だいかん一―二丁目・西大寛にしだいかん一―二丁目・材木町ざいもくちようさくら一丁目・同三丁目・操町みさおちよう西原にしはら一丁目

城下西端に置かれた武家屋敷地で、西は西原村、南は伊賀いが町、東は挽路ひきじ町・材木町。武家地のため正式な町名はなく、代官町は町方からみた通称。近世初期、宇都宮藩は代官の屋敷を西原村のうちに設け、周囲に下級武士の屋敷を置いた。松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)では、日光街道西側に御代官町とみえ、その西側に御細工人町・御歩行町などがあり、その西側の西原村境に生田九兵衛組などの組屋敷が並ぶ。

代官町
だいかんちよう

[現在地名]館林市代官町

館林城下の北西、東を日光脇往還、南を太田往還(現県道足利―館林線)、北西付近は館林城の外堀で囲まれた一画にある。「館林寛文地方要録」(館林市立図書館蔵)には、徳川綱吉時代の館林藩代官として諸星伝左衛門以下八名が記される。延宝二年(一六七四)の城下町図によると、当町の東端付近に代官諸星をはじめ稲葉平右衛門・石黒小右衛門・笠原七郎兵衛らの屋敷地、その西には地方手代屋敷、さらにその西に接して城代金田遠江守正勝の下屋敷がある。天和三年(一六八三)には館林藩領は上知された。「館林御城地根記」(館林市立図書館蔵)によると、かつての館林藩の代官が幕府代官として館林におり、宝永四年(一七〇七)比企長兵衛が新城主松平(越智)清武に城地を引継ぐまで代官が当町に居住した。

代官町
だいかんまち

[現在地名]米沢市城西じようせい三丁目

館山口たてやまぐち町の北、同町東端から三の丸堀沿いに北に延びる南北道の西片側町。三の丸外だが上級家臣が配置されていた。堀の向いは鷹匠たかしよう町・関東かんとう町。文化八年(一八一一)の城下絵図では重臣春日与十郎ほかの屋敷がみえる。享保一〇年(一七二五)の城下書上によれば町の長さ二町二六間・道幅三間余・屋敷数五。

代官町
だいかんまち

[現在地名]甲府市相生あいおい二丁目

佐渡さど町の西に並行する南北通りの郭外武家地。北は片羽かたば町二丁目、南は光沢こうたく寺。町名は元禄三年(一六九〇)の甲府町絵図写(坂田家文書)にみえ、甲府藩の時代には代官ほか諸士の屋敷が並んだ(甲陽柳秘録)。「裏見寒話」によれば、延享五年(一七四八)春甲州川除御普請御手伝が行われた際、御普請方として井沢惣兵衛支配の役人一〇人余が当町に役所を構えたという。

代官町
だいかんまち

[現在地名]鶴岡市泉町いずみまち

新山下しんざんしたから西に延びる郭外の家中屋敷地。西端はうち川と溜池を結ぶ三の丸の堀で、代官町口木戸を経て郭内馬場ばば町へ通じる。北裏は水田となっている。長さ一八〇間(元禄九年城下大絵図)。延宝六年(一六七八)の城下絵図に代官町とみえ、同年の御家中仮名付(鶏肋編)では郡代六〇〇石高力忠兵衛・普請奉行二五〇石池野金右衛門・寺社奉行二〇〇石小黒七左衛門など一三名の屋敷があった。

代官町
だいかんちよう

[現在地名]東区竪代官たてだいかん町・横代官よこだいかん

尾張志」に「九十軒町の東のつづき、建中寺の西までを竪代官町といひ、萱屋町の東の縦町を横代官町といふ。当町は、東西の街を本とし、南北の街を枝町とする故に、竪横の称、他町とは違へり」とあるように、縦・横の二部に分れ、後者は前者の南に続いていた。

代官町
だいかんちよう

[現在地名]水戸市城東じようとう二丁目

荒神あらがみ町から新寺しんてら町に通ずる町。西はさんノ町。元禄三年(一六九〇)元加藤四郎衛前から矢野九郎衛門前までを代官町と名付けた。「水府地名考」に「元ト矢野九郎衛門住す九郎衛門祖は寛永の比代官職を勤めたれは其余同職のものを此処に置れしにや元禄の命もかゝる事と思ハるゝ也」とある。

代官町
だいかんちよう

[現在地名]館林市城町しろまち大手町おおてまち

城大手門内南東にあり、大名だいみよう小路と鷹匠たかじよう町の間にある。館林城下には町地にも代官町があり、同町は元代官町ともよばれた。武家地内の当町は、太田資晴転封後の享保一九年(一七三四)から元文五年(一七四〇)までの幕府領当時に代官屋敷が置かれたところと伝える。

代官町
だいかんちよう

[現在地名]長野市松代町代官町

城下町の南にあり、馬場町と平行する。酒井忠勝が城主の頃(一六一八―二二)この町は山田町といい「ヨウダ町」とも称したという。真田氏時代になり八人の代官が居住していたので代官町といわれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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