武家屋敷(読み)ぶけやしき

精選版 日本国語大辞典 「武家屋敷」の意味・読み・例文・類語

ぶけ‐やしき【武家屋敷】

〘名〙 武士が主君から賜わって住んだ屋敷。江戸時代には上屋敷下屋敷中屋敷、添屋敷、倉屋敷などの区分があった。
※政談(1727頃)一「武家屋鋪も町方の如く一町々々に木戸を付け」

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デジタル大辞泉 「武家屋敷」の意味・読み・例文・類語

ぶけ‐やしき【武家屋敷】

戦国時代以後、城下町で武士が主君から与えられて住んだ屋敷。

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日本歴史地名大系 「武家屋敷」の解説

武家屋敷
ぶけやしき

東向きの鹿児島城の前面に島津氏一族の屋敷および鹿児島藩の諸役所が配され、それを中心にして北側に中世以来の古い士屋敷、南側に鹿児島城の築城とともに新設された士屋敷が広がる。それはあたかも鶴が翼を広げた観がある。城の背後のしろ山とそれに続く丘陵草牟田そうむたなどにも道筋に沿って士屋敷があり、人口の増加に伴い甲突こうつき川右岸へも広がっていった。本丸と二の丸との境から北側をかみまたは上方かみほう(上方限)、南側をしも下方しもほう(下方限)あるいは川内かわうち、甲突川右岸の地域を川外かわそと(西田方限)とよぶ(天保城下絵図)。「薩摩風土記」に「町ハ三分、武家ハ七分」と記されるように、町人に比較して圧倒的に武士が多かった。寛永一三年(一六三六)の薩州鹿児島衆中屋敷検地帳(旧記雑録)では上・下・西田に分けられ、さらに御城内おじようない(内訳は東福・御城内并新勝院)を別建てにする。

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改訂新版 世界大百科事典 「武家屋敷」の意味・わかりやすい解説

武家屋敷 (ぶけやしき)

近世の城下町などで,武士の住まう住宅と家囲いに与えられた呼称だが,この言葉自体は近世の身分制度廃止後に使われるようになった。江戸時代の城下町には,武家屋敷と町屋敷があり,武家屋敷は,幕府や藩から身分や石高によって給地されるものであった。江戸では大名と旗本,御家人に給地され,陪臣には与えられなかった。また用途によって拝領居屋敷,中屋敷,下屋敷,抱屋敷といった類別もされた。拝領居屋敷は幕府から公給される屋敷で,上屋敷ともよばれる。中屋敷,下屋敷は願い出て入手する屋敷で,抱屋敷は陪臣や奉公人を住まわすための屋敷である。そのほか,幕閣の役向きによって使用できる役屋敷があった。各藩の城下でも江戸と似通った構成を取っていたものと考えられる。大坂には特殊な屋敷として,蔵屋敷が置かれていた。

 武家屋敷は住宅と家囲いで構成され,大名の上屋敷(江戸屋敷)の場合は藩主の公式の住宅であるから,国許(くにもと)の御殿同様に表御殿,中奥,奥御殿を備えている。表御殿には謁見のための大書院(江戸時代初期までは大広間)や玄関,式台,あるいは家臣の詰める部屋などがある。中奥は藩主の居間と執務の場,奥御殿は藩主の妻子などの生活の場である。国許の御殿と違うのは家囲いで,敷地の外周に長屋を建て,国許から詰めてくる家臣や奉公人の住宅に当てた。江戸初期までは表門に櫓門を構え,派手な彫物を飾るなど,華美を競ったが,幕府の倹約方針に従って江戸中期以後は,3間または5間の平棟門を構えるようになる。中屋敷や下屋敷は上屋敷の堅苦しさを避けるため設けられたもので,家族はだんだんこちらに住むようになる。侍衆の屋敷になると,住込みの家臣や奉公人が少ないところから,長屋のかわりに塀を設けるなど家囲いも簡略なものになり,住宅も,書院を中心にした表構えと家族の生活のための奥構えといった,小ぢんまりとした規模になり,門も1間の棟門になる。

 地方の城下町になると,武士はみな居屋敷を拝領しているので屋敷内にたくさんの長屋を建てる必要はなく,家囲いも土塀や板塀あるいは生垣などを用い,門も長屋門や薬医門あるいは貫門などを使うことが多い。敷地の広さに比べて住宅の規模はあまり大きくなく,上層農民の住宅程度である。農家との違いは,門から入った正面に式台つきの玄関を構えていることと,土間が農家ほど広くないことである。武士の中でも徒士(かち),足軽などの下級者は個人的な屋敷はもらえず,徒士屋敷,足軽屋敷などと呼ばれる長屋などにまとまって住み,住宅も狭い土間に二間(ふたま)程度の部屋がつき,床の間もないのが普通であった。

 武家屋敷は明治維新の後急激に消滅し,多くの城下町が第2次世界大戦の戦災を受けたこともあって,建築遺構が残っているものは,岩国・萩(山口県),佐倉(千葉県),角館(秋田県)など地方の小都市にしか例がなく,民家遺構に比べてもきわめて少ない数になっている。
住居 →大名屋敷 →拝領町屋敷 →屋敷
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「武家屋敷」の意味・わかりやすい解説

武家屋敷
ぶけやしき

武士が居住する住居と敷地、およびその居住区を総称する名辞。日本の武家住宅は鎌倉時代におこり、室町時代には書院造(しょいんづくり)という武家住宅の様式を生み出したが、それが独自の様式と景観をもつに至ったのは、江戸時代、兵農分離によって武士が城下町に集居し、武家屋敷を建設してからである。

[藤野 保]

町割と武家屋敷

城下町は一定の計画による町割(まちわり)によって、大名の居城を中心に、武士が居住する武家屋敷と町人が居住する町屋敷がつくられたが、町割に際しては、整然とした碁盤割の都市計画が要求されたため、町屋敷とは区画された武士専用の居住区である武家屋敷が形成された。江戸は、旗本屋敷である番町(ばんちょう)が成立し、のち神田山(かんだやま)、小川町(おがわまち)が急速に旗本の屋敷地となったが、参勤交代制の実施によって、丸の内、霞(かすみ)が関、永田町一帯は大名屋敷の市街地となった。江戸は城下町としては特殊な例であるが、一般に武家屋敷は町屋敷に比べて大きい。越後(えちご)の長岡では、武家屋敷125町に対して町屋敷は34町であり、加賀の金沢では、侍地の広さは町地に3倍し、薩摩(さつま)の鹿児島では、侍地7分に対して町地3分という割合であった。武家屋敷はその身分によって別個の居住区がつくられ、上級・中級の武家屋敷は郭(くるわ)やそれに接した市街地に、足軽など下級の武家屋敷は市街地の周辺に配置する例が多い。陸奥(むつ)の仙台では、組士以上の武士が居住する町を「丁(ちょう)」とよび、足軽・小人(こびと)・町人が居住する「町(ちょう)」と区別している。また在郷の武士は、農村に武家屋敷を散在してつくる例が多い。

[藤野 保]

形式と特色

住居の形式は、普通一戸建てであるが、足軽など下級武士は、組屋敷とよばれる長屋(ながや)(二戸建てまたは連続形式の数戸建て)に住んだ。その規模は藩によってまちまちである。建築様式は、簡略化された書院造を用い、居間、寝間、台所、玄関の間のほか、座敷、書斎、茶屋などを備えている。周囲に塀を巡らして門を設け、入口に玄関をつけて町人の住む町屋敷と趣(おもむき)を異にしている。武家屋敷の特色は、武士個人の所有ではなく、藩より貸与された官舎であるところにある。そのため、武士は昇進転任のたびに、身分に見合った屋敷へと移った。移転によって持ち運びのできる家具についても、藩によっていろいろの規定があった。明治維新後は個人所有となったが、今日、武家屋敷の様式と景観を残す旧城下町はきわめて少ない。

[藤野 保]


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事典・日本の観光資源 「武家屋敷」の解説

武家屋敷

(長崎県島原市)
次代(あす)に残そう長崎百景」指定の観光名所。

武家屋敷

(長崎県島原市)
長崎県新観光百選」指定の観光名所。

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