松代城下(読み)まつしろじようか

日本歴史地名大系 「松代城下」の解説

松代城下
まつしろじようか

[現在地名]長野市松代町

善光寺平ぜんこうじだいらの東側にあり、東に保基谷ほきや山系、南西は岩野いわの村の笹崎ささざき、北は大室おおむろ村の関崎せきざきでそれぞれ東部山地と千曲川に囲まれた要害の地を占める。

〔城下町の成立〕

天文二二年(一五五三)武田晴信が村上氏を越後へ追った後、上杉氏の反撃に備えて、永禄三年(一五六〇)海津かいづ城を築き、高坂弾正忠昌信を配したのを初めとする。天正一〇年(一五八二)三月、織田信長が武田勝頼を滅ぼしたあと、川中島四郡を森長可に支配させた。しかし信長の死後上杉景勝がこの地に進出、村上景国をして当城を守らせた。その後、上条義春・須田満親がこれに代わったが、上杉氏が会津に移封されるに及び、田丸直昌が秀吉により在城した。関ヶ原の戦以後、徳川氏は森忠政を城主とし、その後、松平忠輝・松平忠昌・酒井忠勝と交代した(埴科郡志)。この間、武家屋敷・町屋敷が形成されたものと思われるが不明。しかし町年寄として長く活躍した杭全くまた家の家系によれば、初代杭全正俊が天正三年天目山で討死し、二代杭全祐八は「武田家高坂弾正忠昌信ニ仕テ、甲州亡テ後、民下ニ下リ海津城南ニ住ム」(杭全家系図)とあって、高坂氏在城の頃町人町も形成されつつあったと思われる。元和八年(一六二二)真田信之が上田より入封に際し、多くの家臣団を率いてきたことからこの当時までに、ほぼ後の松代城下町が成立していたようである。

〔真田氏の藩政〕

真田信之・信政時代は藩財政も豊かで、信之の死後の遺金も二三万九千五八二両余と黄金五〇枚(寛文三年古留書)もあったが、三代幸道時代には高田検地(天和二年)・日光普請(同三年)・高遠検地(元禄三年)・善光寺普請(同一三年)・東海道普請手伝(宝永四年)・朝鮮使節饗応(正徳元年)・松本城請取(享保一〇年)などの幕府からの課役が莫大で、借金政策さえ採るに至った。四代信弘・五代信安時代には、元町人の塩野儀兵衛や原八郎五郎らを勝手係に登用して、財政改革を図り、一時はみるべきものがあったが、原八郎五郎は暴政のため失脚した。続いて浪人田村半右衛門を勝手係として登用したが、経済優先手段を選ばないその政策は、「藩のため御用金勤め候はゞ博奕盗等の儀も不苦敷」などと農民に布告する有様で、ついに山中七〇ヵ村が一揆を起こす始末となった。

六代幸弘の代に賢臣恩田木工を抜擢して勝手係として財政の改革にあたらせ、多大の治績のあがったことは「日暮硯」で有名であるが、事実、木工の改革は年貢の月割上納・藩財政の予算など計画経済を採ったことなどみるべきものがあったが、藩財政の根本的解決には至らなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報