鶴ヶ岡城下(読み)つるがおかじようか

日本歴史地名大系 「鶴ヶ岡城下」の解説

鶴ヶ岡城下
つるがおかじようか

鶴岡市の東部中央、あか川の西岸、蛇行しながら北流する苗津なえづ川・うち川・青竜寺しようりゆうじ川に挟まれた一帯を占める。中世には武藤氏の築いた大宝だいほう(梵)城の城下、慶長八年(一六〇三)以降は鶴ヶ岡城の城下となる。

〔大宝寺城下〕

大宝寺城築城の時期は不詳だが、「筆濃余理」には文和二年(一三五三)家督を継承した武藤長盛が居住したと記されることなどから、室町初期には大宝寺城とその城下が形成されていたと推測される。文明四年(一四七二)家督を継いだ政氏は羽黒山別当を兼ね、大宝寺城下に一の鳥居を建てた(同書)。この鳥居は現内川の西岸、近世の鳥居河原川端通とりいがわらかわばたどおり常源じようげん寺本堂後ろにあったとされるから、中世の城下の規模は不明ながら、位置はほぼ近世鶴ヶ岡城下の東半にあたっていたとも考えられる。「大泉庄三権現縁記」には「羽黒山 表口大宝寺衆徒 三千五百坊アリ」と記されており、武藤氏支配下に入った羽黒山の表口として繁栄していたとされる。武藤氏時代に城下にあった寺として禅宗の般若はんにや寺と崇禅すうぜん寺があげられる。城の北門の外にあった般若寺は、元和八年(一六二二)酒井氏入部以後城下北東端へ移され、近世以降も存続した。一方崇禅寺は龍嶋山と号し、開山は普明国師(春屋妙葩)(扶桑五山記)、応永一八年(一四一一)三月の宝幢寺領・鹿王院領目録(鹿王院文書)に諸末寺の一としてみえ、諸国十刹に列していた(「蔭涼軒日録」永享七年八月二七日条など)。天文元年(一五三二)川北の砂越氏の攻撃を受けて大宝寺城は落城、崇禅寺・般若寺は焼亡し(「来迎寺年代記」伊藤文書)、崇禅寺は以後再興されなかったとみられる。この時「其外大宝寺内亡処ト成」といい、以後武藤氏は本拠を西方大浦おおら城へ移した。天正一五年(一五八七)羽黒山一の鳥居は焼失したという。元亀四年(一五七三)九月七日の武藤義氏安堵状(長泉寺文書)では、長泉ちようせん寺に「大宝寺之町ニ寺屋敷一間」が安堵されているが、長泉寺の位置などについては不詳。

天正一九年越後上杉氏の重臣直江兼続により木戸玄斎に大宝寺城の修復が命じられており(同年五月二三日「木戸玄斎条書」旧山形県史所収文書)、城下にも修復が加えられたとみられる。文禄三年(一五九四)八月一六日の立岩喜兵衛宛直江兼続覚書(編年文書所収文書)には「大宝寺町蔵屋敷以下互自由候之様半分宛可請取之事」とあり、当時蔵屋敷が置かれていたことがわかる。また支配は櫛引くしびき通代官であった喜兵衛が行っていたと推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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