米沢城下(読み)よねざわじようか

日本歴史地名大系 「米沢城下」の解説

米沢城下
よねざわじようか

戦国時代米沢を本拠とした伊達晴宗・輝宗・政宗の三代によって城下町の原形が形成され、慶長六年(一六〇一)上杉景勝が入部後大幅に整備された。米沢藩三〇万石、寛文四年(一六六四)以降一五万石の城下町。

〔創設〕

伊達晴宗は天文の乱後の天文一七年(一五四八)家督を相続すると、翌年本拠を米沢に移したという(伊達系図)米沢盆地は南は吾妻あづま山系の高山、東・西も山に囲まれ、北にのみ平地が開け、東寄りをまつ(最上川上流)が北流する要害の地であった。伊達氏時代(晴宗・輝宗・政宗三代)の城下の実態はあまり明らかではない。しかし伊達氏ゆかりの伊達五山をはじめ商人・職人などの城下移転と、家臣の城下集住をある程度進めていた。天文二二年の晴宗公采地下賜録によれば、諸口より領内へ来る商人は米沢に五日間強制滞留させ、また諸関の関役・商売に対しては課役を無役とするなど、城下町形成を積極的に企図している。天正一九年(一五九一)六月一四日の伊達政宗棟役掟書写(政宗君治家記録引証記所収文書)に「米沢ニハ侍中家おは指置」いたとみえる。城下域は上杉氏時代の二の丸周辺で、城下町はおお町・たつ町・あら町・やなぎ町・ひがし町・みなみ町の六町が成立していたと推定されている(山形県史)。晴宗は隠退後、米沢城西方の館山たてやま城を隠居所とし、また政宗時代にも同城を整備しようとしているが、当時米沢城とは連続していない一支城であった(伊達史料集)

天正一九年伊達氏が奥州岩出山いわでやまに転じたのち米沢は蒲生氏郷領となり、米沢城には家臣蒲生郷安が入城した。蒲生氏は慶長三年下野宇都宮うつのみや(現栃木県宇都宮市)へ転封、上杉景勝領となり、家老直江兼続が入城した。兼続の入城時、城下には伊達氏時代の六町のほか、御免ごめん町・河田かわた(以上を町方八町とよぶ)家風かふう小路・てら小路・源悦げんえつ小路の三小路があった。城は一重堀で本丸と二の丸があり、正門は北向きであった(旧米沢市史)。慶長六年上杉景勝は会津一二〇万石から伊達だて信夫しのぶ置賜おきたまの三郡三〇万石に減封になり、景勝とともに多数の家臣が会津から米沢に移った。「米沢雑事記」によれば、当初「御家中の輩、住居所もなくして諸所へ立入り、勝手々々に片寄当日を暮しわぶる」ありさまで、早急に城下の拡張と新田の開拓が必要であった。

直江兼続はまず松川支流の小川(のちの柳町付近を北流していた)を埋立て、河原地を整備した。同一三年城外に堀を掘り、三の丸を新設(上杉家年譜)。三の丸堀内にあった町家は堀外東方に移した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の米沢城下の言及

【米沢[市]】より

…1601年(慶長6)上杉景勝が会津から移封されて以後明治まで約270年間にわたる上杉氏の統治が続いた。江戸中期の10代藩主上杉治憲(鷹山)が藩政改革の一環として藩士に奨励した織物業は,米沢城下在住の下級家臣による家内工業として発展し,明治以降〈米織〉の名で知られるようになった。第2次大戦前は米織を中心とした県下一の工業都市であり,戦後は一般機器などの工場立地が進み,市東部には八幡原中核工業団地が造成され,1995年現在も県下一の工業出荷額をあげている。…

※「米沢城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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