弘前城下(読み)ひろさきじようか

日本歴史地名大系 「弘前城下」の解説

弘前城下
ひろさきじようか

津軽平野の南部、弘前台地とよばれる洪積台地沖積平野の一部に町並を形成する。いわゆるうわ町の洪積台地、した町の沖積平野、なか町の中間漸移地帯の三つから構成され、西の岩木川と東の土淵つちぶち川に挟まれている。陸上交通の要地にあり、それに伴って政治・経済の中心となりうる条件を備えていた。また浅瀬石あせいし川・ひら川・岩木川が合流して大川となって津軽平野を北流する地点に近く、河川交通を押えるとともにその流域を支配するにも好都合で、軍事的に重要な地でもあった。

弘前の由来は「平山日記」に「此所元来鷹岡と申候処、御国十三之崎より沖ニ松前迄之間ニ大潮有、是を尾閭びろといふ、依昔より十三之崎を尾閭ケ崎と申候間、是ハ結構成名之由ニ付、其名を取、此以後弘前と可申由御沙汰之上之義ニ御座候由」とあり、また「津軽一統志」は広崎が弘前となったとする説を掲げるが、定説はない。ただし、弘前という名称が用いられたのは、信枚君一代之自記(国立史料館蔵)によれば、寛永五年(一六二八)八月二〇日からで、それ以前は二ッ石ふたっいし高岡たかおか鷹ヶ岡たかがおかと称したという(津軽一統志)。これらの呼称は寛永期あたりまで用いられたらしく、正保期(一六四四―四八)あたりから弘前があまねく使用された。慶安二年(一六四九)津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳(八木橋文庫蔵)にも、弘前のみが用いられている。

〔城下の建設〕

慶長八年(一六〇三)弘前藩祖津軽為信が、高岡に町屋派立を命じて地割をしたことが、城下建設の第一歩といわれる(津軽歴代記類)。しかし堀越ほりこしに居城があったため建設は進展せず、本格化したのは、二代藩主津軽信枚の代に入って、同一五年弘前城築城開始以後であった。「津軽一統志」によれば、同一六年「御城築造営成、旧城堀越より神社・仏閣・大小諸士屋敷及び工商の居宅遂次序、当城へ移来、繁栄無窮の勝地矣」とあり、城下の体裁が整った。

寛永末年頃の津軽弘前城之絵図(櫛引元三氏蔵)によれば、城下は城を中核として城北・城東・城南・城西の四地域に分れ、城西は掘替え以前の岩木川で他地域と区切られていた。正保三年の津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)には、弘前城を中心に、城北は足軽町・歩者町・小人町・祢宜町・町屋が町割され、八幡宮や伊勢太神宮がある。城東は町屋・小人町・侍屋敷・寺院街が町割され、東照とうしよう宮・薬王やくおう院がある。城南は町屋と足軽屋敷・長勝ちようしよう寺を中心とした寺庵が並び、長勝寺付近は堀をめぐらした長勝寺構ちようしようじがまえを形成。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の弘前城下の言及

【弘前[市]】より

…春に弘前城跡の公園を中心に催される桜祭と夏に津軽地方一円で行われるねぷた祭(ねぶた)は最大の年中行事として全国に知られる。【横山 弘】
[弘前城下]
 陸奥国弘前藩の城下町。《信枚君一代之自記》によれば,1628年(寛永5)8月20日から弘前と称したという。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」