石田郷(読み)いしだごう

日本歴史地名大系 「石田郷」の解説

石田郷
いしだごう

現石田町付近に比定されるが、郡名未詳で史料に登場する場合、坂田郡石田郷(現長浜市)をさすとも考えられる。元亨元年(一三二一)一〇月一六日の信性処分状(田代文書)に「野洲郡石田郷」とみえ、地頭得分が本妙房に譲られている。文和三年(一三五四)二月六日、細川清氏(のちの室町幕府執事)不知行となった河内国橘島たちばなしま(現大阪府八尾市など)光国名の替地として石田郷上方半分地頭職臨川りんせん三会さんえ(現京都市右京区)に寄進、足利尊氏によって安堵された(「細川清氏寄進状案」「足利尊氏御教書案」ともに臨川寺重書案文)

石田郷
いしだごう

鎌倉期よりみえる壱岐国の郷名。「和名抄」に記される石田郡石田郷の郷名を継承し、中世は西間さいまとも称したという。承久二年(一二二〇)一〇月日の壱岐島押領公田注進状(民経記紙背文書)に石田郷とみえる。国牧士の武重が筑前太山たいさん(現福岡県太宰府市の竈門神社別当寺)の神人近延に対して放言をしたと称し、その過料(罰金)として当郷の三〇町を含む壱岐の公田(国衙領)七〇余町を太山寺別当の代官成慶などが押領していた。

石田郷
いしだごう

天平一一年(七三九)一一月一五日の調布(正倉院蔵)に「佐渡国雑太郡石田郷曾禰里戸丈部得麻呂調布壱端」とある。この曾禰そね里は沢根さわねをさすという(二宮村志)。文永八年(一二七一)佐渡に流された日蓮の建治元年(一二七五)五月八日付消息(一谷入道御書「昭和定本日蓮上人遺文」所収)に「文永九年の夏の比、佐渡国石田郷一谷と云し処に有しに、預たる名主等は公と云ひ、私と云ひ、父母の敵よりも宿世の敵よりも悪げにありしに」とあり、日蓮の監視に当たった地頭らしき者の存在が知られる。康永三年(一三四四)四月日の石田・長木・二宮三ケ郷年貢結解状写(山田本間文書)によれば「石田郷 定案 拾貫漆百三十五文 御得分 参拾四貫二百廿文 已上 肆拾肆貫九百五十五文内 五分一 八貫九百九十一文 山城兵衛入道分 残参拾五貫九百六十四文」の年貢を請負い代官の山城兵衛入道が、本間貞泰に納入している。

石田郷
いしだごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。同書の伊勢国安濃郡石田郷には「以波多」「伊波多」、佐渡国雑太郡・讃岐国寒川郡・伊予国伊予郡などの石田郷には「以之多」「伊之多」の訓が付されているが、便宜上後者で訓じておく。下野国府跡からは「石田郷」と書かれた木簡が出土している。文献では天平勝宝四年(七五二)一〇月二五日の造東寺司牒(正倉院文書)に、下野国東大寺に給された封戸二五〇戸の内訳の一つとして「芳賀郡石田郷五十戸」とある。

石田郷
いしだごう

あら川の西岸、現上石田・下石田一帯に比定される。「一蓮寺過去帳」には応永二八年(一四二一)七月一四日供養の直阿弥陀仏、文明七年(一四七五)五月四日供養の明阿弥陀仏に各々石田の注記がある。永禄四年(一五六一)の番帳にみえる「石田の禰き」は、下石田の八幡神社の神職をさすと推定される。同六年と推定される亥の七月六日、竜王りゆうおう川除堤防備のため石田両郷などの近郷へ人夫徴用が命じられた(「武田信玄印判状」保坂達家文書)。この頃から上・下の二郷に分れていたとも考えられるが、ほかに同様の史料はなく不明。

石田郷
いしだごう

現石田地区一帯に比定される。明応五年(一四九六)四月一五日に大内義興が安堵した善福寺敷地并寺領等御判目録(萩藩閥閲録四)によれば、文正元年(一四六六)六月二九日に「規矩郡石田郷」内の一〇石の地(豊島雅楽助跡)大内政弘より周防国善福ぜんぷく(現山口市)に寄進されている。大永八年(一五二八)義興は家臣伊佐千代菊に当郷一〇石の地を還補し(同年五月二八日「大内義興袖判下文写」山口県文書館蔵譜録)、天文二二年(一五五三)にも伊佐氏の知行が確認される(同年閏正月一八日「陶晴賢袖判安堵状」同譜録)

石田郷
いわたごう

「和名抄」高山寺本は「以波多」、東急本は「伊波多」の訓を付す。康永三年(一三四四)の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)安東あんとう郡所在の伊向神田として郷内に「二条六尾鞍里十坪十五坪」「四条四刑部里廿五坪」「五条四刑部里廿六坪」「六条四枚板里廿二坪」「同条五知本里廿一坪」「同条六柱本里九坪」「七条五椹无里廿坪」「八条九市村里卅四坪」などに合計一一町九段が所在した。

石田郷
いしだごう

「和名抄」に記される郷。同書高山寺本・東急本・名博本・元和古活字本ともに訓を欠くが、東急本の国郡部に石田郡の訓を伊之太とするのでイシタであろうが、「万葉集」巻一五に「伊波多野」(石田野)とあるのでイハタの可能性もある。中世の石田郷(承久二年一〇月日「壱岐島押領公田注進状」民経記紙背文書)、近世の石田村は当郷名を継承するもので、現石田町の東部に比定される(大日本地名辞書)

石田郷
いしだごう

「和名抄」刊本・東急本に訓はなく、高山寺本に以之多とある。現佐和田さわた町に石田の地があり、石田川流域を含む地域とされる。正倉院文書の天平一一年(七三九)一一月一五日正倉院御物調布墨書に「佐渡国雑太郡石田郷曾禰里戸丈部得麻呂調布壱端」とある。丈部氏は阿倍氏の一族といわれ、金丸本郷かなまるほんごう(現真野町)の式内社引田部ひきたべ神社は阿部氏を祀るという。

石田郷
いしだごう

江戸期の石田村一帯に比定される戦国期の郷名。天文九年(一五四〇)七月四日の今川義元判物(久能寺文書)によって久能寺窪坊の所領三町大が守憲に安堵されており、そのうちに「石田郷内山宮新宮大般若田」一町がみえる。同一八年八月一一日の駿府浅間社社役目録(村岡大夫文書)および永禄元年(一五五八)八月一三日の今川氏真朱印状(静岡浅間神社文書)によると、当郷は浅間社(静岡浅間神社)の五月流鏑馬郷役を閏年役として一貫一〇〇文負担している。

石田郷
いわたごう

「和名抄」諸本とも訓を欠く。現郡家こおげ石田いしだ百井ももいを遺称地とすると、同町西端の私都きさいち川下流南岸一帯と考えられる。「鳥取県史」はその南西の現河原かわはら町東部の旧国英くにふさ村地域一帯に比定している。

石田郷
いしだごう

「和名抄」高山寺本に「以之多」、東急本には「伊之多」と訓を付す。康治二年(一一四三)八月一九日の太政官牒案(安楽寿院古文書)に、富田とみだ(現大川郡大川町)四至の西限に石田郷がある。

石田郷
いしだごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はない。伊勢本・東急本・元和古活字本の訓は「伊之木」であるが、高山寺本の訓「以之多」、名博本の傍訓「イシタ」から「いしだ」と読む。

石田郷
いしだごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠く。イハタかイシタであろうが、江戸時代の石出いしで(現東庄町)を遺称地とみて、これを含む一帯に比定する説がある。

石田郷
いしだごう

「和名抄」東急本は「石見」につくるが、高山寺本の「石田」が正しいとされる。両本とも訓を欠く。寿永三年(一一八四)正月木曾義仲を討取った三浦氏一族の石田為久(「平家物語」巻九)は当郷出自の武士であろう。

石田郷
いしだごう

「和名抄」高山寺本・流布本ともに「石田」と記し、高山寺本は「以之田」、流布本は「伊之多」と訓ずる。この郷の所在は不詳である。

石田郷
いしだごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓も「以之多」(高山寺本)、「伊之多」(伊勢本・東急本・元和古活字本)、「イシタ」(名博本傍訓)で一致する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報