寒川郡(読み)さんがわぐん

日本歴史地名大系 「寒川郡」の解説

寒川郡
さんがわぐん

讃岐国の東部に位置し、東は大内おおち郡、西は三木みき郡、南は阿波国と接し、北は瀬戸内海に面する。中央部を津田つだ川、やや西寄りを鴨部かべ川が北流する。現大川郡の西半分を郡域とした。

〔古代〕

「続日本紀」和銅六年(七一三)五月一二日条によれば、讃岐守大伴道足の申請により、この日、庚寅年籍編成の際、誤って草壁皇子の飼丁とされた寒川郡人物部乱ら二六人を良民に付けることが認められている。延暦一〇年(七九一)九月一八日条では当郡人の凡直千継の申請により、同人の戸など二一戸に讃岐公の姓が与えられている。千継の申請によれば、凡氏の先祖は星直で敏達天皇の時代に讃岐国造となり「紗抜大押直」の姓を賜ったが、庚寅年籍では大押を凡と改めたため、同系の一族が讃岐直と凡直の両姓に分れてしまったという。讃岐凡直氏については、当郡に隣接する大内・三木両郡および山田やまだ郡でも存在が確認され、広く東讃に分布していた氏族であったとみられる。「続日本後紀」承和三年(八三六)三月一九日条によれば、「令義解」の編纂に携わった明法道の学者讃岐公永直は当郡人で、この日、一族三〇戸を併せて公を改め朝臣の姓を賜り、京都に移貫されている。また讃岐公は景行天皇の皇子で、讃岐国造の祖となったと伝える神櫛王の子孫と記す。なお建長四年(一二五二)七月二四日、寒川郡司の讃岐基光が郡内石田いしだ郷の蓑上社へ大般若経一巻(弘法寺蔵)を奉納しており、当郡の讃岐氏は郡司を勤める家柄であった。讃岐国造の子孫として郡司を勤めた譜代郡司家と推定される。

和名抄」は「佐无加波」と訓を付け、所管の郷として難破なは・石田・長尾ながお造太ぞうた鴨部かもかんざき多和たわの七郷を記す。延喜式内社はいずれも小社の志太張しだはり神社・布勢ふせ神社・大蓑彦おおみのひこ神社・神前こうざき神社・多和神社で、志太張神社は現大川郡志度しど町、布勢・大蓑彦・神前の各社は現同郡寒川町の同名社に比定されるが、多和神社については現同郡長尾ながお町・志度町にある同名社に比定する説で分れる。当郡の中部を南海道が横断しており、「延喜式」兵部省に記す松本まつもと駅は現大川町富田とみだ付近に位置したと推定されている。

寒川郡
さむかわぐん

下野国最南部の低地にあり、北・東・西は都賀つが郡。南流するおもい川流域、現在の小山おやま市南西部一帯にあたる。「寒河」とも記され、さんがわとよばれることも多い。「和名抄」東急本国郡部では「佐无加波」と訓を付し、「延喜式」神名帳では「サフカハ」と訓ずる。真木まき池辺いけのべ奴宜ぬぎの三郷を管する小郡で、思川下流左岸台地から巴波うずま川左岸・赤麻あかま沼北辺に至る、現下都賀郡野木のぎ町・藤岡ふじおか町東部・小山市南西部付近が古代郡域と推測される。郡衙の所在地は未詳。平城宮跡出土木簡に「寒川」とみえ、延暦年間(七八二―八〇六)のものが多い下野国府跡出土木簡中にも「寒川郡」など郡名の記載がみえる。現那須郡湯津上ゆづかみ村の小松原こまつばら遺跡からは「寒川厨」と墨書された土器が発掘されている。また「万葉集」巻二〇には、天平勝宝七年(七五五)に筑紫に派遣された防人の歌として、寒川郡上丁川上臣老の「旅行に行くと知らずて母父に言申さずて今ぞ悔しけ」の一首が収載される。「延喜式」神名帳には当郡の名神として「阿房アハノ神社」「胸形ムナカタノ神社」の二社を記す。いずれも国幣小社の扱いで、阿房あわ神社は現在小山市粟宮あわのみやにある安房あわ神社、胸形むなかた神社は小山市寒川の胸形神社にそれぞれ比定されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報