相模国(読み)サガミノクニ

デジタル大辞泉 「相模国」の意味・読み・例文・類語

さがみ‐の‐くに【相模国】

相模

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日本歴史地名大系 「相模国」の解説

相模国
さがみのくに

南は相模湾に面し、東・北は武蔵国、西北は丹沢たんざわ山塊を隔てて甲斐国、西南は箱根・足柄あしがらの山々を隔てて駿河国・伊豆国に隣接する。「風土記稿」によれば、東の武蔵国多摩郡との境は一時期は高座たかくら川より二―三町東の山の続く辺りに置かれ、のち同川が相武国境となり川名もさかい川と改められたという。西南伊豆国との境は足柄下あしがらしも郡西方の峰通りと定められていたが、元禄一三年(一七〇〇)以降北寄りの藤木川ふじきがわ(門川)が境と決められた。

古代

〔国の成立〕

「日本書紀」天武天皇四年一〇月二〇日条に「是の日に、相模国言さく、「高倉郡の女人、ひとたびに三の男を生めり」とまうす」とあり、国名・郡名がみえる。国名は「和名抄」に「佐加三」と訓ずるが、「古事記」に「佐賀牟」と記され、また相武・相模の用字から、古くは「さがむ」であったと考えられる。郡は足上あしかみ足下あししも余綾よろき(のち淘綾)大住おおすみ御浦みうら高座たかくら・鎌倉・愛甲あいこうの八郡、「和名抄」には六七郷があげられている。

令制の国・郡が設定される以前、早くから大和朝廷に服属したようで、「国造本紀」には相武さがむ国造と師長しなが国造が置かれたとみえ、前者は相模川流域、後者は余綾郡一帯から足柄平野付近を支配していたらしい。また「古事記」景行天皇段では倭建命の王子の子孫が「鎌倉之別」となったと伝え、鎌倉郡から三浦半島の支配者かと推定される。二宮の川匂かわわ神社(現中郡二宮町)は師長国造の祀った神で、一宮の寒川さむかわ神社(現高座郡寒川町)など相模川沿いの古社は瓢箪塚ひようたんづか古墳(現海老名市)真土大塚山しんどおおつかやま古墳(現平塚市)大神塚おおじんづか古墳(現寒川町)などの大古墳とともに相武国造と深い関係があるらしい。「古事記」景行天皇段には倭建命の東国征討の際相武国造に欺かれて火難にあったり、走水はしりみずの海を渡るとき非常に荒れたので弟橘比売が命に代わって入水し、その時

<資料は省略されています>

と歌ったという話、征討を果して帰国の際、足柄坂の上で「吾嬬あづまはや」と三嘆したので、以後坂より東を「あづま」とよんだなどの説話を載せる。

令制施行で設けられた相模国府の所在地は、「和名抄」の大住郡説、「伊呂波字類抄」の余綾郡説、国分寺の所在からの海老名えびな説、および足柄説などがある。海老名説は江戸時代末期の「風土記稿」以来最初の国府の地として定説化しており、次に元慶二年(八七八)あるいは弘仁一〇年(八一九)に大住郡に移り、天養年間(一一四四―四五)から保元三年(一一五八)の間に余綾郡に移転したといわれてきた。余綾国府は現在の中郡大磯町国府本郷こくふほんごうにあてられ、大住国府は現伊勢原市さんみや説、秦野はだの曾屋そや付近の御門みかど説、平塚市四之宮しのみや説や、平塚八幡宮(現平塚市)の付近とする説などがある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「相模国」の意味・わかりやすい解説

相模国
さがみのくに

旧国名。律令(りつりょう)体制によって設けられた国名で、東海道の一つ。上国。関東平野の南西に位置する。東・北は武蔵(むさし)、北西は甲斐(かい)、南西は駿河(するが)・伊豆、南は相模灘(なだ)に面する。現在の神奈川県の大部分にあたる。国名は『古事記』で相武(さがむ)、『和名抄(わみょうしょう)』で佐加三(さがむ)とある。現在は通常、相模、古くは相摸と書いた。古代の相模は相模川・酒匂(さかわ)川流域を中心として政治・文化圏が形成、4~5世紀に大和(やまと)政権に服属した。国内の郡は『延喜式(えんぎしき)』によると、足上(あしのかみ)・足下(あしのしも)(のち足柄上(あしがらかみ)・下郡)、余綾(よろき)(のち淘綾(ゆるぎ))、大住(おおすみ)、愛甲(あゆかわ)、高座(たかくら)、鎌倉、御浦(みうら)(のち三浦)の8郡からなる。国府は初め国分寺のある高座郡海老名(えびな)に、のち余綾・大住郡へ移転したとの説が有力である。『正倉院文書』天平(てんぴょう)7年(735)「相模国封戸租(ふこそ)交易帳」によると国内には光明(こうみょう)皇后らの封戸1300戸、4126町余があり、『和名抄』には田畠1万1236町余、人口約10万2000人とある。『延喜式』によると足柄~浜田(海老名)から武蔵に至る官道があった。11世紀末から荘園(しょうえん)が成立し武士団が成長した。たとえば足柄下郡曽我庄(そがのしょう)・土肥氏、大住郡波多野庄・波多野氏、愛甲郡毛利庄・毛利氏、高座郡渋谷庄・渋谷氏、大庭御厨(おおばのみくりや)・大庭氏、三浦郡三浦庄・三浦氏がある。

 1192年(建久3)源頼朝(よりとも)が鎌倉に幕府を開設、相模国は武家政権の中心地として将軍家の知行(ちぎょう)国となった。相模の武士団は頼朝挙兵から幕府創業期に御家人(ごけにん)の中核となった。源氏滅亡後、北条氏執権(しっけん)政治が確立、その治下に鎌倉五山を中心とする仏教が興隆した。南北朝内乱以後、相模国は関東管領(かんれい)支配となり、15世紀永享(えいきょう)の乱後、国内は内乱が続き、1495年(明応4)戦国大名北条早雲が小田原城に拠(よ)り、5代、1世紀の間関東を支配し、相模は西郡、中郡、東郡、三浦郡と津久井に編成された。

 1590年(天正18)北条氏滅亡、徳川家康の関東入国により、相模国554か村のうち徳川氏直轄領275か村(49.6%)、旗本領73か村(13.3%)、国の西部足柄上郡・下郡は小田原藩大久保忠世(ただよ)領となり、中世から伝統のある鎌倉には寺社領12か村が設けられた。また1594年(文禄3)国高19万4200石のうち、直轄領約10万6900石、小田原藩領4万石、旗本領約4万石、寺社領等7300石がある。こののち国内に関宿(せきやど)藩領をはじめ諸藩領が設定されたが、小田原藩のほかに六浦(むつら)藩、烏山(からすやま)藩、佐倉藩、荻野山中(おぎのやまなか)藩領が幕末まで続いた。この間、1633年(寛永10)、97年(元禄10)地方直(じかたなお)しにより国内所領は分給・分散による旗本領が中心となった。1691年、戦国時代からの津久井領が津久井県に改称、全国でもまれな県という行政単位が用いられた。

 近世の国内は開発が進み、相模原台地を中心に多くの新田が創出された。産業・物産には、足柄地方のミカンや石材、大住郡秦野(はだの)の煙草(たばこ)、津久井地方の漆、紬(つむぎ)、柏葉(かしわのは)(漁網の染料)などがあり、相模灘に面した大住郡須賀(すか)村のカツオは「御菜(ごさい)初鰹」として、また相模川のアユも将軍に献上された。文化も江戸との関係から盛んで、淘綾郡大磯(おおいそ)の鴫立庵(しぎたつあん)は相模俳壇の中心となった。また北相では自在庵派が栄えた。1853年(嘉永6)三浦半島浦賀にペリーが来航、日本の封建制は破れ、68年(慶応4)神奈川十里四方の大住郡、愛甲(あいこう)郡、高座(こうざ)郡、鎌倉郡、三浦郡の一部が神奈川府(のち神奈川県)、71年(明治4)廃藩置県により、11月鎌倉郡、三浦郡が神奈川県に、足柄上郡・下郡、淘綾郡、大住郡、愛甲郡、高座郡、津久井郡が足柄県に編入され(76年神奈川県となる)、相模国は消滅した。

[神﨑彰利]

『『神奈川県史』全36巻38冊(1971~85・神奈川県)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「相模国」の意味・わかりやすい解説

相模国
さがみのくに

現在の神奈川県の一部。東海道の一国。上国。『古事記』には相武国とある。相模は『正倉院文書』の古印に「相も」とあるので「摸」の字をあてるほうがよいと考えられる。『旧事本紀』によれば,もと相武国造と師長 (しなが) 国造とがあり,前者は高座 (たかくら) 郡を中心とした地方,後者は『和名抄』に余綾 (よろき) 郡礒長郷とあり,相模湾沿いの海岸地方であろうとみられる。このほかに『古事記』には鎌倉之別 (わけ) があった。これはこの地方の有力豪族であろうと思われる。国府は初め現在の海老名市にあったが,のち大磯町に移ったとされている。国分寺は海老名市におかれた。『延喜式』には足上 (あしのかみ) ,足下,余綾,大住,愛甲,高座,鎌倉,御浦の8郡がおかれている。『万葉集』に足柄の地名がみえているが,これが足上,足下と分れたものであろう。『和名抄』には郷 66,田1万 1236町を載せている。平安時代中期以降,当国に住む武士がふえ,ことに平家の一族である三浦氏,和田氏,大庭氏をはじめ梶原氏,土肥氏が荘園により武力をたくわえ,源頼朝が挙兵するや鎌倉幕府の御家人として重きをなした。当国は幕府の所在地であったため,守護の三浦氏滅亡後は幕府直轄地となった。南北朝時代から室町時代にかけては鎌倉公方の支配下におかれ,永享の乱 (1438) で鎌倉公方が滅びると長く戦乱の巷となっていたが,やがて北条氏の支配となった。豊臣秀吉の時代には小田原に大久保氏が配され江戸時代にいたった。小田原は大久保氏から一時稲葉氏に代ったが,のち再び大久保氏の支配となり幕末にいたった。明治4 (1871) 年の廃藩置県で小田原県となり,1876年神奈川県となった。

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藩名・旧国名がわかる事典 「相模国」の解説

さがみのくに【相模国】

現在の神奈川県域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺は、ともに初め現在の海老名(えびな)市、のち国府は大磯(おおいそ)町に移ったといわれるが、初期国府の平塚市付近説もある。平安時代中期以降、土肥(どひ)氏、大庭(おおば)氏、梶原(かじわら)氏、三浦氏、和田氏など平氏(へいし)の流れをくむ土豪諸氏が活躍、源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵を助け、鎌倉幕府の有力な御家人となった。鎌倉時代には将軍家の知行国(ちぎょうこく)となり、三浦氏が守護を務めたが、同氏滅亡後は不設置。南北朝時代から室町時代には鎌倉公方(くぼう)の支配に属し、末期には北条早雲を初代とする後北条(ごほうじょう)氏が小田原城を拠点に支配した。江戸時代には小田原藩領、旗本領、寺社領が分立した。1871年(明治4)の廃藩置県により神奈川県と足柄(あしがら)県が誕生、1876年(明治9)に両県が合併、1893年(明治26)に多摩三郡が東京都に移管し、現在の神奈川県となった。◇相州(そうしゅう)ともいい、相摸国とも書く。

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百科事典マイペディア 「相模国」の意味・わかりやすい解説

相模国【さがみのくに】

旧国名。相州,相摸とも。東海道の一国。現在の神奈川県の大部分。《延喜式》に上国,8郡。鎌倉時代,三浦氏が一時守護。同氏滅亡後は守護不設置で幕府が直轄。室町時代には関東管領の直轄を経て,小田原を中心に北条氏が支配。江戸時代は大久保氏(小田原藩)がこれに代わり,天領,旗本領などが錯綜,明治に至る。→小田原征伐鎌倉
→関連項目大庭御厨神奈川[県]関東地方

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「相模国」の解説

相模国
さがみのくに

東海道の国。現在の神奈川県西部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では足上(あしのかみ)・足下(あしのしも)・余綾(よろき)・大住(おおすみ)・愛甲(あゆかわ)・高座(たかくら)・鎌倉・御浦(みうら)の8郡からなる。国府は高座郡(現,海老名市),足下郡(現,小田原市),大住郡(現,伊勢原市など)など諸説があるが,鎌倉初期には余綾郡(現,大磯町)に移転したらしい。国分寺は高座郡(現,海老名市)と,足下郡(現,小田原市)の千代廃寺に比定する2説がある。一宮は寒川神社(現,寒川町)。「和名抄」所載田数は1万1236町余。「延喜式」では調庸は各種の綾・布帛で,中男作物として紙・紅花・茜・鰒(あわび)・堅魚(かつお)など。駿河国との境の足柄(あしがら)坂は交通の要所で,坂東の地名の由来ともなった。平安後期には大庭・梶原・三浦氏らが勃興した。源頼朝は挙兵後幕府を開き,鎌倉はその中心地として栄えた。三浦氏が守護をつとめたが,同氏滅亡後守護はおかれなかった。室町中期には鎌倉公方がおかれ,関東を管轄した。戦国期には後北条氏が小田原に本拠を構えたが,豊臣秀吉に滅ぼされた。江戸時代は小田原藩領以外はすべて幕領と旗本領。1868年(明治元)横浜に神奈川県がおかれ,71年神奈川県と足柄県が成立。76年足柄県は神奈川県に合併。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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