静岡浅間神社(読み)しずおかせんげんじんじや

日本歴史地名大系 「静岡浅間神社」の解説

静岡浅間神社
しずおかせんげんじんじや

[現在地名]静岡市宮ヶ崎町

賤機しずはた山南麓に鎮座する浅間神社・神部かんべ神社・大歳御祖おおとしみおや神社およびこれらの摂社・末社の総称。宗教法人名は神部神社・浅間神社・大歳御祖神社。「おせんげんさん」の名で親しまれる。浅間神社は木花開耶姫命を主神とする富士浅間社(富士山本宮浅間大社)を勧請したもので、富士新宮・浅間新宮ともよばれている。神部神社は大己貴命を祀る駿河国惣社で、大歳御祖神社は元来奈吾屋なごや社ともよばれ、大歳御祖命を祀る産土神である。現在の境内には、みやさき町側の赤鳥居正面に大歳御祖神社があり、その北東寄りの本殿は中央で二つに仕切られ、左が浅間神社、右が神部神社となっている。なお神部神社・大歳御祖神社は、「延喜式」神名帳にみえる安倍あべ郡七座のうちの「神部カムヘノ神社」「大歳オホトシ御祖神社」にそれぞれ比定される。

〔平安・鎌倉期の動き〕

元仁元年(一二二四)二月二〇日に「惣社并富士新宮」が焼失し、二二日には鎌倉幕府に伝えられ、翌日に検分のため北条義時の使者が派遣されている(吾妻鏡)。文暦元年(一二三四)一二月三日、浅間新宮の鐘が惣社別当憲信によって改鋳されているが(静岡浅間神社旧蔵の鐘銘拓本)、前述の焼失によるものであろう。なお鐘銘拓本によると、この鐘は延長四年(九二六)に鋳造され、承久三年(一二二一)にも改鋳されていたという。憲信は国分寺別当も兼ね、仁治三年(一二四二)建穂たきよう寺などで書写され、尼寺御堂(国分尼寺か)に施入された大般若経の奉納の願主である(久能寺旧蔵「大般若経巻一奥書」宮内庁書陵部蔵)。この時に書写された大般若経(鉄舟寺蔵を含む)は大歳御祖神社の什物と考えられる奈吾屋経で校合されており、そのなかには治承五年(一一八一)から同七年(寿永二年、一一八三)にかけて久能寺で同寺僧によって書写されたものが含まれている。憲信は寛元元年(一二四三)七月に有度うど八幡宮の大般若経の一本を、奈吾屋経で校合している(「大般若経奥書抜書」駿河国新風土記)。これらのことから、この時期に富士新宮・惣社・奈吾屋社の一体化が進み、国分寺・建穂寺・久能寺などがその供僧寺となっており、憲信が別当として力を振るっていたと思われる。元亨四年(一三二四)六月一八日、久能寺円恵が惣社最勝講田などを弟子幸慶に譲っている(「円恵譲状」久能寺文書)

〔南北朝期から戦国期の動き〕

建武元年(一三三四)五月二一日、駿河国司が新宮神主職に如意王を補任しているが(「駿河国国宣写」浅間新宮神主所蔵文書)、詳細は不詳。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「静岡浅間神社」の意味・わかりやすい解説

静岡浅間神社
しずおかせんげんじんじゃ

静岡市葵(あおい)区宮ヶ崎町に鎮座。正しくは浅間(あさま)神社。木之花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀(まつ)る。901年(延喜1)醍醐(だいご)天皇の勅願により富士宮市の浅間(あさま)神社を勧請(かんじょう)し創建したと伝え、中世以降北条・今川・武田氏らが保護。1586年(天正14)、徳川家康は駿府(すんぷ)入城とともに朱印領を寄せ、以後の将軍も崇敬した。明治の制で国幣小社。神部(かんべ)神社・大歳御祖(おおとしみおや)神社と同一境内にあり、全体を通称静岡浅間神社とよぶ。例祭4月5日。

[鎌田純一]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル大辞泉プラス 「静岡浅間神社」の解説

静岡浅間(せんげん)神社

静岡県静岡市葵区にある神社。神部神社・浅間(あさま)神社(二社同殿)と大歳御祖(おおとしみおや)神社の総称。通称「おせんげんさま」。神部神社は大己貴命(おおなむちのみこと)、浅間神社は木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)、大歳御祖神社は大歳御祖命をそれぞれ祀る。

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