壱岐郡(読み)いきぐん

日本歴史地名大系 「壱岐郡」の解説

壱岐郡
いきぐん

面積:一三八・三九平方キロ
石田いしだ町・ごううら町・芦辺あしべ町・勝本かつもと

壱岐島の全域を郡域とする。南西部に郷ノ浦町、南東部に石田町、北東部に芦辺町、北西部に勝本町がある。かつては壱岐郡と石田郡の二郡であったが、明治二九年(一八九六)に合併して新たに壱岐郡となる。壱岐郡の旧郡域は壱岐島の北東部側を占めており(慶長国絵図・天保郷帳など)、現勝本町と芦辺町にわたる範囲となっている。東部の郡境には内海があり、幡鉾はたほこ川が注ぎ、北西部の境には湯本ゆのもと湾・片苗かたなえ湾の深い入江がみられる。

〔古代〕

現勝本町の笹塚ささづか古墳では七世紀末頃までの追葬がみられ、豪華な金銅製馬具が発見されている。同町の串山くしやまミルメうら遺跡では亀卜甲が発見され、七―八世紀前半頃の住居跡とともに石組カマドやアワビ貝殻が大量に出土、アワビの加工を行っていたと推定され、これは交易品か畿内政権への献上品であったという。天智天皇三年(六六四)壱岐島に防人と烽が設置され、延暦一四年(七九五)防人は一時廃されるが、弘仁年間(八一〇―八二四)までには復活したとされる。このとき二関と一四ヵ所の要害が島内に設置されたといわれ(壱岐名勝図誌)、うち見目みるめ(現勝本町)箱崎はこざき(現芦辺町)の二関と風本かざもと浦海うろうみ(現勝本町)瀬戸せと(現芦辺町)などが郡域に含まれる。

「延喜式」神名帳に壱岐郡一二座として、名神大社の住吉神社・兵主ひようず神社・月読つきよみ神社・中津なかつ神社、小社のみず神社・阿多弥あたみ神社・国片主くにかたぬし神社・高御祖たかみおや神社・手長比売たながひめ神社・佐肆布都さしふつ神社・同佐肆布都神社・角上つのかみ神社がみえる。この式内社の多さは畿内政権にとって壱岐が対馬と同じく中国大陸・朝鮮半島に近接する位置にあって政治・軍事上および交通上から重視されていたことを示すものであろう。天平一六年(七四四)壱岐島に国分寺が置かれたが、「延喜式」玄蕃寮に「壱岐島直氏寺、為島分寺、置僧五口」とあり、新たな造立ではなく、すでにあった壱岐直の氏寺を島分寺としたもので、壱岐郡国分こくぶ(現芦辺町)に所在した。この寺跡では奈良期から平安期にかけての土師器が出土しており、発掘調査による寺域は東西約六〇メートル・南北約八〇メートルで、版築構造の基壇をもつ建物をはじめとする遺構が検出された。瓦は畿内系の均正唐草文軒丸瓦など平城系のものがあり、壱岐直が早くから畿内政権と関連があったことをうかがわせる。

宝亀三年(七七二)「壱岐島壱岐郡人直玉主売」が一五歳で夫を亡くしたあと改めて嫁がないことを誓って三〇余年にわたって夫の墓を守ったことから、爵二級を与えられたうえ終身田租を免じられている(「続日本紀」同年一二月六日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報