石田郡(読み)いしだぐん

日本歴史地名大系 「石田郡」の解説

石田郡
いしだぐん

壱岐島の南西部を占め、現在の石田町とごううら町にわたる(慶長国絵図・天保郷帳など)。北西部に郷ノ浦町、東部に石田町があり、東部の郡境には内海があり、幡鉾はたほこ川が注ぎ、北西部の境には湯本ゆのもと湾・片苗かたなえ湾の深い入江がみられ、南西部には半島状の渡良わたらがあり、その沖合におお島・なが島・はる島が浮ぶ。

〔古代〕

天智天皇三年(六六四)畿内の政権は壱岐島に防人と烽を設置し防備に努めた。延暦一四年(七九五)防人は一時廃されるが、弘仁年間(八一〇―八二四)までに復活したとされる。このとき二関と一四の要害が置かれ、当郡域の筒城つつき久喜くき(現石田町)初山はつやま本居もとい船越ふなこし綿浦わたら麦屋むぎや黒崎くろさき(現郷ノ浦町)朝崎あしたざき帆伝ほづてなどを含むという(壱岐名勝図誌)。天平八年(七三六)六月、遣新羅使の随員であった雪連宅満が航海途中で病にかかって死去、その遺体は当郡の石田野いわたのに葬られた。「万葉集」巻一五にその時の挽歌として「石田野に宿りする君家人のいづらとわれを問はば如何に言はむ」が載る。宅満は「松尾社家伊伎系図」にみえる宅麿に当たると考えられ、山城松尾まつお(現京都市西京区)の宮主として月読命を祀るとともに、壱岐島司に任じられ、壱岐卜部の系統を引く人物であることがうかがえる。父の古麿は詩に巧みで「懐風藻」にとられ、母は下野守秦大魚の女。雪野宅満のものという墓が現石田町池田東触いけだひがしふれにある。同町の原の辻はるのつじ遺跡では八世紀代から九世紀代の須恵器のほか、九世紀と推定される施釉陶器(椀・皿など六三点)や、白磁・青磁・黄釉褐彩などの初期貿易陶磁器や高麗系陶器、滑石製石鍋(瘤状把手付)製塩土器などが出土。同所出土の木簡に「白玉六□」(升または斤)、「赤万呂七八升」などとあり、貢進にかかわるものと考えられ、官衙的性格がうかがえる。

郡内に石田・物部ものべ時通ゆうず篦原しはら沼津ぬまづの五ヵ郷があり(和名抄)、下郡に相当する(「養老令」戸令定郡条)。石田郡家は現郷ノ浦東触の郡ひがしふれのこおり・上郡を含む一帯に比定されるが、この地は一千戸の町があって大屋おおや千軒・郡千軒と俗称されたという(壱岐名勝図誌)。郷ノ浦を郡ノ浦の転訛とみて郡津と想定、北西の郡園が軍団の遺称地とする指摘もある。郡領には壱岐氏があてられ、その子孫が世襲したと思われる。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に壱岐国二駅の一つとして優通ゆうず駅がみえ、駅馬五疋が置かれた。「和名抄」に記される時通郷に駅家と注記があるので同郷に優通駅が置かれていたのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報