伊予国(読み)イヨノクニ

デジタル大辞泉 「伊予国」の意味・読み・例文・類語

いよ‐の‐くに【伊予国】

伊予

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日本歴史地名大系 「伊予国」の解説

伊予国
いよのくに

伊予の名は「古事記」の伊邪那岐・伊邪那美二神の国生みの条にみえ、「次に伊予之二名いよのふたなの島を生みき。此の島は、身一つにしておも四つ有り。面毎に名有り。故、伊予国は愛比売えひめと謂ひ、讃岐国は飯依比古と謂ひ、粟国は大宜都比売と謂ひ、土左国は建依別と謂ふ」とある。伊予の二名島とは四国島の総称で「身一つにして面四つあり」は四国島の地形がおよそ四区分され、土地には神霊が宿るとする古代人の信仰を示すものであろう。愛比売は伊予国にやどる女神で、愛媛県という県名の起源となっている。

「いよ」は伊予のほか、伊余・伊与・伊預、または夷与などと書かれるが本来、温湯をさす語で、「国号考」にいうように「ユ」が「ヨ」となり、和銅六年(七一三)の二字の好字を用いる制に従って発語の「イ」を付け「イヨ」としたもので、それは今日の道後どうご温泉(現松山市)が古代伊予の文化発祥の中心であったことによると考える。

原始

伊予国でも近年、瀬戸内海の島嶼部(越智郡弓削ゆげ町・生名いきな村)で旧石器時代に槍先に使用された尖頭石器や、ナイフ形の細石器が発見された。しかしそれよりも人目を驚かせたのは昭和三六年(一九六一)上浮穴かみうけな美川みかわ上黒岩の岩陰かみくろいわのいわかげ遺跡の発見であった。土佐湾に注ぐ仁淀によど川の上流、久万くま川の河岸段丘上に屹立する石灰岩の岩陰の地下五メートル、第九層といわれる住居跡から有舌尖頭石器や細隆起線文土器が発見され、炭素放射能測定で約一万二千年前とされた。また同時出土の緑泥片岩の五―八センチ大の河原石十数個には女神像らしいものが線刻されており、ここは縄文草創期の住居跡とされている。また同年にこの遺跡に準ずるものとして東宇和ひがしうわ城川しろかわ町の穴神洞あながみどうが発見された。早期の遺跡としては上黒岩第四層で押型文土器と二〇体余の人骨が出土し、寛骨かんこつに鹿の骨で作った篦状の槍先が刺さった男子の腰骨もみられた。また穴神洞でも種々の押型文土器が出土、同じく城川町中津川洞なかつがわどう遺跡からもこの期の無文土器が出土している。

前期の明確な遺跡は数少ないが遺物の断片は上黒岩・中津川・南予の各地で出土、中期についても中津川や南宇和郡一本松いつぽんまつ町・上浮穴郡久万町・西条さいじよう市倉いちくらのほか来島くるしま海峡に臨む越智おち波方なみかた町海岸でこの期の土器を多く採取した。後期に入ると遺跡の数は増加する。代表的なものは南宇和郡御荘みしよう町の平城ひらじよう貝塚で、僧都そうず川に突き出た台地の縁端に位置し、ここに出土した磨消縄文土器は九州北部の鐘ヶ崎式によく似ており、また瀬戸内海北部の中津式・津雲式なども含まれ広域の文化交流が考えられる。

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改訂新版 世界大百科事典 「伊予国」の意味・わかりやすい解説

伊予国 (いよのくに)

旧国名。伊与とも書く。予州。現在の愛媛県の全域にあたる。

南海道に属する上国(《延喜式》)。国府は越智(おち)郡(今治市とその周辺)におかれ,国内には,宇麻(宇摩),神野(のち新居(にい)に改める),周敷(すふ),桑村,越智,野間,風早(かざはや),和気,温泉(ゆ),久米,伊予,浮穴(うけな),宇和(のち喜多郡を分郡)の各郡があった。古く伊余(いよ),怒麻(ぬま),久味(くみ),小市(おち),風速の5国造が置かれていたといわれ,大化改新後伊予国となった。律令時代には条里制が施行され,その遺構は今も,今治市,西条市,新居浜市,松山市などの平野部に多く残されている。また大岡,山背,近井,新居,周敷,越智の6駅が置かれ,駅路が整備された。温泉郡の道後温泉は早くから知られ,多くの皇族や万葉歌人が来浴した。中でも聖徳太子は入湯の際に伊予温湯碑(伊予道後温泉碑文)を建立したと伝えられ,また斉明天皇は,661年,朝鮮半島へ向けて西征の途次ここに立ち寄った。律令制の動揺とともに伊予国は海賊の活躍する舞台となった。とくに前伊予掾藤原純友は,939年(天慶2)反乱をおこし,伊予ばかりでなく,讃岐,周防,土佐を侵略し,さらに大宰府にまで進出した。律令政府は,小野好古,橘遠保らの軍勢を派遣して,941年にこれを鎮圧した。平安後期になると,それまでの初期荘園(例えば東大寺領新居荘など)のほかに,新たに多くの寄進地系荘園が成立した。例えば,鳥羽院領越智郡弓削島荘,仁和寺法勝院領宇摩郡豊村荘,八条院領新居郡大島荘,上醍醐寺円光院領越智郡大島荘などがそれである。中でも弓削島荘では,国衙官人の非法に反対する住民たちの抵抗が見られた。また同じころ,河野氏新居氏などの武士団が形成された。両氏はともに越智氏の流れをくむと伝えているが,河野氏は風早郡を,新居氏は越智郡や新居郡を勢力範囲として互いに勢力を競った。源平の争乱は,このような河野・新居両氏の競合状態に決着をつけた。平氏にくみした新居氏は没落し,源氏に味方した河野氏は大いに勢威をふるうことになった。

鎌倉幕府の成立とともに,伊予国の守護として佐々木盛綱が任命されたが,まもなく宇都宮氏にかわった。宇都宮氏の守護職は鎌倉末まで続いた。国内では河野通信や忽那(くつな)氏が御家人の地位を得た。国内で最も有力な武士団に成長した河野氏は,その後承久の乱に京方に味方して没落したが,元寇時の河野通有の奮戦によって勢力を一部回復した。一方鎌倉期にはいると国内の荘園は著しく増加し,越智郡,伊予郡を中心にしてその数は二十数ヵ荘を数えるに至った。遍照心院領新居郡新居荘,東寺領越智郡弓削島荘,感神院領桑村郡古田郷,賀茂別雷神社領野間郡菊間荘,平頼盛領喜多郡矢野荘,西園寺家領宇和郡宇和荘などがその代表的なものである。なかでも弓削島荘や古田郷では,在地支配をめぐって地頭,荘官,農民の間に激しい対立が生じた。また,鎌倉期の伊予国は2人のすぐれた宗教家を生んだ。1人は時宗の開祖一遍であり,他の1人は東大寺の学僧凝然である。一遍は,遊行と踊念仏に一生をすごして多くの人々を教化し,凝然は東大寺戒壇院に居を定めて著作に専念し,大部の書を残した。

 南北朝期にはいると,国内の武士団の多くは惣領家と庶家に分裂した。河野氏は惣領家の通盛が北朝方にくみしたのに対し,庶家の土居・得能氏が南朝方として活動した。また忽那氏では庶家忽那義範が南朝方に属してめざましい活躍を示した。彼は一貫して南朝支持の立場を堅持し,懐良親王の忽那島(現松山市,旧中島町)下向の際にはその護衛に任じ,さらに海上機動力を駆使して瀬戸内海の各地に転戦した。また南北朝後期には,四国制覇をめざす細川氏の伊予侵略が見られた。河野氏をはじめとする国内武士はこれに抵抗したが,結局宇摩,新居の東予2郡は細川氏の支配下にはいった。すでに南北朝期に伊予の守護に任ぜられていた河野氏は,南北朝の合一後もその支配力を強化し,やがて守護大名の地位を築いた。明徳・応永の両乱にも出兵して幕府を助けるなどその地位は一時安定していたが,15世紀の半ばに至って2家に分裂し,それ以後混乱が続いた。

 このような河野氏は,戦国期にはいっても伊予一国を支配する戦国大名に成長することができず,国内にはいくつかの土豪勢力が割拠した。東予地方には,細川氏の被官から成長した石川氏が新居郡の高峠(たかとうげ)城(西条市)を拠点にして勢力をはり,南予地方では,鎌倉期の守護の末裔と伝えられる宇都宮氏が地蔵岳(じぞうがだけ)城(大洲市)に,またかつての宇和荘の荘園領主の流れをくむと伝えられる西園寺氏が黒瀬城(現西予市,旧宇和町)を拠点にしてそれぞれ勢力を有した。また芸予諸島を中心とする瀬戸内海域では,村上水軍を中心とする海賊衆の活躍が見られた。村上氏は南北朝期から姿を見せはじめるが,その活躍の最もめざましいのは戦国期である。彼らは,伊予能島(のしま)(現今治市,旧宮窪町),来島(くるしま)(今治市),備後因島(いんのしま)(現広島県尾道市,旧因島市)の3家に分かれて三島(さんとう)村上氏と総称されたが,互いに強固な同族意識で結ばれていた。海流の激しい水路の縁辺や見通しのよい島かげに城塞を築いて,海上を航行する船から関銭や警固料を徴収したが,海上の合戦にもしばしば動員された。また村上氏は,一応河野氏の統制下にあったが,必ずしもその束縛にとらわれず,各地の戦国大省略名と比較的自由な提携関係をとり結んだ。例えば山名氏,大内氏,尼子氏,大友氏などが一時期にせよ,その海上勢力を利用した。しかし,戦国末期には毛利氏との関係が強くなり,やがて近世にはその船手衆として家臣団の中に組み込まれていった。戦国期の伊予国に一国を統一する強力な戦国大名が現れなかったことは,しばしば周辺の戦国大名の侵略を招く結果となった。中国地方に勢力を誇った大内氏や毛利氏は,瀬戸内の島づたいに勢力をのばし,豊後の大友氏は豊後水道をわたって南予地方に侵攻した。また土佐の長宗我部氏は,東予地方の金子氏と提携したうえで,南予地方への侵略をくり返した。このような混乱した状態は,やがて強力な豊臣秀吉軍によって統一された。1585年(天正13),秀吉は小早川隆景を先陣として四国征伐の軍を送った。隆景は,長宗我部氏の支援をうけて抵抗の姿勢を見せる金子氏を討つために東予地方に上陸し,圧倒的な軍事力にものをいわせてやがて中・南予も制圧した。
執筆者:

秀吉の四国征伐後,小早川隆景が伊予国の領主となった。1587年には福島正則が湯築(ゆづき)城に,戸田勝隆が大津城(大洲城)に入った。勝隆は宇和郡内の旧領主西園寺公広を謀殺し,土豪を弾圧し(戸田騒動),太閤検地を強行した。こうして幕藩制が成立し,17世紀前半までに伊予8藩,宇和島・吉田・大洲・新谷(にいや)・松山今治・小松・西条の各藩が分立した。城郭・城下町の存在したのは宇和島・大洲・松山・今治の4藩で,他は陣屋町が形成された。太閤検地における伊予国の総石高は40万石であった。土地制度では宇和島藩の鬮持(くじもち)制(1673-1743),松山・今治両藩の地坪(じならし)制のように,近世前期に農民の耕地の平均化をはかる村落共同体維持のための制度があった。伊予国の百姓一揆は約110件,全国的にも多発地域に入る。とくに四国山脈ぞいの山地に多い。藩別では宇和島藩44件,松山藩28件,大洲藩19件,吉田藩15件である。1741年(寛保1)松山藩の久万山(くまやま)騒動,50年(寛延3)大洲藩の内ノ子騒動,93年(寛政5)吉田藩の武左衛門一揆,1870年(明治3)宇和島藩の野村騒動などが有名である。宇和島・吉田両藩では,庄屋が過大な権力を持っていたため村方騒動が多発した。産業では,1690年(元禄3)大坂の泉屋(住友家)が天領の宇摩郡別子山村で銅鉱石の露頭を発見して以来,別子銅山は国内最大の銅山となった。各藩の特産品には,宇和島・吉田両藩の干鰯(ほしか)・泉貨紙・木蠟・縞木綿,大洲藩の木蠟・半紙・砥部(とべ)焼,松山藩の縞木綿・伊予絣・菊間瓦,今治藩の白木綿,宇摩郡の和紙などがある。瀬戸内海沿岸・島嶼部には松山・今治・西条の各藩の塩田が盛行した。これらの特産品は近世初期から幕末にかけて発達し,伝統産業,近代産業として著名なものがある。

 文化の面では,俳諧で宇和島藩家老桑折宗臣(こおりむねしげ)が1672年(寛文12)に《大海集》7巻を編纂し,全国の俳人の句1760を選んだ。蕉風俳諧も盛行した。化政期には小林一茶も来て,栗田樗堂(くりたちよどう),百済漁文らと親交があった。宇和島藩の七種(ななくさ)連歌は仙台藩の伝統を継承し,江戸期を通じて盛行し,桜田千本(せんぼん)のような歌人を生んだ。宇和郡三間(みま)地方の小領主土居清良の一代記《清良記》は戦記物として知られるが,その第7巻〈親民鑑月集〉は,寛永初年に三間宮野下(みやのした)三島神社の神官土居水也が編纂した日本最古の農書といわれる。また,宇和島藩には井関盛英が編纂した《宇和郡旧記》(1681),《弌墅截(いちのきり)》があり,江戸初期の農事・文化水準の高さをうかがわせる。宇和島藩主伊達宗紀(むねただ)は藩士2人を佐藤信淵に入門させ,天保期以降,殖産興業政策を展開した。藩学は大洲藩の止善書院明倫堂(1747),宇和島藩の内徳館(1748,のち敷教館,明倫館,明誠館),新谷藩の求道軒(1783),吉田藩の時観堂(1794),小松藩の培達校(1802,のち養生館),松山藩の興徳館(1805,のち明教館),今治藩の講書場(1805,のち克明館),西条藩の撰善堂(1805)がある。学者としては,日本陽明学の祖中江藤樹は大洲藩に仕えて大きな影響を残し,その学派に川田雄琴がある。宇和島藩の内徳館教授安藤陽州は京都古義堂の出身であり,寛政期に岡研水が朱子学を導入した。寛政の三博士の一人尾藤二洲は川之江に生まれ,その弟子近藤篤山は小松藩に仕えて伊予聖人といわれた。松山藩の日下伯巌も朱子学者で,心学の田中一如は松山に六行(りくこう)舎を開いた。国学者には大洲の矢野玄道(はるみち)がある。宇和島藩は伊達宗城(むねなり)がさかんに蘭学を摂取した。嘉永年間に高野長英,村田蔵六(大村益次郎)が来藩し,藩内にはシーボルトの弟子二宮敬作とその甥三瀬周三(諸淵(もろぶち))がいた。シーボルトの娘いねも宇和島に来住し,幕末の宇和島藩の蘭学・洋学は花開いた観がある。

 幕末・維新に,松山藩は親藩としての立場を崩さなかった。これに対し,宇和島藩は5代藩主村候(むらとき)の寛保~宝暦期のあと,7代宗紀の文政・天保期の改革における富国政策の成功の後をうけて,8代宗城は軍事の近代化を進め,安政期の改革を行った。また,一橋派・公武合体派の有力大名として活動し,幕末四賢侯の一人に数えられ,明治新政府の成立後は大蔵卿兼民部卿にもなった。宇和島藩の藩政改革は,藩主主導の下に側近の家臣を集める形で行われ,有為な人物を輩出した。松根図書,吉見長左衛門(伊能友鷗),林玖十郎得能亜斯登(とくのうあすと)),都築荘蔵らがそれである。維新後,版籍奉還後諸藩は藩制を改革し,松山藩は大参事以下の官吏,藩庁に藩政局・会計局・民政局等の機構を設けた。1871年廃藩置県後,11月に松山・今治・小松・西条の4県が松山県,宇和島・吉田・大洲・新谷の4県が宇和島県となり,翌年2月松山県は石鉄(いしづち)県,6月宇和島県は神山(かみやま)県と改称され,両県は73年2月に愛媛県となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊予国」の意味・わかりやすい解説

伊予国
いよのくに

現在の愛媛県全域にあたる旧国名。南海道に属する。国名は「い湯(ゆ)」(は発語)すなわち温泉の意に由来するという。原始時代の伊予は、各地で発掘された遺跡・遺物によってその大要を知りうる。すなわち、上浮穴(かみうけな)郡久万高原(くまこうげん)町上黒岩(かみくろいわ)で縄文早・前期、南宇和(みなみうわ)郡愛南(あいなん)町御荘平城(みしょうひらじょう)をはじめ県下の各地で後・晩期の遺物が発掘された。松山市南町付近、今治(いまばり)市阿方(あがた)貝塚では弥生(やよい)前期の土器、松山市祝谷(いわいだに)土居窪(どいのくぼ)遺跡では中期の木鍬(きぐわ)などを出土した。松山市古照(こでら)遺跡から後期に属する農業用の井堰(いぜき)が、西予(せいよ)市、松山市、西条(さいじょう)市などから67口の銅剣、銅鉾(どうほこ)が発見された。今治市相ノ谷(あいのたに)の前方後円墳は古墳時代の前期を代表し、今治(いまばり)市朝倉野々瀬七間塚(円墳)をはじめ各地に後期のものが分布している。『旧事本紀(くじほんぎ)』によれば、古く伊余(いよ)、怒麻(ぬま)、久味(くみ)、小市(おち)、風速(かざはや)の5国造(くにのみやつこ)が置かれたというが、大化改新(645)ののち、伊予国は宇摩(うま)、新居(にい)(初め神野(かんの))、周敷(すふ)、桑村、越智、野間(のま)、風早(かざはや)、和気(わけ)、温泉(ゆ)、久米(くめ)、浮穴(うきあな)、伊予、喜多(きた)、宇和の14郡、その下に68郷、191里が置かれ、律令(りつりょう)体制が整備した。国府、国分寺は現在の今治市内にあると推定される。地方政治の弛緩(しかん)するなかで、前伊予掾(いよのじょう)の藤原純友(すみとも)が宇和郡日振(ひぶり)島に拠(よ)って海賊を糾合し、承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱(936~941)を起こした。源平合戦にあたり、河野通信(こうのみちのぶ)らは率先して源頼朝(よりとも)に応じ、壇ノ浦(だんのうら)の戦いに功績をあげ地方勢力を形成した。建武(けんむ)新政の崩壊後も、風早郡忽那(くつな)七島に拠った忽那義範(くつなよしのり)は、征西将軍懐良(かねなが)親王を迎え西瀬戸内海を席巻(せっけん)した。一方、足利尊氏(あしかがたかうじ)に信頼された河野通盛(みちもり)およびその子孫は、守護職を留保した。応仁(おうにん)の乱(1467~77)前から河野氏は本家と予州家が争い、家臣団の離反と周辺の群雄の重圧によって領国の維持は困難となった。1585年(天正13)豊臣(とよとみ)秀吉の四国征伐にあい河野氏は滅亡し、1657年(明暦3)までに西条(さいじょう)、小松(こまつ)、今治、松山、大洲(おおず)、新谷(にいや)、宇和島、吉田の8藩が成立した。中期以降、粗銅、西条奉書(ほうしょ)、伊予絣(がすり)、大洲半紙、仙貨紙(せんかし)の生産のほか製蝋(せいろう)、製塩が盛んとなった。松山明教館をはじめ8藩に藩校が置かれ、朱子学が普及した。松山藩に俳諧(はいかい)、大洲藩に国学が発達したのに対し、宇和島藩では蘭学(らんがく)が勃興(ぼっこう)して、開明的な勤王藩として活躍した。

 維新後、8藩は8県となり、やがて松山、宇和島の2県に、さらに1873年(明治6)2月愛媛県に統合された。

[景浦 勉]

『『愛媛県史概説 上巻』(1959・愛媛県)』『景浦直孝著『伊予史精義』(1924・伊予史籍刊行会/復刻版・1972・名著出版)』『『愛媛県編年史』全10巻(1975・愛媛県)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「伊予国」の解説

いよのくに【伊予国】

現在の愛媛県域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で南海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の今治市におかれていた。平安時代中期に藤原純友(ふじわらのすみとも)らが日振島(ひぶりしま)を拠点に反乱を起こし、それを平定した越智(おち)氏が土豪として勢力をふるった。鎌倉時代以降、佐々木氏宇都宮氏河野氏細川氏、山名氏らが守護となったが、土佐(高知県)の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に平定された。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の四国平定後、小早川隆景(こばやかわたかかげ)福島正則(ふくしままさのり)、加藤嘉明(かとうよしあき)、藤堂高虎(とうどうたかとら)が領有した。1690年(元禄(げんろく)3)以後、別子(べっし)銅山は国内最大の銅山となった。江戸時代には、宇和島、松山など8藩が分立、幕末に至った。明治維新後、8藩は8県となったが、1871年(明治4)の廃藩置県ののち宇和島県と松山県の2県となり、1872年(明治5)に宇和島県は神山(かみやま)県、松山県は石鉄(いしづち)県と改称、1876年(明治9)に合併し愛媛県となった。◇予州(よしゅう)ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊予国」の意味・わかりやすい解説

伊予国
いよのくに

現在の愛媛県。『古事記』に「愛比売」とみえる。南海道の一国。上国。もと伊余,久味,小市,怒麻,風速の5国造が支配。国府,国分寺ともに今治市桜井町。『延喜式』には宇麻 (うま) ,新居 (にひゐ) ,周敷 (しゆふ) ,桑村 (くはむら) ,越智 (をち) ,野間 (のま) ,風速 (かさはや) ,和気 (わけ) ,温泉 (ゆ) ,久米 (くめ) ,伊予 (いよ) ,浮穴 (うけな) ,宇和 (うわ) ,喜多 (きた) の 14郡があり,『和名抄』には郷 68,田1万 3501町余が記載されている。平安時代の天慶年間 (938~947) 藤原純友が反乱を起したのは当国の日振島である。鎌倉時代の守護として,佐々木氏,宇都宮氏が知られる。室町時代には細川氏,河野氏が守護に任じられたが,このうち河野氏は越智氏,村上氏,忽那 (くつな) 氏とともに伊予の海賊 (水軍) としてその名を天下にはせた。豊臣秀吉は小早川隆景福島正則に次いで文禄4 (1595) 年,加藤嘉明を伊予国に封じた。江戸時代には松平氏松山藩,加藤氏大洲藩,伊達氏宇和島藩など数藩あり,明治4 (1871) 年7月,廃藩置県により各藩は県となったが,同年 11月には宇和島県と松山県との2県に併合され,1873年に愛媛県となる。

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百科事典マイペディア 「伊予国」の意味・わかりやすい解説

伊予国【いよのくに】

旧国名。予州とも。南海道の一国。現在愛媛県。《延喜式》に上国,14郡。中世,佐々木・宇都宮・河野氏らが守護,その末期,長宗我部・小早川氏らが支配。近世,松山・宇和島・大洲(おおず)などの諸藩に分かれていた。→松山藩
→関連項目宇和島藩愛媛[県]四国地方弓削島荘

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「伊予国」の解説

伊予国
いよのくに

伊余国・伊与国とも。南海道の国。現在の愛媛県。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では宇摩(うま)・新居(にいい)・周敷(すう)・桑村・越智(おち)・濃満(野間)(のま)・風早・和気・温泉(ゆ)・久米・伊予・浮穴(うきあな)・喜多・宇和の14郡からなる。国府・国分寺・国分尼寺は越智郡(現,今治市)におかれた。一宮は大山祇(おおやまづみ)神社(現,今治市大三島町)。「和名抄」所載田数は1万3501町余。「延喜式」では布帛とともに多くの海産物の貢進を規定。7世紀に国司の前身として総領の存在が知られる。10世紀には海賊を率いる藤原純友が乱をおこした。中世には河野氏が勢力をもつが,他国からの侵攻で強固な守護大名にはなれなかった。17世紀後半に伊予八藩とよばれる藩が成立,以後幕末まで続く。1871年(明治4)廃藩置県の後,松山県(翌年石鉄(いしづち)県と改称)・宇和島県(翌年神山(かみやま)県と改称)が成立。73年2県は統合して愛媛県となる。

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