松本村(読み)まつもとむら

日本歴史地名大系 「松本村」の解説

松本村
まつもとむら

[現在地名]港南区港南一―六丁目・港南中央通こうなんちゆうおうどおり

東は大岡おおか川を境に上大岡かみおおか村、西は相模国鎌倉郡谷上やかみ村、南西は吉原よしわら村、南は雑色ぞうしき村・せき村、北は久保くぼ村に接する。村内に二筋の川があり、大岡川は関村から上大岡村へ流れ、日野ひの川は吉原村から久保村に流れる。金沢かねさわ道は上大岡村から関村に達する。村内、西に七里堀しちりぼりとよぶ古道があり、久保村から下野庭しものば村に続く。鎌倉道ともよぶ。

中世は杉田すぎた郷のうち(→関村正保国絵図には下郷村、元禄国絵図に松下村とある。近世は寛文二年(一六六二)から九年の久世(のち下総関宿藩)領、元禄五年(一六九二)から七年の柳沢(のち大和郡山藩)領を除き幕府直轄領。同一〇年以後旗本服部・藤川・松風領。田園簿は「下郷」として関村記載と同じ。元禄九年七月の松本村割郷水帳(横浜開港資料館蔵)には田一一町七反余、畑一三町四反余とある。

松本村
まつもとむら

[現在地名]石和町松本

山崎やまざき村の西、大蔵経寺だいぞうきようじ山南麓に東西に広がる。山梨郡万力まんりき筋に属する。南西は川田かわだ(現甲府市)。南部を笛吹川が西流、平等びよつどう川が地内を南西方向へ流れ、青梅おうめ往還が東西に通る。三町ほど南西に枝郷の山岸やまぎしがある。「王代記」永正一三年(一五一六)条によれば、九月二八日武田信虎と駿河の今川勢が万力(現山梨市)で戦った際、八幡山(現山梨市普賢寺)、松本、七覚しつかく(現中道町)などが焼亡したとある。この松本を当地とするのが一般的だが、当地に所在する大蔵経寺の山号松本山の意とする説もある。天正二年(一五七四)三月二八日には武田勝頼が「松本郷之内弐拾緡」(二〇貫文)を武田逍遥軒(信廉)の寄進状に基づき逍遥しようよう(現甲府市)に安堵している(「武田勝頼判物」逍遥院文書)。武田氏滅亡後の同一一年四月一九日に永昌えいしよう(現山梨市)に対し同郷内の逍遥院分と号する二〇貫文が安堵されたのは(「徳川家康判物写」永昌院文書)、武田氏の安堵を引継いだもので、逍遥院が永昌院の末寺であったからである。それ以外には同日付で善光ぜんこう(現甲府市)に一二貫文の郷内の地が安堵され(「徳川家康印判状写」善光寺文書)、同年九月二一日には某に対して当郷内二〇貫三五〇文および同所のうち徳分一貫五〇〇文を本給として安堵している(徳川家印判状写「古文書雑集」若尾資料)

松本村
まつもとむら

[現在地名]大津市松本一―二丁目・石場いしば打出浜うちではま本宮もとみや一―二丁目・朝日あさひおか一―二丁目・松本石場町まつもといしばちよう松本本宮町まつもともとみやちよう梅林町うめばやしちよう

大津町の東に位置し、琵琶湖岸に近く東海道が通る。分間延絵図では大津町の町並が当地にも続く。文献上は東の馬場ばんば村とともにみえることが多く、中世は水陸交通の要所で湖に生業を求めた供御人の活動も知られる。地名は松に由来し、近江八景の一つ唐崎からさきにある松は天智天皇の命で当地の松を植替えたものという(輿地志略)。当地も松本帰帆として元禄二年(一六八九)の「京羽二重織留」にあげられるが、これは中世以来の松本浦(石場)・打出の浜での景観をさすものであろう。なお地内の荘堺しようざかいという地名は、中世粟津あわづ庄に含まれていたとされることから、同庄境を示すものと思われる。

文禄五年(一五九六)一〇月一五日の長束正家・前田玄以連署書状写(遠藤文書)に「松本新町」とみえ、町場化していた当地を検地のあと京極高次に引渡すことが明記されている。これ以前天正一九年(一五九一)より文禄四年まで大津城主新庄直頼の弟直寿が「松本町奉行」を勤めていたという(慶長八年「大津百艘船由緒書上」大津市史)

松本村
まつもとむら

[現在地名]四日市市松本一―六丁目・西松本にしまつもと町・松本・青葉あおば

鹿化かばけ川の北、同川上流の川島かわしま村の東方にある。村の西方は丘陵、北に大井手おいで村がある。「神鳳鈔」に「二宮松本御厨三丁、三石」とでる。「吾妻鏡」元久元年(一二〇四)四月二一日条に「自今月十日、至同十二日合戦、先襲進士三郎基度朝明郡冨田之館、挑戦移尅、誅基度、并舎弟松本三郎盛光、同四郎々々」とあり、いわゆる三日平氏の乱に際して討たれた進士基度の弟がいたことが知られる。この城館跡といわれるものが、村の西方丘陵端にあったが、団地造成のため削平され現在は消滅。

松本村
まつもとむら

[現在地名]相良町松本

西山寺さいさんじ村の東に位置し、萩間はぎま川の中流右岸に立地する。南は西中にしなか村。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高二一二石余。慶長九年(一六〇四)八月一八日の榛原郡相良庄松本村検地帳(川田家文書)が残り、名請人三四人。同月二三日の年貢割付状(同文書)では上田五町五反余・中田五町九反余・下田四町五反余、上畠一町三反余・中畠七反余・下畠二町三反余・屋敷四反余、取米合一二四石余。正保二年(一六四五)幕府直轄領から掛川藩預となる(掛川預一万石郷村覚)正保郷帳では田方一九五石余・畑方三一石余、掛川藩預。元禄郷帳では高二三〇石余で、以後村高は幕末まで変わらない。

松本村
まちむとうむら

[現在地名]沖縄市松本まつもと一―七丁目・松本・明道あけみち一丁目・知花ちばな一―二丁目

美里んざとう村の北にあり、集落の西側を比謝ひじや川の支流であるカフンジャー(嘉普武川)が西へ流れる。美里んざとう間切に属する。マチムトゥとよび、松元村とも記される。絵図郷村帳・琉球国高究帳とも村名は記されない。「琉球藩雑記」によれば、美里間切大村渠うふんだかり村の脇地頭は松本親雲上を名乗り、また林姓平安座家家譜と斉姓松本家家譜には大村渠村の地頭となって松本を称したとあることから、大村渠村は松本村のことである。

松本村
まつもとむら

[現在地名]松任市松本町

笠間かさま村の西に位置し、北は日本海に面する。北部を山島やまじま用水、南部を大慶寺だいぎようじ用水が流れる。中世は西笠間保(笠間保)に含まれ、長禄二年(一四五八)八月二七日、京都北野社某は笠間保のうち「松本一跡」を当地の土豪とみられる松本三郎次郎に宛行っている(「某社領安堵状」北野社家引付)。長享二年(一四八八)一一月六日、中沢基重・某吉久は日野富子の意を奉じ、西笠間保松本の兵衛に対し結城比楽七郎の比楽ひらか北島きたじまの知行回復を命じた(北野社家日記)

松本村
まつもとむら

[現在地名]江戸川区松本一―二丁目・東松本ひがしまつもと一―二丁目・中央ちゆうおう三―四丁目・大杉おおすぎ五丁目・南小岩みなみこいわ四―五丁目

本一色ほんいつしき村の西に位置し、北は興野宮おきのみや村、東は鹿骨ししぼね村、南は東小松川ひがしこまつがわ村。西端を用水の中井なかい堀、東端を東井ひがしい堀が南流、北端を東西に元佐倉道が通る。中世は葛西かさい御厨のうちで、応永五年(一三九八)八月日の葛西御厨田数注文写(鏑矢記)に「松本 十六丁 公田九反小」とある。北条氏所領役帳には森弥三郎分として葛西「松本郷」二〇貫文がみえ、このうち一〇貫文は「当年改而被仰付半役」とある。松本郷はもと富永氏の知行分であった。田園簿に村名がみえ、田四一九石余・畑七〇石余、ほかに舟役一艘分永一〇〇文が課せられている。

松本村
まつもとむら

[現在地名]八千代町松本

北の吉田よしだ用水、南の東仁連ひがしにれ川によって画された台地上に位置し、北は菅谷すぎのや村・大戸村おおとむら新田。近世の集落は菅谷村に至る道沿いにあり、わか村から水口みのくち村へ通じる道が東西に交差していた(弘化年間の道標)。二四の小字のなかには香取腰かとりごし仏島ほとけじま菩提抜ぼだいぬき古薬師ふるやくし権現腰ごんげんごし土宮後つちみやうしろやまかみ坊山ぼうやまなど寺社をしのばせるものがあり、また於天奈付おてなつきというのもある。「各村旧高簿」によれば幕末には村高一九三石で旗本石尾銑次郎の知行地。

松本村
まつもとむら

[現在地名]高山市松本町

みや川が大八賀だいはちが川と合流するあたりから、川上かわかみ川と合流するあたりまでの右岸に沿って続く村。越中街道が通り、西は大八賀川を挟んで本母ほのぶ村。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では大八賀郷に属する。塩屋しおや村・山口やまぐち村とともに高付され高四八〇石余、うち田方三二二石余・畑方一五七石余、物成高一六四石余。同一八年の郷帳では松本村として八四石余。元禄検地反歩帳の高一一二石余、田一五町五反余・畑三町二反余。

松本村
まつもとむら

[現在地名]各務原市松本町・前渡西町まえどにしまちなど

羽栗はぐり郡に属し、北は各務かかみ山脇やまわき村、東は同郡下切しもぎり村、西は上中屋かみなかや村に接し、南を木曾川が限る。「新撰美濃志」は上中屋村に含まれたと記し、明治大学刑事博物館本元禄郷帳に「上中屋村之内 松本村」とみえる。元禄期(一六八八―一七〇四)以降に分村したと思われ、天保郷帳では上中屋村枝郷と記され、高七三石余。ただし万治三年(一六六〇)から旗本坪内の分家築地領となり、当村に陣屋が置かれて幕末に至った(各務原市史)。慶安二年(一六四九)の検地帳(小島文書)に松本村とみえ、高八四石余、田三町三反余・畑三町七反余・屋敷七畝余。

松本村
まつもとむら

[現在地名]三原町志知松本しちまつもと

難波なんば村の北西にあり、東部をまえ川、西部を松本川(水無瀬川の下流)が各々北流する。阿那賀あなが道が南東から北西に通る。正保国絵図に村名がみえ、高二三一石余。天保郷帳では高二九九石余。反別戸数取調書によると反別二一町余、高二九八石余、うち蔵入高三二石余・給知高二六七石余。給人は小南益太ら五人。ほかに伊勢太神宮領六斗余があった。家数三二・人数一六二。水利は蟇淵がまぶち池・まつ池などの溜池がある(味地草)

松本村
まつもとむら

[現在地名]中井町松本

南境を中村なかむら川が流れ、東境を流れる岩倉いわくら川を南東で合し、西は栃窪とちくぼ(現秦野市)高尾たかお(現大井町)、北は岩倉村・境別所さかいべつしよ村、大住おおすみ平沢ひらさわ(現秦野市)と接する。正保国絵図に村名が載る。近世は初め旗本曲淵領。元和九年(一六二三)幕府直轄領、寛永九年(一六三二)より小田原藩領、元禄一二年(一六九九)稲葉正倚に分知、享保一七年(一七三二)以後幕府直轄領。

松本村
まつもとむら

[現在地名]竜洋町松本

天竜川下流域東岸に位置し、西は同川、南は堀之内ほりのうち村、北は高木たかぎ村。慶長初年に同村から分村して成立したという(磐田郡誌)。天正一九年(一五九一)一一月二〇日の四拾七村惣高辻書上(横山家文書)によると高木松本の高九三石余。松平忠頼領郷村帳に村名がみえ高一〇七石余、田三町七反余・畑九町三反余、ほかに新福しんぷく寺領二石。元禄郷帳によれば高一二一石余。領主の変遷は元和三年(一六一七)の水野重仲知行目録に村名がみえ、正保郷帳では幕府領。

松本村
まつもとむら

[現在地名]竹野町松本

竹野村の南、竹野川下流域右岸(一部は左岸)に位置する。江戸時代の領主の変遷は宇日うひ村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高二三五石余。同絵図に竹野村から南下する道が描かれ、当村で分岐、一本は南の羽入はにゆう村へ向かう。一本は峠(美含・城崎郡境の鋳物師戻峠)越えで湯島ゆしま(現城崎町)へ向かう道筋として描かれ、峠付近に「湯嶋ヨリ竹野浜迄一里廿六丁」「難所牛馬不通」と記される。元禄九年(一六九六)の但州村々法度五人組帳(冨森家文書)でも同高。

松本村
まつもとむら

[現在地名]新庄市松本

金沢町かねざわまち村の西にあり、新田本村鑑に「新田にて金沢町村の地方なり(中略)角沢村の地方成りし共言へり、寛文二寅の年より常州松岡より御供いたし参候惣右衛門と申者鉄砲町より引越て開発いたし候由、また別村に相成り候訳者何れの頃か相知れずなり」と記され、枝郷は四ッ屋よっや松枝まつえだとある。明和三年(一七六六)には高三八三石余、うち田方二四五石余、反別五四町四反余、うち田方二九町一反余(吉村本村鑑)。文政一〇年(一八二七)新庄領総高控では竈数三五・人数一二一、駄馬四。天保郷帳には金沢村枝郷とあり、高五五四石余。

松本村
まつもとむら

[現在地名]土佐山田町松本

神通寺じんづうじ村西北方の平野部に位置し、村域は東西に長く、岩村いわむら郷の西北部にあたる。東部は耕地で、西部に集落が密集する。北部を舟入ふないれ川が西南流し、遍路道が東西に通ずるなど水陸の交通は便利である。北の中野なかの村とは松林・イヅミ・松本・常実・天神ヶ岡などの小字を結ぶ東西一直線に境し、東の岩次いわつぎ村との境も南北一直線、南の金地かなじ(現南国市)とも東西一直線に接する。これら直線の村境は古代の条里制の地割の残存で、付近は「和名抄」所載の香美郡石村いわむら郷の地にあたる。

松本村
まつもとむら

[現在地名]西区櫨谷町松本はせたにちようまつもと

明石川の支流櫨谷川流域に位置し、南西はふた村。慶長国絵図に松本とみえる。正保郷帳によると田方四一三石余・畑方八一石余、小松山あり。天保郷帳では高五六四石余。明石藩領中里組に所属。「明石記」によると南北一町半・東西一町半。池一〇・井九・溝堤、御山林四(東山・ツカフロ山・塚崎山・青谷山)・自分山(丸尾谷山)。大歳山神林・薬師堂(旧西林寺)があった。辻堂は東光寺と号し薬師如来を祀る。

松本村
まつもとむら

[現在地名]安心院町松本

尾立おだて村の西、深見ふかみ川支流松本川の流域に位置する。村域は南北に細長く、北は妻垣つまがけ村、南は板場いたば村。近世の領主の変遷は妻垣村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高三七六石余、人数九〇、百姓一六(うち庄屋四)・名子一・牢人三、牛一九・馬一二。元禄豊前国高帳では高四一七石余。天保三年(一八三二)の中津藩郷村高帳下書によると九七石余の新田畑がみえる。同四年の中津藩郷村高帳下書では高四三〇石余、うち改出高一三石余・永荒六三石余。

松本村
まつもとむら

[現在地名]春日井市松本町

出川てがわ村の北で、内津うつつ川の両岸にある。円福寺寄進田帳(円福寺蔵)

<資料は省略されています>

とあり、大永元年(一五二一)頃のことと考えられる。「府志」は松本の「本」は「原」に通ずるとしている。村内に上丁田かみちようだ・下丁田・上条坊かみじようぼう・下条坊の地名があり、条里制に関係があると考えられる。

松本村
まつもとむら

[現在地名]遠賀町まつもと一―五丁目など

広渡ひろわたり村の西、千間せんげん(現西川)左岸の平野部に位置し、南は今古賀いまこが村。松之本・松之元・松の元などとも書き、「まつのもと」とも称した。明暦元年(一六五五)に広渡村から分村したといい、その後も同村の枝郷であった(続風土記)。元禄国絵図に広渡村枝郷として村名が載り、田圃志では広渡村のうち松本分として田高一三〇石余とある。旧高旧領取調帳に村名がみえず、「地理全誌」では広渡村の集落の一つとして、「松ノ本」がみえ、「十戸。

松本村
まつもとむら

[現在地名]田原本町大字松本

東は飛鳥川を挟んで竹田たけだ村、西は曾我川が流れる。環濠集落慶長郷帳は「松元村」と記し、村高七四四・八一石で幕府領(代官楢村監物)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となり、その後金剛寺こんごうじ村が分離したので村高は四五〇・二九六石となった。

和州御領郷鑑に享保九年(一七二四)の村高四五〇・二九六石、反別二六町二五歩、家数九六、人口二五二(男一二六、女一二四、僧二)、牛二、馬三とみえる。

松本村
まつもとむら

[現在地名]銚子市松本町

今宮いまみや村の西方、利根川右岸に位置し、銚子道が通る。本城ほんじよう村境を八幡やわた川が流れる。天正一八年(一五九〇)松平伊昌領となり,年未詳の松平氏領書上(宮内家文書)では松本村九三石余。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一三二石余で幕府領。「伊能忠敬測量日記」では旗本大村領で、家数八〇。旧高旧領取調帳では大村領と光厳こうごん寺除地一〇石。

松本村
まつもとむら

[現在地名]富士市松本

潤井うるい川の右岸、中島なかじま村の北に位置する。加島かじま新田村の一つ。延宝七年(一六七九)の加島領郷帳(須津文書)に松本村加島新田とみえ、高二五四石余、反別三一町九反余、年貢米一三九石余。元禄郷帳では加島松本村とみえ、高二五四石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領・旗本曾我領・同日向領の相給。

松本村
まつもとむら

[現在地名]出雲崎町松本

島崎しまざき川右岸にある。西の対岸は大門だいもん村、南は山谷やまや村、北は神条かみじよう村。正保国絵図に高三五石余で幕府領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報