城崎郡(読み)きのさきぐん

日本歴史地名大系 「城崎郡」の解説

城崎郡
きのさきぐん

面積:四二一・四二平方キロ(境界未定)

日高ひだか町・竹野たけの町・香住かすみ町・城崎きのさき

但馬地方の郡で、県の北東部に位置する。令制以来の城崎郡は但馬国の北東端にあたり、西は美含みくみ郡、南は気多けた郡、南東は出石いずし郡、東は丹後熊野くまの郡に接し、北は日本海に臨んでいた。現在の豊岡市大部分城崎町の全域である。明治二九年(一八九六)旧来の城崎・美含・気多三郡が合併して新しい城崎郡が成立、のち豊岡市が誕生して現在の四町となる。四町のうち令制以来城崎郡に属していた地域は城崎町のみで、日高町は旧気多郡(一部は養父郡)竹野町は旧美含郡(一部は気多郡)香住町は旧美含郡に属していた。以下の記述は三郡合併前の令制以来の城崎郡を対象とする。なお現在豊岡市に含まれる佐野さの地区は近世には城崎郡に含まれているが、それ以前は気多郡に属していた。

城崎郡の東部・西部は中国山地の支脈が海岸に迫り、その間を但馬第一の河川円山まるやま川が北流、津居山ついやま湾に注ぐ。中央部は豊岡盆地。盆地東縁の丘陵部の麓に中谷なかんだに貝塚(豊岡市)があり、縄文時代中期から晩期に形成されたものとみられ、出土遺物からは入海が干上がって盆地化したのが晩期であることがわかる。郡名の表記は「和名抄」高山寺本・東急本とも城埼で、名博本・元和古活字本は城崎。他の古代の史料(木簡、「続日本後紀」「三代実録」など)も城埼だが、「延喜式」神名帳は城崎となっている。「拾芥抄」、但馬国太田文など鎌倉時代の史料からは城崎が圧倒的に多く、以後は城崎に固定した。ただし郡内に成立した城崎庄は木前・木崎とも書かれたが、当て字であろう。訓は東急本国郡部に「支乃佐木」、名博本、「拾芥抄」に「キノサキ」とあって異訓はない。

〔古代〕

現豊岡市の気比けひ地区から銅鐸四口が出土しており、このうち四号銅鐸は大阪府堺市出土の陶器鐸と同笵である。また昭和四八年(一九七三)大阪府茨木市東奈良ひがしなら遺跡から銅鐸鋳型が十数個体分出土し、そのうちの一個で気比三号銅鐸が製作されたことが明らかとなった。四口の出土は銅鐸の一括埋納例として貴重であるとともに、製作地の特定できる銅鐸として地域間交流の実態を知るうえでも注目される。郡名の初見で年紀のあるものは平城宮跡出土の神護景雲三年(七六九)の木簡の「城埼郡」であるが、ほかに平城京二条大路出土木簡で、郷里制を示すものがある。管郷は新田につた・城埼・三江みえ奈佐なさ田結たゆいの五郷と東急本・古活字本に記される余戸あまりべ郷で、養老令の基準では下郡。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android