加茂神社(読み)かもじんじや

日本歴史地名大系 「加茂神社」の解説

加茂神社
かもじんじや

[現在地名]大方町入野 東浜

入野松原いりののまつばらにあり、味高彦根命を祀る。旧郷社。「延喜式」神名帳に載る幡多郡三座のうちの「賀茂神社」とされ、谷秦山の「土佐国式社考」に「在入野松原八幡宇、南賀茂北八幡也、旧両社各在本村、不知何時徙併于此」とあるように「賀茂神社」はもと入野本村の賀茂屋敷いりのほんむらのかもやしきにあったといい、いつの頃か早咲はやざき(早崎)八幡原はちまんばらにあった八幡宮(石清水八幡を勧請したものという)と一つとなって入野松原に移った。「南路志」は「棟札ハ無之候ヘ共、応仁之頃藤原家基再興之由申伝」といい、「宝永四年亥十月大変ニ本村大潮入亡所ニ及候程之義ニ付、此社拝殿共々松原とひとしく石の口を離、流れ上り候処、潮干るに随ひ本の柱口の石へすわり、社少しも不損、社内へ逃入候命助かり候者有之也」と記す。

加茂神社
かもじんじや

[現在地名]下津町下

しもの北方に鎮座する。祭神は別雷わけいかずち神。相殿に八幡を祀る。旧村社。古くは加茂大明神社とも賀茂八幡両社とも称した。下・小南こみなみ梅田うめだなか小松原こまつばら橘本たちばなもと曾根田そねだ(現下津町)の七ヵ村の産土神で、「続風土記」に「社殿壮麗にして仁義・浜中両荘の中大社なり」とある。神宮寺留書(下津町史)に「勧請の年代相知不申棟札無之、欽明天皇の御頃歟と申伝候」とあるが、さらに「縁起記録寄附状宝物ハ惣て古物ハ無御座候」ともあり、由緒は不詳である。

加茂神社
かもじんじや

[現在地名]安来市安来町

安来町の通称加茂町にある。主祭神は別雷神・神日本磐余命。旧郷社。社伝によると加茂神社と宮内みやうち町のただす神社の両社は、宝亀九年(七七八)安来郷の藤原朝臣実重・元重兄弟が朝廷に安来郷の貢物一千貫文を納めて、安来郷の総氏神として京都上賀茂・下鴨両社の分霊を勧請したものという。京から安来の地に奉迎するさいに神霊を納めた大櫃を背負って道中したゆかりによって元重は大櫃姓を名乗り、伯太はくた川を境に大櫃元重は西の切川きれかわに住み、実重は実重姓を名乗って佐久保さくぼに住んだ。

加茂神社
かもじんじや

[現在地名]下村加茂

旧北陸街道の西方に福王ふくおう寺と並んで鎮座。祭神は玉依姫命・賀茂建角身命・賀茂別雷命。京都賀茂御祖かもみおや神社(下鴨神社)倉垣くらがき庄の総社という。旧郷社。正徳二年(一七一二)の射水郡社号帳(上田家文書)によれば、その末社は郡内に二二社の多くを数える。同庄は寛治四年(一〇九〇)に三〇町をもって下鴨神社領となったが、当社はそれより先の治暦二年(一〇六六)に勧請されていたとの由緒が伝えられている。

加茂神社
かもじんじや

[現在地名]富山市北代 中谷

射水平野に臨む呉羽山くれはやま丘陵上に所在。旧村社。祭神は賀茂別雷命。天正年中(一五七三―九二)神保氏張により勧請され、近郷三三ヵ村総社となり、寛永三年(一六二六)うしくび用水開設以来、三村へ分祀されたという。宝暦九年(一七五九)の社号帳(県立図書館蔵)には「加茂大明神北代村八町村針原村産神」とある。当社は寛治四年(一〇九〇)京都下鴨社領倉垣くらがき庄域に勧請された加茂神社の末社のうち東端に位置する。室町時代初期には隣接の寒江さぶえ庄も下鴨社領化したが、近世になって射水平野東部が加賀藩領と富山藩領に区分された際、加茂神社分布域は両藩とも倉垣庄とされたらしく、富山藩領寒江郷には加茂神社は存在せず、北代は富山藩領倉垣庄に属した(下村の中世)

加茂神社
かもじんじや

[現在地名]志賀町矢駄

矢駄やだ集落東の山裾に鎮座。玉依比売命・別雷命を祀り、明治四四年(一九一一)末社の八幡社(大鷦鷯命)・白山社(菊理姫命)を合祀(明治神社明細帳)。旧村社。京都上賀茂社領羽咋郡賀茂かも(土田庄)の鎮守と伝え(三州式内等旧社記)、社蔵の応永二年(一三九五)八月一二日銘の銅板不動三尊種子懸仏は石動せきどう山の住僧明王院祐賢が大願主となって奉納したもので、「土田加茂庄貴布禰社」の御正体とある。貴布禰きぶね社がどの社をさすか明らかでないが、京都貴船社が上賀茂社の末社であったことから、加茂神社の旧名または祭神の一とみられる。

加茂神社
かもじんじや

[現在地名]小浜市加茂

加茂集落の東側谷間に鎮座する。当地一帯は中世、京都上賀茂社領賀茂荘の地であった。旧郷社。「若狭国神階記」に正一位賀茂大明神とあり、祭神は事代主ことしろぬし尊とする。社蔵の賀茂大明神縁起は「当社之濫觴山城国賀茂上宮別雷神也、御祖者号玉依姫、公事根源曰、下賀茂是也」と、京都上賀茂社より勧請したことを伝える。しかし伴信友は「若狭国神社私考」のなかで「山城の賀茂は、上社は別雷神、下社は御祖賀茂建角身命、玉依日売二座を祭れる社なるに、事代主命を祭れるこの賀茂社に、山城の賀茂の社司預るべき由縁なきを」として、山城の賀茂社と関係はないとし、もとの祭神事代主尊の伝承を「社記にもしるしおけるはめでたし」と記す。

加茂神社
かもじんじや

[現在地名]網野町字木津 熊谷

岡田おかだの東北部、木津きつ川上流の加茂川べりに鎮座。祭神別雷神。旧村社。

長久四年(一〇四三)上賀茂かみがも神社(現京都市北区)から分霊を受けたと伝える。丹後国田数帳によれば、当社の鎮座する地を含む木津庄は、上賀茂神社領であったと思われる。

社蔵の鰐口の表面外縁には「丹後国竹野郡木津庄熊谷村為貴船大明神御宝前也 于時永享三年鐘林吉日初 願主 神主 真光敬白」とあり、内縁と内区の銘文によれば、どこにか持ち去られていたのが、元禄一〇年(一六九七)河部こうべ(現中郡大宮町字河辺)の土中から発見、同一三年再び奉納されたことがわかる。

加茂神社
かもじんじや

[現在地名]滑川市高月町

富山湾に注ぐ上市かみいち川の河口部右岸に鎮座する。祭神は別雷命・品陀和気命・少彦名命。旧村社。上市川は「越中志徴」の引く元禄九年川々水源調書に「千石村領奥山早乙女嶽の麓より流出、此所より稲村迄荒谷川と云ひ、稲村領より上市村領迄上市川と云ひ、堀江村領より魚躬村迄は堀江川と云ひ、海際にて加茂の宮社有之故、加茂宮川と云ふ」とある。社伝では延喜一五年(九一五)の勧請といわれ、源義経が奥州下向の際に参拝したという。現立山町山王神社蔵の銅製鰐口銘には、永正九年(一五一二)一二月吉日の年紀とともに「高槻保賀茂大明神」とある。

加茂神社
かもじんじや

[現在地名]多度津町南鴨

金倉かなくら川左岸の平地、南鴨みなみがもの中央にある。旧村社。祭神は加茂別雷神。平安末に在地豪族が京都賀茂社を勧請して創建したと推定されるが未詳。「道隆寺温故記」に安和元年(九六八)四月、鴨大明神を修理し、同じく只州社下鴨御祖大明神社を再造遷宮したとある。おそらくこの時に賀茂上・下両社の勧請造営が完成したのではなかろうか。康永元年(一三四二)九月二〇日、当社神官である鴨権祝光定は道隆どうりゆう寺へ田地五段を、また延文四年(一三五九)六月には御影供米として二石を寄せている(道隆寺文書)

加茂神社
かもじんじや

[現在地名]高富町梅原

岸見きしみ山南西麓に鎮座し、南を高富から伊自良いじら村に向かう街道が走る。旧郷社。祭神は別雷命。創建年月不詳。寛治四年(一〇九〇)山城国の賀茂御祖社(下鴨神社)領公田四〇町歩が梅原うめはら庄にあったことから、その分霊を祀ったのではないかといわれるが、下鴨神社の祭神は別雷命ではなく、つまびらかでない。

加茂神社
かもじんじや

[現在地名]七山村大字滝川字谷

たき川の右岸の丘陵にある。旧村社。安元二年(一一七六)賀茂県主久基(加茂義賢)が、滝川に館を構えて土着し、京都の下鴨しもがも神社の分霊を勧請したという(→滝川村

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報