天神社(読み)てんじんしや

日本歴史地名大系 「天神社」の解説

天神社
てんじんしや

[現在地名]田辺町松井 向山

松井まつい集落の西端、山裾の小高い所にある。祭神は伊弉諾いざなぎ命と天照あまてらす大神。旧村社。「延喜式」神名帳に記される綴喜つづき郡一四座の一「天神社アマツカンノヤシロ」に比定される。九条家本は「アマツヤシロ」、金剛寺本は「アメノ」と訓ずる。「続日本紀」延暦四年(七八五)一一月一〇日条に「祀天神於交野柏原、賽宿祷也」とみえる。「宿祷」とは前年に着工した長岡ながおか京造営のことかと思われる。河内国交野かたの桓武天皇はこの前後度々遊猟に出かけている。さらに同六年一一月五日条に「祀天神於交野、其祭文曰、維延暦六年歳次丁卯十一月庚戌朔甲寅、嗣天子臣謹遣従二位行大納言兼民部卿造東大寺司長官藤原朝臣継縄、敢昭告于昊天上帝」とみえる。

天神社
てんじんしや

[現在地名]奈良市高畑町

興福寺大乗院跡の東の天満てんま山に鎮座。天満てま天神社ともいい、祭神少彦名すくなひこな命・菅原道真。旧村社。「元要記」は白河天皇の時、春日社神官利貞が初めて祀ったと記し、「大和志」は「続日本紀」養老元年(七一七)二月一日条に「遣唐使祠神祇於盖山之南」とみえる御蓋みかさ山の南の祠を当社とする。「平城坊目遺考」に「按、当社は大乗院鎮守にして往昔禅定院境内に有りしを後に此所へ移し、何れの頃より歟近町氏神となりし也」とみえ、もとは元興がんごう(現奈良市)鎮守として同寺禅定ぜんじよう院内にあったが、治承の兵火によって焼失した興福寺大乗院が禅定院に移って大乗院鎮守としたと考えられている。「大乗院寺社雑事記」応仁二年(一四六八)一〇月一五日条の春日末社神御名には、奈良中末社として「禅定院東天満天神本地十一面・沙門・ミタ」を記す。元興寺衰微時代に元興寺郷鎮守として郷民の崇敬を受けていたが、大乗院はこれを鎮守とすることで郷の管理権をも握っていったらしい。

天神社
てんじんしや

[現在地名]那智勝浦町天満

天満てんま集落のほぼ中央に鎮座。天満宮ともいう。神殿は三殿あり、上の御前に主神菅原道真と金山彦かなやまびこ神・保食うけもち神・倉稲魂うかのみたま神、中の御前に大国主おおくにぬし命・事代主ことしろぬし命、下の御前に八幡大神を祀る。旧村社。「続風土記」によると、熊野那智大社の末社で、天満神社古記録(那智勝浦町史)に記す永正元年(一五〇四)の棟札写に「奉造宮天満天神社頭本願心提十穀」とあり、文亀元年(一五〇一)の棟札写には「御願円満 于時文亀元辛酉年十一月三日 小本願 道幸并補陀洛行人敬白 時ノ三昧僧教賢坊良尊大工修理職宗継」とみえる。

天神社
てんじんじや

[現在地名]春日井市牛山町

祭神は吾田片隅命で、品陀別命・天照大神・火霊産命・菊理姫命・須佐之男命を合祀。旧村社。「府志」に「片山天神在村中村今称八幡延喜神名帳春日部片山神社、本国帳曰従三位片山天神(中略)神名帳集説以牛山村熊野祠片山天神孰是」とあり、片山かたやま神社を天神社にあてる説もある。

天神社
てんじんしや

[現在地名]高野町高野山

千手院せんじゆいん谷が小田原おだわら谷に出る所に架かる千手院橋の北東、普賢ふげん院の南に鎮座する小祠。古くは五之室ごのむろ谷より東へ続く天神小路東奥にあった国城こくじよう院の境内地で、現本覚ほんがく院の後山に祀られ、天満宮ともよばれた。祭神は菅原道真。寛弘五年(一〇〇八)空海の霊告により普光寺幡慶が勧請(高野伽藍院跡考)、あるいは延長三年(九二五)和泉講師雅真の建立(続風土記)とも伝えられるが、近世には行人方国城院、聖方本覚ほんがく院・南蔵なんぞう院の鎮守社となり、現在は一心院いつしんいん谷・五之室谷・千手院谷の院内講中の管理となっている。

天神社
てんじんしや

[現在地名]観音寺市中田井町 天神岡

いちたに池の堤下より北の小高い岡に鎮座する。綾歌あやうた綾南りようなん町の滝宮たきのみや天満宮(綾天神)植田うえだの天神とともに讃岐の三天神の一つに数えられ、別名松の森まつのもり天神とよばれる。祭神は菅原道真・天御中主神・高皇霊神・神皇霊神。旧村社。菅原道真が讃岐国守となって国内巡検の節、当地の風光を賞し別荘を営んだという伝えが古くからあり、「全讃史」に「聖廟在中田井村社也、土人云此菅神別荘之所在也是以国中雖多菅神祠只此称聖廟矣」とあり、「神社考」は「按菅家文草載州廟釈尊有感詩(中略)今無知其地者、蓋此祠今猶有聖廟之称、而為公遊蹤之地則所謂州廟此祠而後人以公配之也」と記している。

天神社
てんじんじや

[現在地名]徳島市北田宮四丁目

田宮たみや地区にある。旧郷社。祭神は菅原道真。創建年代は不明であるが、延喜元年(九〇一)鎮座とも伝える。社伝によれば、菅原道真が大宰府下向の途中、悪天候のためにこの地に滞在することになった。里人は道真の徳を慕ってさまざまにもてなしたところ、出発にあたって道真はみずからが彫上げた木像を残し、これを祀ったのが始まりという。また田宮の地名も、道真の旅の仮屋という意味の「旅屋たびや」が訛ったという地名起源説も語り伝えられている。

天神社
てんじんしや

[現在地名]中区錦二丁目

祭神は菅原道真。大国主神・事代主命・少彦名命など末社六ヵ所が祀られている。旧村社。桜の大樹がそびえていたところから桜天神とか、桜天満宮の名が生じた(名古屋神社誌)。天文年中(一五三二―五五)末森すえもり(現千種区)城主織田信秀が京都北野きたの天満宮から菅原道真の木像を持帰り、城内に祠を設けた。天文七年万松ばんしよう(現大須)が創建され、神祠を境内山門の左に移して寺の鎮守とした(名古屋神社誌)。万松寺は開府の際、現在地に移転したが、社はそのまま残り、傍らの桜花山霊岳れいがく院に社務をつかさどらせた(亀山志)

碁盤割の中心にあるため、集会などにしばしば用いられた。

天神社
てんじんしや

[現在地名]桜井市大字小夫

小夫おうぶ集落中央に鎮座。祭神は天照あまてらす大神・天児屋根あめのこやね命・菅原道真。旧村社。背後の山を斎宮さいぐう山と称し、「日本書紀」崇神天皇六年条にみられる天照大神遷祀の倭の笠縫かさぬい村伝承がある。境内に「嘉暦二年 十一月廿三日 願主藤原 宗盛 大江定光」刻銘の石灯籠がある。なお奈良県大和高田市にあった伊福いふく寺旧蔵の大般若経(現在は五條市の棚本家蔵)奥書に「永正十四年丁丑 小夫庄天満宮御経 修補之」とあり、経は伊福寺から当社に移り、さらに添上そえかみ日笠ひがさ(現奈良市日笠町)に移っている。

天神社
てんじんしや

[現在地名]八代町永井

瑜伽ゆか寺の南東に鎮座する。旧村社。社伝によれば、仁徳天皇四年四月に勧請されたという(甲斐国志)。社殿の三座にはそれぞれ菅公・八幡・熊野を配祀する。永禄四年(一五六一)の番帳の二〇番に「なか井の禰き」とみえ、当社の社家衆が八代郷の熊野明神とともに府中八幡神社に参勤するように命じられている。天正一一年(一五八三)閏正月二一日の平岩親吉証文(天神社文書)によれば、徳川家康の家臣で甲斐支配を委任されていた平岩親吉から、当社への狼藉や竹木伐採などの禁止が指示されている。

天神社
てんじんしや

[現在地名]鴨島町飯尾

飯尾いのお集落南方の山麓部、字天神にある。主祭神は菅原道真・大己貴命・少彦名命・菟道稚郎子命・火産霊神などで、旧郷社。創立の経緯は不詳だが、社伝では往古より大己貴命・少彦名命の二神を祀っていたとしている。しかし土地の人々の道真信仰は強く、「麻植郡神社明細帳」によると大宰府に左遷された菅原道真は任地に赴く途次に当村に着き、社を拝して笏を納めたので、道真を副祭し、天神社と公称したとしている。また「鴨島町誌」では道真の祖父清公が弘仁七年(八一六)に阿波の国司となって赴任したとき、当地の神社に詣でた縁で道真は左遷の途次に立寄って笏を納めたとの口碑を記載している。

天神社
てんじんしや

[現在地名]宇治田原町奥山田

奥山田おくやまだ集落のほぼ中央に鎮座し、祭神は大山咋おおやまくい命・猿田彦さるたひこ命・菅原道真。社蔵の由緒記によると、最澄が延暦一五年(七九六)この地に比叡山別院として飯尾山医王教いおうきよう寺を再建した時、近江国坂本さかもと(現滋賀県大津市)から山王二宮大山咋命を勧請し、鎮守社としたのに始まるという。延長元年(九二三)医王教寺の尊意が霊夢により菅原道真を祀り、長尾ながお天神とも称した。その後南北朝の争乱によって建物いっさいが炎上したという。

天神社
てんじんしや

[現在地名]千代川村長萱 堀の内

長萱おさがや集落東部に鎮座。旧村社。祭神菅原道真。神像の下面に「明暦元年十一月吉日、敬白 奉開眼供養大神像 四ケ村長萱 施主杉田源兵□ 同 □」および梵字一字が墨書してあり、長萱の郷士杉田源兵衛の勧請と考えられる。当社には大日だいにち(祭神大日命)塩竈しおがま神社(祭神塩土翁命)浅間せんげん(祭神木花開耶姫命)が合祀されているが、浅間社は字前田まえだにあったもので天保四年(一八三三)一一月の創建。

天神社
てんじんじや

[現在地名]海南町浅川

太田おおたに鎮座。旧村社。祭神は菅原道真。天正一一年(一五八三)修験の吉祥院興栄がいそヶ浦(のちの浅川村)に創祀したと伝える。慶長八年(一六〇三)に造営がなったというが(天保一一年「海部郡取調廻在録写」飯田家文書)、慶長九年一二月の地震および津波で社殿が流失したとも伝える。寛永一〇年(一六三三)現在地に再建がなったという。祭日は九月二五日であったが(郡村誌)、現在は一〇月一七日。

天神社
てんじんしや

[現在地名]丹原町北田野

北田野の天神きたたののてんじんにあり、昔の松山道の西側に位置する。東に照井てるい池、南に願成寺がんじようじ池、北に大明神だいみようじん池があり、その池の西側に願成寺がある。祭神は菅原道真。旧村社。

「伊予国周布郡地誌」に「往古ヨリ田野郷一社ノ総鎮守タリ」とあり、松平定行が慶安三年(一六五〇)に一郷一社の鎮護のため創建、尊信を集めたという。

天神社
てんじんしや

[現在地名]有田市初島町浜

はまの東部にあり、旧村社。祭神は菅原道真。南紀神社録(和歌山県立図書館蔵)に「在桝浜浦、菅神ヲ祭ル、神体ハ木像ナリ、文暦年間棟札ニ天満大自在威徳天云々、元弘二年棟札亦存ス」とあるが、「続風土記」はこの棟札は偽作とみ、祭礼についても「九月十六日なれは天満宮にあらす、天神七代を祭れるなるへし」と述べている。

天神社
てんじんしや

[現在地名]猿島町内野山

西仁連にしにれ川東岸の高台に鎮座。松崎まつざき天神ともよばれる。祭神天穂日命。旧村社。社伝によると、天慶八年(九四五)九月二五日、菅原道真の子景行・兼茂・茂景が東国巡遊の際当地に来て、いい沼に囲まれた老松鬱蒼の美景を賞して一祠を建立し、遠祖天穂日命を奉祀した。

天神社
てんじんしや

[現在地名]犬山市犬山 東古券

祭神は大中津日子命・少彦名命・菅原道真。「犬山里語記」に稲木いなぎ神社・田中たなか天満宮相殿の社とあり、「延喜式内の神社也。往古より犬山東田圃の中に田中の森と云所有、こゝに御鎮座ありしを、明和四年丁亥二月十七日、余坂村え遷座し奉る。且つ云、天正の比、近辺の天満宮を合祭し奉る」と記す。

天神社
てんじんしや

[現在地名]五霞村大福田

大福田おおふくだ東部、利根川西岸に鎮座。社殿献額には「天満宮」「官廟」とある。祭神は菅原道真。旧村社。「下総旧事考」には「祀菅公、相伝一色宮内少輔影祭相模鎌倉荏柄天神、祭日正月二十五日、九月二十五日、別当天福寺、新義真言宗、隷関宿昌福寺、社領五石、慶安二年己丑八月付」とみえる。

天神社
てんじんしや

[現在地名]山添村大字北野小字ミヤノニシ

おく集落の中央にある。祭神はもと菅原道真であったが、現在は天御中主あまのみなかぬし神。旧村社。通称北野きたのの天神。本殿(国指定重要文化財)は一間社春日造・厚板葺。由緒は明らかでないが、本殿の形式手法は室町中期である。

天神社
てんじんしや

[現在地名]春日井市勝川町二丁目

祭神は菅原道真。天照皇大御神・豊受皇大御神・菊理姫命・大山須美命を合祀。旧村社。地蔵寺の開山道証無尽禅師が正和二年(一三一三)に創建したという。「尾張志」に「天神ノ社勝川村にあり、伝へいふ正和二癸丑年に建、もとは高山といふ処にありしを、後世今の地に移せり、天文九庚子年長曾根縫殿重修す、今は地蔵寺の僧掌る」とあり、地蔵寺が昭和三年(一九二八)現在地に移転するまで、神社と寺が並んで建っていた。

天神社
てんじんしや

[現在地名]境町内門

内門本田うちかどほんでんのほぼ中央に鎮座。祭神菅原道真。旧村社。石鳥居の傍らに「安永八年、庚申待供養塔、内門村講中」と刻む庚申塔がある。以前は子供たちが天神講と称する、宿泊を伴う談合をもったが、今日では行われていない。

天神社
てんじんしや

[現在地名]小牧市三ッ淵 宮前

祭神は少彦名命。旧村社。以前は三淵みつぶちの南方、丹羽・東春日井・西春日井三郡の境界辺りにあり、菅生すごう天神の社と称していたが、慶長一二年(一六〇七)に字新租しんそに移された。

天神社
てんじんしや

[現在地名]唐津市半田字天神の元

半田はだ集落の中心をなす本村もとむらの中央東寄りの丘陵にある。天神七代を祀り、木彫神像七体を安置する。「佐賀県神社誌要」によれば祭神は国常立尊伊弉諾尊・伊弉冉尊・角尊・面足尊・豊雲野尊・宇比地邇尊のほか五柱となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「天神社」の解説

天神社

山梨県山梨市にある神社。本殿は戦国武将、武田信虎が再建したとされ、国の重要文化財に指定されている。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の天神社の言及

【御霊信仰】より

…京都の祇園祭(ぎおんまつり)もその本質はあくまでも御霊信仰にあり,本来の名称は〈祇園御霊会〉(略して祇園会)であって,八坂神社(祇園社)の社伝では869年(貞観11)に天下に悪疫が流行したので人々は祭神の牛頭天王(ごずてんのう)のたたりとみてこれを恐れ,同年6月7日,全国の国数に応じた66本の鉾を立てて神祭を修め,同月14日には神輿を神泉苑に入れて御霊会を営んだのが起りであるという。また,903年(延喜3)に九州の大宰府で死んだ菅原道真の怨霊(菅霊(かんれい))を鎮めまつる信仰も,御霊信仰や雷神信仰と結びつきながら天神信仰として独自の発達を遂げ,京都の北野社(北野天満宮)をはじめとする各地の天神社を生んだ。 鎌倉時代以降には,非運な最期を遂げた武将たちも御霊神の中に加わるようになって御霊信仰に新生面が出たが,その場合は御霊の音が似ているために〈五郎(ごろう)〉の名を冠した御霊神が多く,社名も〈五郎社〉で,鎌倉権五郎社(御霊神社)はその好例の一つである。…

※「天神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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