奥山田村(読み)おくやまだむら

日本歴史地名大系 「奥山田村」の解説

奥山田村
おくやまだむら

[現在地名]高山村奥山

現高山村東北部山地。東は群馬県吾妻あがつま郡、北はいけとう山西方への山稜で間山まやま(現中野市)寒沢さむさわ(現下高井郡山ノ内町)、西は西鳥屋にしとや(平塩山)で中山田、南は松川でまきと境する。西南部の狭長な松川段丘上に関場せきば宮村みやむら蕨平わらびだいら天神原てんじんばら荻久保おぎくぼ・湯場(現山田温泉)の集落が並ぶ。

延元三年(一三三八)の高梨経頼等裁決状(伊佐早文書)に「東条ひがしじよう庄山田郷小馬場こまんば村」と記された山田郷に属したと思われる。山田郷については、文禄三年(一五九四)と銘を記した常敬じようけい(中山田村にあった)に残る蓮如上人画像裏書に「高井郡栗原庄山田郷」と記される。

奥山田村
おくやまだむら

[現在地名]宇治田原町大字奥山田

宇治田原町域の東端に位置し、田原郷諸村のうち奥山田村のみは水系が異なり、大石おおいし川の支流で北流する奥山田川が、中流以上でつくる谷間に集落が点在する。近世には山田村ともよばれ、かや村・茶屋ちやや村・みや村・川上かわかみ村の四小村に分割してよぶ場合もある。西は湯屋谷ゆやだに村、東と北は近江国に接する。

奥山田の東、飯尾いのお山の山上には奈良時代初期に寺院が建てられていたといわれ、平安初期には延暦寺の別院医王教いおうきよう寺と称された。この寺の山麓に集落が形成されたとも思われるが、谷筋には宇治と近江信楽しがらき(現滋賀県甲賀郡)方面を結ぶ信楽街道も通り、早くから開けた地であったらしい。

奥山田村
おくやまだむら

[現在地名]矢掛町南山田みなみやまだ

里山田さとやまだ村の南にあり、遥照ようしよう山の北麓にあたる。慶長一一年(一六〇六)の徳川家康朱印状(高山公実録)に村名がみえ、小田郡に属し、高五九七石余、伊予の藤堂高虎に加賜されている。寛永備中国絵図では高六〇五石余、松山藩領。正保郷帳では幕府領で、枝村にはら村・広石ひろいし村・いなまた村が載る。正徳四年(一七一四)の備中一国重宝記では高六八二石余、駿河田中藩内藤弌信(正徳二年大坂城代就任)領。

奥山田村
おくやまだむら

[現在地名]岡崎市奥山田町

村域中央を西に向かって流れる矢作川支流の北斗ほくと川沿いに集落が立地。村域東北端に二五六・九メートルの村積むらづみ山、別名花園はなぞの山があり、山頂には村積神社がある。東は恵田えた村、西は細川ほそかわ村・村、南は真福寺しんぷくじ村、北は桑原くわばら村と各々山で接する。中世、乙見おとみ庄に属すという。

天正一八年(一五九〇)に岡崎城主田中吉政領、慶長六年(一六〇一)幕府領に編入。寛永四年(一六二七)より大給松平氏の知行所になる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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