田宮村(読み)たみやむら

日本歴史地名大系 「田宮村」の解説

田宮村
たみやむら

[現在地名]徳島市北田宮きたたみや一―四丁目・南田宮みなみたみや一―四丁目・田宮町・春日かすが一丁目・南矢三町みなみやそちよう一丁目・春日町

上助任かみすけとう村の南西にある。南東端を新町しんまち川が南西流し、対岸は徳島城下出来島できじま。南方を田宮川が東流する。南は佐古さこ村、東は下助任村。元久元年(一二〇四)九月日の富田庄立券状案(春日大社文書)に、名東郡二二条八里の坪付として「田宮」の一所七反(田二反・畠五反)が記される。この年富田とみだ庄として立庄された南助任みなみすけとう(南助任村)のうちに含まれていた。承久四年(一二二二)三月日の大江泰兼愁状(大東家旧蔵文書)によれば、これ以前富田庄の本領主である大江泰兼から年貢・油のほかに報恩会用途米として「田宮島」一〇石など計三〇石が奈良興福寺に寄進されていた。「田宮島」とみえることから、鎌倉期には吉野川(別宮口)下流や鮎喰あくい川などに囲まれた島であったらしい。天文二一年(一五五二)一一月七日の阿波国念行者修験道法度写(良蔵院文書)には田宮の妙福みようふく寺の名がみえる。江戸時代には妙福寺は西隣の矢三やそ村にあり、あるいは中世にはのちの矢三村の一部も田宮に含まれていた可能性がある。また現在大滝おおたき山にある春日神社はもとは富田庄の鎮守として田宮にあり、その後山東麓に移されたとする説もある。

田宮村
たみやむら

[現在地名]枚方市田宮本たみやほん町・大垣内おおがいと町一丁目・同三丁目・朝日丘あさひがおか町・西田宮にしたみや町・東田宮ひがしたみや一―二丁目・山之上西やまのうえにし町・山之上北やまのうえきた町・岡山手おかやまて

洪積層の丘陵台地に位置する。交野かたの郡に属し、村の北端、禁野きんや村との境には天野あまの川が西に流れる。古代交野郡田宮郷(和名抄)のうち。南部にある古墳状の小丘を、「古事記」応神天皇段にみえる田宮中比売の墓とする説もあるが、確証はない。建仁三年(一二〇三)四月「交野郡田宮竹原郷」の田地が、摂関家御厩の下文によって春日若宮御供田に寄進されており(春日若宮社家古文書)、「竹原郷内」として淡宗里・竹原・池井里・淡坂里・大鳥切・吹田里・カルマカリ・黒田里などがみえる。

田宮村
たくうむら

[現在地名]牛久町田宮

水戸街道沿いにあり、南は牛久村。弘安大田文の「河内郡廿七丁七段半」のなかに「田却三丁七段」とある。法雲寺荘主寮年貢納目録(法雲寺文書)に長禄二年(一四五八)一月晦日の記事として

<資料は省略されています>

とあり、法雲ほううん(現新治郡新治村)に年貢を納める郷の一であった。戦国期には岡見氏の支配下に置かれ、天正一八年(一五九〇)以降は由良氏が支配した。

田宮村
たみやむら

[現在地名]新治村田宮

台地上に位置し、北は沢辺さわべ村。中世は南野みなみの庄に属し、嘉吉四年(一四四四)正月一〇日の法雲寺荘主寮年貢目録(法雲寺文書)に「田宮郷」とある。江戸時代は土浦藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「県方集覧」(酒井泉氏蔵)によれば、文禄三年(一五九四)結城秀康支配のときに検地が行われ、元禄郷帳の村高は四〇一石余。台地のため「田方不残旱損場、井掘百拾ケ所」(県方集覧)とある。

田宮村
たみやむら

中世の村落。現日下部くさかべ町辺りか。弘安五年(一二八二)の千世氏荘坪付注進状案(醍醐寺文書)に、永吉畠として「田宮村二丁九反」ならびに「久永畠壱町中嶋郡南条草部郷田宮村」「田宮村畠陸町五反半」とあるのを初見とし、草部くさかべ郷に含まれていた。この年国衙一円進止の地から、浄金剛じようこんごう院領千世氏庄として立荘されたなかに含まれたが、そのまま南北朝期も醍醐だいご三宝さんぼう院領国衙領の一部とされ、直納の地であった(醍醐寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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