松井村(読み)まついむら

日本歴史地名大系 「松井村」の解説

松井村
まついむら

[現在地名]田辺町大字松井・松井まついおか

現田辺町最北端に位置する。平野部よりも西から西南にかけての山地のほうがはるかに広い。奈良街道(歌姫越)荒坂あらさか越の交わる交通の要衝であり、集落近くに古墳が幾つかあって、古くより開かれた地と思われる。村内南部に内里うちさと(現八幡市)の飛地がある。

「続日本紀」天平神護元年(七六五)八月一日条に「又絞益女於綴喜郡松井村」とみえる。紀益女は称徳天皇に仕えた女官で巫呪をよくしたらしく、皇位を望む和気王(舎人親王孫)に求められて天皇・道鏡をのろったとされ、和気王は相楽郡で殺されて狛野こまの(現相楽郡精華町)に埋められ、益女もまた松井村で処刑されたのである。当地が交通の要衝であったところから、世に示す場所に選ばれたと思われる。

当地はのちに立荘され松井庄となる。

松井村
まついむら

[現在地名]北茨城市中郷なかごう町松井

大北おおきた川下流の右岸に位置し、南部は丘陵性台地、西部は山地。「水府志料」に「東西一里五町許、南北十三町余」とある。東は福島ふくしま村・上桜井かみさくらい村・足洗あしあらい村。常陸国赤浜妙法寺過去帳の応永三三年(一四二六)に「妙善松井」とみえ、文禄四年(一五九五)岩城領検地目録(静嘉堂文庫蔵)には「三百拾五石 (竜子山分)松井村」とある。「水府志料」に「此村古ヘヨリ水ニ乏シ。

松井村
まついむら

[現在地名]菟田野町大字松井

芳野ほうの川流域、古市場ふるいちば村東南に立地。室町期には松井庄の地で、三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「松井庄禁野」とみえる。「日本書紀」推古天皇一九年五月五日条に「菟田野に薬猟す」とあるが、この菟田野が古市場村小字宇陀野うだのであるとすれば、松井庄も禁野であったと推定される。

慶長郷帳の村高二六二・〇八石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。元禄八年(一六九五)以降幕府領元禄検地により村高二七一・四一八石。「宇陀郡史料」所収の元禄八年の「覚」によると、家数四五、人数一八六(男九九、女八七)、真宗道場(無住)、阿弥陀堂(無住)、威鉄砲一、牛九、馬二からなっていた。

松井村
まついむら

[現在地名]粉河町松井

紀ノ川の北岸にあり、南北に細長い村で、村内を松井川が南流して紀ノ川に入る。また北を大和街道が通り、集落はその両側に集まる。北と東は粉河村に接する。「続風土記」は「村の西南の界風森の辺に松井といふ井あり、粉河寺九水の一といふ、村名これより出るなり、相伝ふ此所古粉河の本村にて元亨釈書に載する所の風市村といふは即是なり」と記している。

松井村
まついむら

[現在地名]安来市西松井町にしまついちよう

田頼たより村の東に位置し、東は飯梨いいなし川で限られる。対岸は東松井村で当村を西松井村ともいう。東松井には古代の野城のき駅があったとされ、山陰道は当地辺りで飯梨川を渡河していたものとみられる。のち同駅を核に能義のぎ郡野城郷(和名抄)が成立するが、当地も同郷に含まれたと推定される。中世には一帯に松井庄が成立していた。正保国絵図には松井村一村が記され、「雲陽大数録」・天保郷帳でも同様である。しかし天保三年(一八三二)の東松井村の検地帳があるので、広瀬藩の郡方支配上はこの頃には東西に分立していた。近代に入ると公的に西松井村となり、「郡村誌」によると田四六町余・畑九町余・宅地二町八反余、戸数四八・人数二四八、牛一九、小廻船一。

松井村
まついむら

[現在地名]東伯町下大江しもおおえ

下大江村の北に位置する。同村の支村で、明治三年(一八七〇)領内限り一村扱いになったというが(藩史)、幕末の六郡郷村生高竈付に村名がみえ、生高一三二石余、竈数一一。元治二年(一八六五)の八橋郡村々余業取調帳(河本家文書)によれば家数一一で、うち余業二(紺屋・木綿賃引各一)であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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