天満神社(読み)てんまじんじゃ

精選版 日本国語大辞典 「天満神社」の意味・読み・例文・類語

てんま‐じんじゃ【天満神社】

[一] 兵庫県高砂市曾根町にある神社。旧県社。祭神は菅原道真、天穂日命(あめのほひのみこと)ほか。道真が松を植えた旧跡に創祀され、古くは伊保庄天満宮といわれた。曾根天神。曾根天満宮。曾根の宮。笠天神。
[二] 福岡県久留米市北野町中にある神社。旧県社。祭神は菅原道真。天喜二年(一〇五四)創祀。後冷泉天皇が崇敬され、足利義満が社領を寄進。天正一五年(一五八七豊臣秀吉が社領を没収したが、領主小早川・田中氏が復興。

てんまん‐じんじゃ【天満神社】

[一] 山形県新庄市堀端町にある神社。旧県社。祭神は菅原道真。寛永五年(一六二八)藩主戸沢氏が城内に創祀。
[二] 兵庫県三田(さんだ)市天神にある神社。旧県社。祭神は菅原道真・大歳(おおとし)大神ほか。天文一四年(一五四五)領主赤松村秀が創祀。三田天神。

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日本歴史地名大系 「天満神社」の解説

天満神社
てんまじんじや

[現在地名]室生村大字染田

染田そめだ集落北方に位置する。春日神社境内に、現在は天神堂(染田天神講連歌堂として県指定有形民俗文化財)のみがある。俗に染田天神と称し、菅原道真を祀る。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔天神講連歌会〕

永享六年(一四三四)興福寺僧訓営が撰したという染田天神縁起によると、貞治年中(一三六二―六八)多田順実が旅人から天神御影を感得し、これを染田に祀って天神講連歌会の本尊としたのに始まるという。当時、福智院天神講(興福寺)・与喜天神社連歌会(長谷寺)など、中世武士・僧侶の間で流行した連歌会の東山中ひがしさんちゆうにおける中心であるとともに、東山内衆の団結の精神的支柱であった。春日神社が所蔵する文書では応永一六年(一四〇九)藤井坊立願によるものを最古とし、天神講頭役次第でも「于時応永十二年五月二日、於牟山寺千句執行畢」を初見とする。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]姫路市大塩町

宮本みやもとにあり、天満宮・大塩おおしお天満宮ともよばれる。旧郷社。祭神は菅原道真。境内社に伊勢神社・春日神社・塩竈しおがま社・愛宕神社などがある。江戸時代には大塩・小林こばやし北脇きたわき牛谷うしたに西浜にしはま(現高砂市)の五ヵ村の氏神で、一時期北宿きたじゆく村も氏子に入っていたという(増訂印南郡誌)。延喜元年(九〇一)菅原道真が筑紫へ左遷の時、伊保いほ(現高砂市)の湊に上陸、牛谷村の普光ふこう寺に詣でて宝鏡を奉納した。寿永(一一八二―八四)の頃、兵乱による災いを恐れた住僧は宝鏡を東方の小山に埋めたが、その所在がわからなくなったので、推定地に社を建て菅公の霊を鎮め天神山と称した。その後社を大塩村に移したという(同書)。「播磨鑑」によると天文二年(一五三三)大塩次郎が崇祀したとされる。

天満神社
てんまじんじや

[現在地名]高砂市曾根町

あま川の左岸にある。祭神は菅原道真で、天穂日命・菅原公達を配祀する。旧県社。天満宮・天神・天神社などと時代によってさまざまによばれ、曾根そね天満神社とも称する。社伝によると、菅原道真が大宰府へ配流されたとき当地に立寄り、小松を植え、のち四男淳茂が臣下一三人とともにゆかりの地に祀ったのが始まりという。応安二年(一三六九)二月二五日の法眼実勝田地寄進状(曾根文書)伊保いほ庄天満宮とみえ、実勝は灯油料として光包名のうち「ひのしり」にある三〇代の田を寄進している。嘉慶元年(一三八七)には赤松氏一族と思われる宗範が北宿きたじゆく(現姫路市)の住人弥七名闕所の田地三五代を寄進している。永正年間(一五〇四―二一)連歌師牡丹花肖柏は「陰ふかし世はこがらしの岩根まつ」の句を捧げ、戦乱の世を嘆き祈願したという。

天満神社
てんまじんじや

[現在地名]大和高田市大字根成柿

根成柿ねなりがき集落北端に鎮座。菅原道真を祀る。旧郷社。創建について「越智古老伝」に、永禄七年(一五六四)越智家高の時、宮八郷の段別一〇文をもって造営、正面天神宮は越智おち宮より勧請したとみえる。越智宮については由緒書(高市郡神社誌)に、もと越智城(現奈良県高取町)にあったが、再度の兵火のため同年に当地へ移したと記すので、越智氏が氏神として城内に祀っていたものと考えられる。

天満神社
てんまじんじや

[現在地名]橿原市太田市町

太田市おだいち集落北東に鎮座。高御魂たかみむすび神・神産日かむむすび命・菅原道真を祀る。旧村社。もと菅原道真を祀ったが、「延喜式」神名帳十市とおいち郡の「目原メハラノ坐高御魂神社二座並大、月次新嘗」に比定され(大和志)、祭神を追加した。神社の前で南北から東西へ曲流する小川を俗に目原めはら川と称し、社前には真目原まめはらという禁足地の小丘があった(磯城郡誌)。式内目原坐高御魂めはらにいますたかみむすび神社は「日本書紀」顕宗天皇三年四月五日条に「日神、人にかかりて、阿閉臣事代にかたりて曰はく、「磐余いわれの田を以て、我が祖高皇産霊に献れ」とのたまふ。

天満神社
てんまんじんじや

広嶺神社の境内社。祭神菅原道真。享禄五年(一五三二)の神名帳写(小野寺文書)に正一位天満大自在天神とみえる。雲月くもつき宮とも称され(若狭郡県志)、文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写に「雲月宮三反 西郷」とあり、社領が西郷にあった。現木崎きざき地籍に雲月の字名が残る。南北朝期には守護の庇護を受け、応安二年(一三六九)には代官海部信泰らが二季彼岸灯油料として畠三段半を寄進した(八月二五日「海部信泰・源久家連署状」羽賀寺文書)。別当は羽賀はが(現小浜市)で、永和二年(一三七六)一〇月二六日の沙弥某打渡状(同文書)に竹原天神社寄進田三町は、故大殿(山名時氏)が寄進したものであるが、前の代官篠沢入道(光永)が羽賀寺の衆徒に与えてしまったために、当社の禰宜が京都に訴え出て当社が勝訴したとあり、羽賀寺との間で寄進田地の権利をめぐる相論があった。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]山形市小白川町三丁目

笹谷ささや街道に面して鎮座。祭神日本武尊・菅原道真。旧郷社。小白川こじらかわ天神・払鬼ふつき天神とも称される。江戸時代太宰府天満宮・京都北野天満宮とともに幕府祈願所に定められたと伝え、日本三大天神の一であったという。社伝によれば、日本武尊が東夷征討の際、当地に陣営し天神・地祇を祀った。この陣を払鬼城と称した。天長二年(八二五)武尊の神霊を勧請し、払鬼城に社を創建、払鬼天神社と称し、庶民の崇敬を集めた。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]宇和島市三浦東

天満てんま地区の丘上にある。主祭神は菅原道真。旧郷社。

「宇和旧記」には「早鷹はやたか天神」とある。永正二年(一五〇五)二月二一日、橘清元とその子清之、孫毘沙丸が当社を修理した棟札が収録されていて、三浦の地域が当時橘氏の支配下にあったことを示す。また、天文一八年(一五四九)九月二九日、津島(越智)通繁の再興棟札も収録され、この時期に同地域が津島氏の支配下にあったことを示す。

江戸時代初期の元和四年(一六一八)鳥屋清助らが再興し、鰐口を夏秋源右衛門・深浦善助・弓立助兵衛・小網太郎左衛門・名切太左衛門善七・落浦善右衛門・相籠女源次郎が寄進している。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]宝塚市山本西一丁目

集落北西の丘陵地字すが森の天神もりのてんじん川際にあり、西の宮さんとよばれる。山本やまもと地区の産土神。祭神は菅原道真、旧村社。「摂陽群談」によれば能勢のせ枳根きね(現大阪府能勢町)の神輿が漂流し、天神川西の小池こいけ(中筋村)と山本村が揚げるのを競ったという。元禄一〇年(一六九七)の松尾社記(阪上家文書)によると泉流せんりゆう寺の観音が本地仏。鳥居は寛文元年(一六六一)、本殿は同五年、神輿は同九年にそれぞれ再興された。「摂陽群談」には多田満仲の家人若池兵衛貞満・坂上右衛門尉頼次の子孫が二四家に分れたとあり、この二四家が天神・松尾二座の社役を隔年に務め地元で「宮衆」とよんでいたという。文政一〇年(一八二七)には右衛門・兵衛・左衛門の区別を廃止し本座・新家の二つに再編した。

天満神社
てんまじんじや

[現在地名]橋本市南馬場

南馬場みなみばば集落の南部に位置する。祭神は菅原道真・天穂日あまのほひ命など。旧村社。「続風土記」には東畑ひがしはた・西畑・馬場・清水しみず学文路かむろ出塔でとう柏原かせばら(現橋本市)の産土神とある。相賀おうが南荘の鎮守で市脇いちわき相賀大おうがだい神社を「河北惣社」とよぶのに対し「河南天神」ともいわれ、応永三年(一三九六)九月二〇日の相賀南荘田惣目録・相賀南荘畠惣目録(又続宝簡集)に河南天神神領として田約六反、分米三石余、畠三反余、分麦豆一石余を記す。同二年一二月一〇日の相賀荘在家帳(同集)に、天神神主忠十郎の名がみえる。

天満神社
こしきてんまんじんじや

[現在地名]本郷町下北方 岸ヶ岡

かやいちの北側丘陵上、字きしおかに鎮座。祭神は菅原神・宇気母智神・速玉男命。伝えによると、延喜元年(九〇一)菅原道真が大宰府へ赴く途中、この地で使用した甑を里民に与えたので社を建ててこれを納め、道真を祀ったという。そのとき道真が自ら掘った井戸と伝える甑天神霊泉が、宮の東麓、街道より少し北にある。

今川了俊の「道ゆきぶり」に「此川(沼田川)にそひて西に、としふるげなる松山の中に、神の社一たてり、こしきの天神と申となり、これはかの御神つくしへうつされ給ひける時、こゝにて旅のかれ飯まいらせたりける物の具に、こしきといふものゝ残とゞまりて、今の世まで侍けるなるべし、やがてそのこしきをも社に祝たてまつりて、かたはらにをき侍なり、又そこにめでたき(清)水あり、これもかの天神の御手づから掘いだし給けると申」と記される。

天満神社
てんまじんじや

[現在地名]奈良市日笠町小字今井堂

日笠ひがさ町南西部にある。祭神は菅原道真・白山比しらやまひめ命・素盞嗚すさのお命。今井堂いまいどう社ともいう。旧村社。社伝によると、寿永三年(一一八四)一月源義仲敗走の際、家臣今井兼平が当地に天満神を勧請、社殿を建立したという。明治四三年(一九一〇)沓掛くつかけ(現奈良市)の白山神社、大正六年(一九一七)大野おおの(現同上)の八阪神社を合祀し三座となる。境内に慶長一八年(一六一三)銘の「和州添上郡田原庄笠村」と記した六角円柱形灯籠がある。

天満神社
てんまじんじや

[現在地名]敦賀市栄新町

正面しようめん町の南、表町おもてまち通にある。祭神は菅原道真、旧郷社。境内に地神社・光神社・雷神社・山王社・恵比須社・神明両宮の七社が鎮座しており、漁師の守神の恵比須社は北西の角に座している。応仁二年(一四六八)三月四日の畠地寄進状(永厳寺文書)に「天神の浜」、永禄元年(一五五八)三月四日の善妙寺目録(善妙寺文書)に「天神之森」「天神之後」とみえる。天文(一五三二―五五)川中かわなか御所辻子ごしよのずし町から当地に移ったと伝え(敦賀郡誌)、慶長八年(一六〇三)福井藩主結城秀康は津内つない町のうち五石を除地として与えた(越前国名蹟考)

天満神社
てんまじんじや

[現在地名]和歌山市和歌浦西二丁目

東照宮のある権現ごんげん山の西、天神てんじん山にあり、菅原道真を祀る。旧村社。「紀伊国名所図会」によると当社は、康保年間(九六四―九六八)橘直幹が大宰府から帰洛の途中当地に立寄り、菅原道真が大宰府左遷に際し和歌浦わかのうらで歌を詠じたことにちなんで社殿を築いたことに始まるという。また道真が和歌浦へ寄ったとき、漁民が網で作った円座に休憩したことにより、網引天神とも称されたという。

天正一三年(一五八五)羽柴秀吉の紀州攻めで焼払われたと伝え、のち桑山重晴が修造したらしく、「続風土記」は当社の本地堂や末社三宝荒神社に重晴築造を示す棟札があったと記している。浅野氏が入国すると、社地を整備、社殿を造営した(棟札ほか)

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]新庄市堀端町

現在最上公園になっている旧城内の本丸南西角にある。祭神菅原道真、旧県社。近世には天満宮とよばれた。新庄城主戸沢氏は古くから天満宮を信仰し、角館かくのだて(現秋田県仙北郡角館町)在城の頃も氏神として祀ったという(新庄古老覚書)。戸沢氏が常陸松岡まつおか(現茨城県高萩市)から新庄へ移封するとともに、天満宮も遷座された。

天満神社
てんまじんじや

[現在地名]奈良市南田原町

白砂しらすな川西岸、奈良県天理市福住ふくすみ町方面へ通じる道に面した天満山にある。祭神は菅原道真。旧村社。口碑によると、安土桃山時代山辺やまべ山田やまだ(現天理市)岩掛いわかけ城主であった山田道安の勧請と伝える。「経覚私要鈔」文安四年(一四四七)六月七日条に、興福寺大乗院門跡経覚が室生むろう(現奈良県室生村)から鞆田ともだ(現同県都祁村都水分神社)・田原天満を経て古市ふるいちへ帰着したとある。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]三間町曾根

曾根そねの南部の字仏崎ほとけざきの田の中に鎮座。祭神は菅原道真。

延宝九年(一六八一)の「吉田古記」には「天満天神宮一社」とあり、正保五年(一六四八)正月の棟札銘の写を載せている。それには「文体無別条、旦那木村伝左衛門其外村中之衆、特遷僧 安養寺住持栄昌、地蔵院住持宰相房」とある。

毎年九月一日に当社境内で若衆や少年たちが白刃をかざして踊る花踊がある。もとは八朔に行われた。踊の由来は、戦国時代、土佐の長宗我部氏が歯長はなが城を攻めたが落ちなかったので一計を案じ、天満神社境内で太刀踊をさせ、見物に出てきた歯長城主を踊の太刀で討ち取りその鼻を切り落した。

天満神社
てんまじんじや

[現在地名]市川町小畑

小畑おばた川右岸にある。祭神は菅原道真で、天照皇大神・大国主命・天児屋根命・須佐之男神・葺不合命・誉田別命を配祀する。旧郷社。中世には川述かわのべ郷に所在し、大宮天神社とよばれた。天正七年(一五七九)九月の大宮天神社神事次第(内藤文書)によると、神領として一町八反二五代の田地を所持しており、「練テノ相撲」・獅子舞・田楽踊・竜音舞・流鏑馬などの神事が記されている。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]広見町清水

清水の東中せいずいのひがしなかの北部の山地にある。祭神は菅原道真。旧郷社。

社伝によると、暦応元年(一三三八)までは社殿もなく、三本の神幣を立てて仮に天満宮としていたが、至徳元年(一三八四)鳥屋とやもり城主西河筑後が改めて京都北野きたのから勧請して、社殿を造営したという。のち永正九年(一五一二)には西河前豊後入道顕貴、天正八年(一五八〇)には西河美作守政輔らが再興したといい、元禄一〇年(一六九七)には清水村村民が大宿おおじゆく興野々おきのの両村民の協力により神輿を寄進した。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]南有馬町北岡 戊

北岡きたおかに鎮座。古くは天満宮と称した。旧村社。祭神は菅原道真。創建年代は未詳ながら、文治二年(一一八六)小島讃岐が京都北野社の分霊を奉じて大野おおのすが(現有明町)に着いたことに始まるという。のち有馬惟任(貴純)がこの分霊を現在地の北岡に勧請して氏神とし、田畑数十町を寄進して社領としたと伝える。有馬佐衛門佐の代には佐賀牛津うしづ(現佐賀県牛津町)方面にも信仰されていたと伝える。この頃の社領は二〇〇町歩で、例祭は二夜三日にわたり、駒射などの神事が行われたという。

天満神社
てんまじんじや

[現在地名]奈良市西包永町

佐保さほ川南岸に鎮座。祭神は菅原道真。俗に草天満くさてんま茱萸ぐみ宮とも称し、もとは多聞たもん(現奈良市)山頂にあったが松永久秀の築城で現社地に移ったといい、旧社地にあった佐保姫さほひめ(元明天皇墓碑)奈良坂ならさか(現同上)奈良豆比古ならづひこ神社に移したという(奈良坊目拙解)

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]西祖谷山村善徳

天神てんじん(一〇三三メートル)の北斜面に鎮座。祭神は菅原道真。善徳ぜんとく地内に飛地境内社の三所神社・五所神社・ひじり神社・三宝神社がある。社伝によれば、旱魃の時、菅原道真が諸国から雨乞の歌一二〇首を集めて神事を行い、各地でも雨乞踊を奉納したところ雨を得たといい、菅原道真を祀ったと伝える。当社で旧暦六月二五日に行われる神代踊(国指定重要無形民俗文化財)は、雨乞踊が起源ともいわれ、もとは西祖谷山各地で踊られていた。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]宮津市字万町 桜山

万町よろずまちの西南部に鎮座。天神社・天満宮とも称す。旧村社。

祭神菅原道真像は、もと豊臣秀吉祀るところのものと伝え、京極高広が社殿を再建してここに祀ることになったという。

境内に別当寺大窪山密厳みつごん成就じようじゆ院があった。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]廿日市町天神

廿日市の市街地を眼下にする小丘篠尾ささお(天神山)に鎮座する。俗に天神、あるいは天神さんとよばれる。旧村社。天満宮・新八幡宮・新宮の三社相殿で、菅原道真ほかを祀る。

「国郡志下調書出帳」によれば、天福元年(一二三三)に厳島社神主藤原親実がその氏神の鎌倉荏柄えがら天神を当地へ勧請したと伝える。「芸藩通志」は「安芸国神名帳」にみえる「建雄明神」を当社に比定する。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]福知山市字上天津 勅使

祭神菅原道真、旧村社。上天津の産神で近世には勅使天満宮と称した。天津文書に載せる縁起に、

<資料は省略されています>

とある。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]五霞村江川

江川えがわ中央の小高い丘に鎮座。祭神菅原道真。天保一五年(一八四四)六月の銘を刻む石鳥居に「天満宮」の献額がある。社伝によると棟札には「聖主天平文迦陵頻伽声、奉再建立天満宮一社、右者為天下泰平、国土安穏、氏子安全、如意満足也、哀心家生者我等今敬礼道姉別吾、関宿江戸町大悲山福寿院、寛政十一年己未歳八月吉祥日、社本弐間四方、拝殿二間四間、大工清右衛門、庄之助」とある。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]芦刈町大字芦溝字小路

芦刈町の北部にあり、祭神は菅原道真・中将殿・吉祥女(道真の母)の三柱である。旧村社。

建暦・建保年間(一二一一―一九)太宰府天満宮の分霊を勧請し、小城郡平吉ひらよし郷・なん郷・五百町いおまち郷の惣社と称された。その後明応年間(一四九二―一五〇一)より千葉氏の尊崇あつく、永禄―天正年間(一五五八―九二)以降、郷党の鴨打・徳島・持永の各氏、慶長年間(一五九六―一六一五)以降、神代くましろ氏の崇敬があつく、神殿の再建・神田寄進が行われた。

天満神社
てんまじんじや

[現在地名]奈良市七条一丁目

秋篠あきしの川西方に鎮座。菅原道真・蛭子えびす命・天照あまてらす皇大神を祀る。旧村社。七条天満しちじようてんまん宮・大教寺だいきようじ天神と俗称。天正二年(一五七四)八月六日造立の天神・恵美酒・雨宝童子の神像三体を蔵し、神像台座裏銘によると七条宮とも称した。

天満神社
てんまじんじや

[現在地名]高取町大字藤井小字ウエ山

藤井ふじい集落西方に鎮座。菅原道真を祀る。旧村社。もとは高取町市尾いちおみやもとにあったと伝える。本殿棟札に「天文十三年甲辰 藤井谷宮 家忠」「天正二年甲戌七月廿五日 藤井谷宮各座衆 源三郎 家教」とあり、古く藤井谷ふじいだに宮と称した。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]加悦町字加悦 天神山

江戸時代には天神社と称し、菅原道真を祀る。のち大己貴命・少彦名命を合わせ祀る。現野田川のだがわ町字四辻よつつじの天神が丘から加悦の小字宮野みやのに、さらに現在地へ移したと伝える(加悦町誌)。旧郷社。

天正一四年(一五八六)の当社棟札に「奉再興加悦庄市場村 天神宮 本願 福西安芸守 施主 毛利甲斐守・有吉宗宥・三上宗三」とある(宮津府志)

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]松野町松丸

松丸まつまるの字福井河管の森ふくいかわくだのもりにある神社。主祭神は菅原道真。旧郷社。

戦国期には土佐長宗我部勢の兵火に遭って、松丸の礁崎はいさきから宮の瀬みやのせに移り、貞享三年(一六八六)奥の谷おくのたにへ、安政五年(一八五八)に現在地へ遷宮したと伝えられる。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]八幡浜市穴井

宮下に鎮座する穴井あない浦の氏神。祭神は天穂日命・菅原道真。旧郷社。末社一六社。天正年間(一五七三―九二)頃、喰野山くらいのやま(位山)の城主井上備後守が鎮守社として崇敬したという。現在の本殿は文化四年(一八〇七)の建立である。神事・芸能に長命講伊勢踊・和気踊・五ッ鹿踊がある。

天満神社
てんまじんじや

[現在地名]石田町石田西触

石田西触いしだにしふれの南部に鎮座。古くは老松おいまつ天神と称した。旧村社。祭神は菅相国・吉祥女・老松殿。正平二四年(一三六九)の壱岐神領図(壱岐史拾遺)に「老松天神 西間 九十四町」とあり、西間さいまに鎮座していた。その社領は「西間村 筒城村 印通寺浦 河北村 志原郷 池田村 田原村 深江村」にあったと記される。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]吉田町白浦

しろ浦の海と集落を望む東の山麓に立地し、境内は楠の古木に覆われている。祭神は菅原道真・天穂日命・大国主神・少彦名神。明治四四年(一九一一)在浦の一一社を合祀し、天満主神社と称した時期もある。旧村社。

社伝によると寛元五年(一二四七)の創立という。延宝九年(一六八一)の「吉田古記」によると棟札の書写と思われる記事があり、延徳四年(一四九二)天満天神宝殿が建立されている。

天満神社
てんまじんじや

[現在地名]大塔村大字篠原

篠原しのはら集落北西方の森に鎮座。天神社ともいう。祭神は菅原道真。旧村社。一月一五日に社前で篠原踊(県指定無形民俗文化財)が奉納される。踊の発生については狼退治や木地師に関する伝承がある。式三番と称する奉納踊は梅の古木踊・宝踊・世の中踊の三番で、歌い手・踊り手・太鼓手から構成される。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]常陸太田市西河内中町

古くは北の東金砂ひがしかなさ神社(現久慈郡水府村天下野)への参道であった道の東側、小高い所にある。祭神は菅原道真。旧村社。西河内中の中山にしごうとなかのなかやまにあったが、元禄三年(一六九〇)徳川光圀の命で現在地に遷座したといい、「天満宮」の扁額は光圀の寄進という。

天満神社
てんまじんじや

[現在地名]大和郡山市若槻町

若槻わかつき町集落西端に鎮座。祭神菅原道真。旧村社。徳治二年(一三〇七)の若槻荘土帳(天理図書館保井文庫)の三条一里二一坪・二二坪に「寺社敷地」がみえ、ほぼ現在地に一致し、二条一里一八坪には天満社祭田一段が記載されている。

天満神社
てんまんじんじや

[現在地名]城川町遊子谷

祭神は菅原道真。社伝は元禄一三年(一七〇〇)庄屋別宮氏の発起で氏神として創建、文政八年(一八二五)現境内地を集落より奉納したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「天満神社」の解説

天満神社

和歌山県和歌山市にある神社。和歌浦天神山の中腹に位置する。菅原道真を祀る。本殿、楼門などは国の重要文化財に指定されている。和歌浦天満宮とも。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の天満神社の言及

【三間[町]】より

…三島神社の神官土居水也の記したとされる,清良の一代を中心とした軍記《清良記(せいりようき)》は農書としても著名。曾根の天満神社で9月1日に催される花踊は,土佐の長宗我部氏に滅ぼされた歯長城主の霊を慰める踊りと伝える。JR予土線が通じる。…

※「天満神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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