天神町(読み)てんじんまち

日本歴史地名大系 「天神町」の解説

天神町
てんじんまち

[現在地名]米子市天神町一―二丁目

うち町の東、加茂かも(外堀)南岸に沿って延びる町人町。西端はきよう橋、東端は天神橋に至り、対岸は岩倉いわくら町・たて町。宝永六年(一七〇九)の伯耆国米子平図、享保五年(一七二〇)の湊山金城米子新府(ともに県立博物館蔵)では片町五十人鉄砲かたまちごじゆうにんてつぽう町とみえ、近世中期以降のものとみられる伯州米子之図(同館蔵)では片原かたはら町とある。安政四年(一八五七)東端にあった天満宮にちなみ天神町と改称したという。明治初年以降一丁目・二丁目となる。近世前―中期には川沿いに家は少なく、前掲米子平図では町裏は陸田とある。伯州米子之図では京橋に近い川岸に七軒屋と記され、一八世紀以降川沿いの道を挟んだ両側に家が立並んだらしい。総間数二〇三間半、東端の天神・稲荷両社分は三一間余(明治二年「町々間数等書上」米子市史)。元禄八年(一六九五)の米子町中竈之覚(同書)では家持六〇軒・借家三三軒。文化元年(一八〇四)の下札に基づく生高二六石余、物成一六石余(同書)

町禄として船による運送業と宿屋を許され、艀持の船頭、丁持・中背が多く居住し、諸荷物宿や旅人宿も多かった。

天神町
てんじんちよう

[現在地名]函館市弥生町やよいちよう船見町ふなみちよう入舟町いりふねちよう

山ノ上やまのうえ町の上手(山手)を東西に走る通り沿いの町で、南東は愛宕あたご山下、北西はだい町に続いていた。明治五年(一八七二)二月、戸籍法の施行に合せて函館市街を三区に区画した際に一町として公認された。この時には愛宕山下の方から順に一―六丁目に割られており、大小区画割では一丁目が第一大区一小区に、二―四丁目は同二小区に、五―六丁目は同三小区に属した(明治五年「御達留」市立函館図書館蔵、「事業報告」第一編、明治六年函館旧市街図)。町名は町の南東方に祀られている天神社に由来。近世には山ノ上町の小名であったと考えられ、「芸人また小宿等のミ」が住む町であった(「蝦夷日誌」一編)

天神町
てんじんまち

[現在地名]中区中島なかじま

中島本なかじまほん町の東端近くより、元安もとやす川に沿って南に長く延びる町で、南側には満松まんしようかん神社や多くの寺があり、さらに武家屋敷地水主かこ町に続く。中島組に属した。

古くはふな町といったが、承応の切絵図では天神町となっており、寛永(一六二四―四四)中頃から正保―慶安(一六四四―五二)頃までの間に改められた。満松院菅神社があることからその町名が付けられたという(知新集)。しかし元和五年広島城下絵図は天神町筋の北部を中島本町の枝町湯屋ゆや町とし、その南に「天神町筋三町三十四間」と記している。

天神町
てんじんまち

[現在地名]金沢市天神町一―二丁目・小立野こだつの五丁目・宝町たからまち扇町おうぎまち

小立野台地下に沿ってほぼ東西に延びる町筋をなす。西は上材木かみざいもく(上材木町)、東は田井たい村に続き、北は町・田町新道たまちしんみち柿木かきのき町、南は小立野台および曹洞宗宝円ほうえん寺の寺域に沿う。上・下の二町に分れ、東側が上天神町、西側が下天神町両側町で地子町。町名は寛永一二年(一六三五)当地に遷座した田井天神社(現椿原天満宮)にちなむ(金沢古蹟志)

天神町
てんじんまち

[現在地名]松江市天神町

天神川北岸に位置する町人町。北は白潟本しらかたほん町、東はてら町、西はなだ町。天神川対岸のたて町との間に天神橋が架かる。町名は白潟天満宮が鎮座することに由来するという。当町は白潟本町から松江大橋を渡り、松江城に至る幹線道路の入口にあたることから天神橋北詰に勢溜りが設けられていた。堀尾時代城下図には町屋がみられ、勢溜りの天神橋北詰には直進できないように土塁が築かれており、白潟本町との境の十字路は鉤形路として敵の進入を防ぐ仕組になっている。

天神町
てんじんちよう

[現在地名]平戸市木引田町きひきだちよう 天神町

平戸城の南西にあり、かがみ川が平戸浦に注ぐ河口部にあたる。北に城内と結ぶさいわい橋があり、南は吉野よしの町、北は安富やすとみ町。裏手の勝尾かつお岳の麓に天満神社が鎮座、町名の由来となった。本町ほんちよう通六ヵ町の一つ木引田町に属する。江戸時代初期当地を中心にイギリス商館が置かれた。元禄一〇年(一六九七)当時の諸商職は呉服屋一・質屋一、吉野町と合せて味噌醤油酢屋三・菓子屋並饅頭屋四・豆腐屋三・諸色振売小商人一八、善積ぜんつみ町と合せて鬢付屋二、吉野町・善積町と合せて胡麻油屋四・打綿屋四・糀屋四・素麺屋五・刻み煙草屋七・問屋七・日用頭四、ほかに檜物屋があった。また同年頃の輸送用船は吉野町・善積町と合せて四反帆船二・三反帆船四であった(町方年鑑次第)

天神町
てんじんまち

[現在地名]姫路市幸町さいわいちよう城東町野田じようとうまちのだ城東町京口台じようとうまちきようぐちだい・天神町

姫路城の東方に位置する町人町。西神屋にしかみや町の東に連なる山陽道に沿う町筋。町名は市之郷いちのごう松本まつもと天神の神領地であったことに由来する(大正八年刊「姫路市史」)。慶安二年―寛文七年(一六四九―六七)の姫路城下図には外京そときよう口門の東に西神谷にしかみや町があり、その南に西神谷、現在の天神町にあたる所に東神谷と記され天神町の名はない。元禄八年(一六九五)写の姫路城図には不鮮明とはいえ「天神町」の文字がみえ、東神谷は記されていない。しかし貞享元年(一六八四)の姫路城下町大概(中根家文書)には「神谷分」として「天神町 橋本町 東神や 西神や」とあり、一八世紀半ば頃の記録と思われる播州姫路記(愛知県西尾市立図書館蔵)には「西神ヤ町 東神ヤ町 天神町」とある。

天神町
てんじんまち

[現在地名]浜松市天神町

東海道に沿って町並を形成する。北は佐藤一色さとういつしき村、南は向宿むこうじゆく村・福地ふくじ村、東は長上ながのかみ植松うえまつ村。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳に天神町とみえ、家数三九とあるが、石高の記載はない。延宝頃の青山氏領分絵図では天神町の高二九石余、向宿村のうち一一石余と福地村のうち五石余を天神町地子と記す。宿村大概帳には向宿村枝郷として高二九石余とある。正保郷帳元禄郷帳・天保郷帳など郷帳類では向宿村に含まれたものと考えられ、天保国絵図には向宿村のうち天神町とみえる。享保一二年(一七二七)当町の酒屋半六の屋敷から出火し、表通りの五六軒と裏小屋一二軒を焼失した(旅籠町平右衛門記録)

天神町
てんじんちよう

下京区間之町通花屋町下ル

南北に通る間之町あいのまち通を挟む両側町。北側は花屋町はなやちよう通に、南側は上珠数屋町かみじゆずやまち通に面する。

平安京の条坊では左京七条四坊一保一町南側及び同二町北側にあたり、平安中期以降は左女牛東洞院大路の東の地。当町北部は修理大夫六条顕季邸の地(柿本影供記)。また「山槐記」治承三年(一一七九)一一月三日条によると、町内北半分に平時忠邸の一部、南半分に藤原親家邸の一部があったらしいことが知れる。

天神町
てんじんまち

[現在地名]東条町天神

東条川上流右岸に位置する。北・南・東を天神谷てんじんだに村に囲まれている。慶長国絵図に天神町とあり、この頃にはすでに町立てされていたようである。集落の中央で丹波への街道と大坂へ至る街道が交差する宿場町であり、また商家が軒を連ねる在郷町でもあった。東条谷の中心集落である。正保郷帳では高二一石余(畠方のみ)幕府領。享保一三年(一七二八)から延享三年(一七四六)まで陸奥棚倉藩領(「組内村々申合覚」片山家文書)

天神町
てんじんまち

[現在地名]水口町城東じようとう

小坂こさか町の東、東海道を挟んだ両側町。町名は美濃部みのべ天神(現綾野神社)にちなむ。慶長五年(一六〇〇)以降東海道に沿って順次町並を形成したものと思われ、同七年の水口美濃部村検地帳写(水口宿文書)に町名がみえる。小坂町と同様に二度にわたる東海道の北側への移動が行われ、全町が心光しんこう寺境内北側に移された。

天神町
てんじんちよう

[現在地名]小樽市天神一―四丁目

大正四年(一九一五)の小樽区の町名改正に伴い奥沢おくさわ村より分立して天神町が成立。町名の由来となる天満宮は小樽市街新地しんち町に鎮座していたが、明治一一年(一八七八)旧天神小学校の裏山に移転、昭和八年(一九三三)現在地に移された。大正九年の世帯数七一・人口四一一(小樽市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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