両側町(読み)りょうがわちょう

世界大百科事典(旧版)内の両側町の言及

【京都[市]】より

…その結果,政治の上はもとより,文化的にも公・武,都・鄙が接触,混淆し,京都を場として新しい武家文化の形成される要因となった。室町時代,京都の都市的発展も進み,道路によって区画された条坊制の町から,道路をはさんで向かい合う居住者によってつくられた町,いわゆる〈両側町〉が生まれた。京都の代表的な祭礼として発展した祇園祭は,典型的な両側町である山鉾町の町人によって支えられた好例である。…

【町】より

…また道路に直接面しない町(まち)の内部に残された地域にも通じる小路,辻子(ずし)も成立してくる。面,頰が街路をはさむ向い側の面,頰と合わさって,ひとつの両側町(りようがわちよう)を形成し,この両側町が都市民の生活単位となって町(ちよう)と呼ばれた。これは南北朝の内乱以降に京都に出現し,応仁の乱の廃墟の中からあまねく成立する。…

【町】より

…律令制的都城制の〈まち〉が解体し,一面が分立し,それが〈ちょう〉と認識され定着するのは室町時代である。〈まち〉から分立した一面が街路を挟む向い側の一面と合わさって両側町(りようがわちよう)としての一つの〈ちょう〉を形成する。鎌倉時代末期から成立する一面単位の片側町は,対する面と合わさって,応仁の乱後,廃墟の中から誕生する京都町民の自治組織となる。…

【町割】より

…この敷地割が中世になるとくずれ,一つの街区が四つの面からなる四面町に移行する。やがてそれぞれの面が独立性を強めた丁(ちよう)と呼ばれるようになり,中世末にはさらに,縦横の街路をはさんで両側の丁で一つの町を構成し,両側町(りようがわちよう)が全面的に成立するようになる。中世京都におけるこの変遷は,都市の実際の居住者である商工業者たちが,実力で自分たちの活動に都合のよい,両側町という町割に作り変えたとみなすことができる(図1,図2)。…

※「両側町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」